自分の地元
川越にも近い埼玉県南西部のとある地域…ゆるキャラの群雄割拠w
新座市と志木市辺りが強そうですww
周辺散策していて古くからある地名でもないのに
木宮山、木ノ宮、木の宮などと『キノミヤ』と付く共通点はなぜ?
と思っても自分の思考回路では答えに辿り着けるか分かりませんが…
もう少しお付き合い下さい。
今の所、自分の頭の中で整理しているのは
①木宮がキノミヤ信仰…中世の頃から盛んになった熊野信仰と関係あったのでは?
②寺院の山号で木宮山(亀久保・地蔵院、大塚・西福寺)と付く所や、かつてはこの二つの寺院が別当とし管理していたのが三芳町上富の木ノ宮地蔵堂です。
鎌倉時代から室町時代初期にかけて政所執事などを幕府の事務方の要職に代々世襲した二階堂氏(ハッキリ明示できる資料や史跡、遺構もないので大井周辺はどの二階堂氏が地頭職などで支配していたかは不明です)が領有していた地域という事。
③木ノ宮地蔵堂含めて亀久保の地蔵院や大和田の普光明寺には
二階堂(六郷)氏にまつわる縁起や似たような共通の伝説がある事。
④今、木ノ宮地蔵堂は多福寺が管理するようですが…
多福寺境内には…熊野神社があった?ある事。
後で伺って理由は聞きましたが…
そんな事もあるのだと思いましたが後述します。
地元の歴史や郷土史で調べたい事があるとその自治体が発行している市史(各市・町・村史(誌))など読むと土地の歴史で知りたい事が載っています。
自治体によってはWEBで公開している所もあれば…目次など内容も分からないような所もありますが裾野市や新座市、和光市などは市史を公開されてて素晴らしいなと思います。
もしかして六郷氏の事で何か記述があるのでは?と思って探した六郷町史
秋田県仙北郡に旧六郷町があるとの事です。
今は美郷町に合併されている旧六郷町
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羽州街道が城下を通り
六郷氏が関ヶ原の戦い後、常陸国府中へ去った後入部したのが
秋田へ国替えになった佐竹氏。
あの佐竹義重が隠居地として城下町割りを整備し居城を構えた地が六郷との事です。
⑤秋田の仙北郡美郷町六郷周辺には武藏から下向したと思われる二階堂氏ら後の六郷氏に繋がる二階堂氏が国人衆の一人として群雄割拠の戦国時代を生き抜いて幕末を迎えた事。
以上を踏まえて
六郷氏に繋がる二階堂氏の系図を↓
六郷町史・下巻文化編やWikipedia参考
政行=有泰=照行=晴泰=某?系図によっては某とあるが不明
=道行※六郷氏を名乗る=某?系図によっては某とあるが不明
=六郷政乗
二階堂氏
※六郷町史・下巻文化編より
藤原氏の南家の系統で右大臣是公一四世孫行政が鎌倉幕府に仕えて、天歴元年(1184)10月に公文書寄人に補せられ、建久二年(1191)正月政所令となり、鎌倉の二階堂に邸宅を構えて二階堂と称された。
その長子行光は政所寄人、令を経て
建保六年(1218)政所執事に補せられてから子孫相次いでこれを世襲して繁栄し幕府末年に及んだ。次子の行村は建保元年(1213)和田合戦に功を立てて
相模国大井荘を賞賜されその子孫はすこぶる繁栄した。
室町時代以降には、二階堂氏の一門は相模、武蔵、上総、常陸の関東地方から東は陸奥、出羽に及び西は東海道の駿河、甲斐から近畿の美濃、伊勢、紀伊よりさらに中国の因幡、美作、安芸、長門の諸国、南海道の伊予、西街道の薩摩において有力な豪族として事績を伝えている。
六郷氏
※六郷町史・下巻文化編より
近世出羽(秋田県)本荘藩。藤原姓。二階堂行政の後で代々出羽仙北地方(内陸部)の六郷の豪族であったので六郷氏を称するようになった。
戦国時代末期、六郷政乗の代になって盛んとなり、小野寺、戸田、本堂などと共に仙北七人衆と称された。
豊臣秀吉に従って本領安堵され、約二万石を領した。関ヶ原役には徳川家康に属したが、佐竹氏移封に絡んで常陸府中に移された。
※常陸府中藩を立藩
大坂役後、元和九年(1623)出羽国に還封、由利郡本荘に二万石を領した。
子孫伝襲し戊辰の役には官軍に属して戦功があった。
旧子爵。
小藩ですが幕末まで六郷氏が藩治していたのですね。
それ以前、六郷政乗公は一時、常陸府中藩主だったようです。
そうなると…
二階堂氏が六郷に入部したのは具体的にいつ頃か?
旧大井町周辺にも二階堂氏に関わる伝承がある中、
二階堂氏は鎌倉幕府~室町幕府初期や
鎌倉公方でも仕えていた資料がありますが
さぞかし名を残すような順風満帆な氏族なのかと思いきや…
弘安八年(1285)北条得宗家、身内人と御家人との争いになった
霜月騒動では二階堂行政の子、行村の系統の二階堂氏惣領家(隠岐家)は安達(足立)氏ら御家人側に与して没落します。
↑埼玉で荒川中流域左岸の地域は『足立郡』と古くから言いますが頼朝旗揚げ時からの有力御家人として絶大な勢力を武蔵国に誇った足立(安達)氏ら一族が没落する騒動だったようです。
またほかの氏族の惣領家が没落し庶流家が台頭するキッカケになったようです。
鎌倉幕府滅亡に際して小手指ヶ原の戦いで云い伝わる二階堂氏の話(要約)だと…
負け戦で逃げる際、地蔵堂で微睡、夢の中にお地蔵さまが現れて地蔵丸を授かりそれをもって戦いに勝利した…
ので大井の六郷氏に繋がる二階堂某は生き残ったのでしょう。
六郷町史下巻文化編の年表には↑
二階堂出羽入道道蘊(貞藤)の一族が1335年六条河原で処刑され四散とあります。
中先代の乱で北条方に与したようです。
この時に生き残った人物で後裔という
禅師道叟道愛(どうそうどうあい)
六郷で二階堂氏庶流の久米氏の一族との事ですが
秋田縣史談だと六郷氏の祖先は如何に↓とあり
六郷家の略系だと
処刑された二階堂道蘊(貞藤)の系統から
奥州岩瀬郡那須賀川城主の二階堂盛義
六郷政乗の時代と被るのでなぜ載せているのか?関係性が気になりますが
時代を遡って、信濃判官行忠が出羽国仙北郡に来て移り住むとありますが
信濃判官というと行忠の兄、行綱の別名ですね。
行忠は二階堂氏の祖、行政より子の行光→行盛→行忠で六郷町史に載る系図だと…中略あって追記しましたが一致しますね。
行忠→行宗→行貞…行元
行貞の系統から六郷氏に繋がるのは間違いようですが
…忠広=之忠=忠行=
六郷家に伝わる六郷家二階堂氏の中盤当たりの系統の家系図を見ると
~行元の系統は忠広(元栄)・之忠・忠行と継承され~
信濃流二階堂家の系統が六郷家に繋がっているようです。
信濃流二階堂家と言えば官途名も信濃守を世襲するのでしょうか?
ちょっと気になった資料で
永享七年(1435)
鎌倉公方足利持氏に仕えた二階堂信濃守(盛秀)が登場します。
大井町史だと、この二階堂信濃守の系統が大井郷周辺を治めて現在の亀久保の地蔵院辺りに城館や別荘、持仏堂などがあって木ノ宮地蔵堂の縁起にあるような伝説があってから木ノ宮地蔵堂を再興し仁王門を建立し二階堂氏に関わる大塚の西福寺や亀窪の地蔵院で別当としてごく近年まで管理した理由のようです。
その時、往路として二階堂氏や武士が通った道が大塚街道との事です。
亀久保(亀窪)が起点の大塚街道は南大塚(大塚)からさらに進むと
狭隘な県道114号線(※現在は旧道)に繋がっていて二階堂氏が池辺(池野辺)郷は古くから入間川右岸の重要な郷村だったのでしょうね。
こうやって見ると亀久保の地蔵院辺りが往路が交わる要所になっていますね。
1384年二階堂三郎左ェ門道晴、武州から下向とあります。
至徳年中に諏訪神社(※現・秋田諏訪宮)を再建するとあります。
秋田諏訪宮のHPにもこれと関連する二階堂氏と一緒に六郷へ入部した諏訪氏の由緒が載っていました。
六郷町史下巻文化編の年表の記載↑と本文では少し違う内容で載っています。
二階堂遠江守行基(元?)は仙北郡の城主行基。
至徳年中に下向時に土岐、佐々木両典を召し供とする…とあり
土岐氏は矢部と名乗り佐々木氏は須田と名乗る…と要約すると書かれています。
婆沙羅大名で有名な佐々木道誉や土岐頼遠などと関係がある?氏族と一緒に下向したならば…何があったかは不明ですが歴史って面白いですね。
1537年、二階堂長五郎道晴、武蔵から来て二階堂両家合体し石名館に入る…
とあります。
大井町史では1537年北条氏綱が河越城を攻め扇谷上杉朝定から奪取した時期と重なるので影響があったようです。
二階堂氏が合体ですか…?
特別な事情がなければ難しそうな感じもしますが
どこかで見覚えのある長五郎ですか…!?
六郷政乗の父である道行の代に六郷氏を名乗ったとありますが
政乗から見て祖父に当たる人が某だったりニ、三代前の人が不明な点?
あえて六郷家系図で明らかにしていないのが不思議ですが
町史では詳らかに出来ない事情があったのだろうと推測しています。
新撰秋田縣史談だと
菅江真澄遊覧記月の出羽道 仙北郡11 ※10番目の絵図
に六郷古城跡の絵図があります。
佐竹氏が常陸から秋田へ転封後は佐竹義重が六郷城下に入り小野寺氏の遺臣と思われる六郷一揆を鎮圧し城下を守り六郷の町割りを整備したようです。
亀久保の地蔵院と
大和田の普光明寺は
六郷家の祈願寺だったようです。菩提寺は由利本荘の永泉寺
普光明寺を何度か訪れて山門右脇の鎌倉街道沿いにある小社が気になりました。
特に何が祀られているか、案内板やお寺の説明にもないので分かりませんでしたが凄く気になって…
手を合わせてお参りして帰ってから色々調べると…お地蔵さまとの事です。
【引導地蔵さま】
↑見難くてすみませんが…
要約すると文化二年(1805)普光明寺に阿闍梨法印覚円という修業を積んだ僧が紀州、高野山へ立ち寄った帰り道に迷い日が暮れて疲れて眠っていると近付いてくる気配の方を見るとお地蔵さまでした。
『覚円よ私の顔を向いている方へ下山せよ』
お地蔵さまが顔を向けた方へ下山すると無事村まで下りられ寺に帰ってから
夢に現れ道を教えてくれたお地蔵さまの姿を石に刻み祠を建てて供養し祀りました。
ところがある日、和尚さんが出掛けると不思議な事に…
『覚円どこへいく?』
と声がすると声の主はお地蔵さまで
以降、外出する時は必ずお地蔵さまに報告して出掛けるようになったとの事です。
故郷を遠く離れる近郷の村人は引導地蔵へお参りしたそうです。
※写真で見たらお地蔵さまというより座禅を組んだ高僧みたいな印象です。
お地蔵さまもそうですが【覚円】という和尚さん。
大井町史発行以前に刊行された『図説大井の歴史』を読んで
実在の人物で六郷氏と深く関係ある人物では?と気付きました。
町内の寺子屋
①亀久保の地蔵院・宥円
宥円という和尚さんは六郷家家臣山口氏の子との事!
で…
普光明寺の覚円が地蔵院の宥円になるのでしょうか?
宥円が覚円に弟子入りしたと読めばいいのか…?悩
時代考証的にも合うので、ちょっと驚きましたが不思議な縁を感じます。
六郷家は亀久保の地蔵院に本荘藩家臣の子を住職として使わしているので
やはり二階堂氏(六郷氏)父祖の地なのでしょうか?
遠く離れた秋田と大井とを結ぶ縁を感じます。
亀久保の地蔵院は昭和27年に火災で焼失しましたが…
二階堂氏の末裔、六郷兵庫頭(政恒)が亀久保の地蔵院に寄進した十三仏掛軸があります。
木になる名前と気になる名前①~③で
自分が住む地域にキノミヤと付く所に気付き
それが二階堂氏(六郷氏)と不思議な接点がある事。
口承や伝説、様々な昔話の数々が資料には残らないけど史実であったのでは?と思う事が調べてみて感じましたが
旧大井町に六郷氏との縁や地蔵堂を巡る不思議な共通点も感じましたが…
昔のままの地蔵街道をあえて通って三芳町上富の多福寺へ
多福寺の参道前の通りに出ますが途切れてても昔の往来は真っ直ぐこのまま
木ノ宮地蔵堂へ続いていたようです。
臨済宗・三富山多福寺
山門が立派です
さきたま文庫の【多福寺】を購入するため庫裏で伺うと…
文字数制限でまた中途半端で意味不明ですが…続きます。
今日もご覧頂きありがとうございます。