木になる名前と気になる名前…?③ | 力太郎のブログ

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近所の散策や自転車いじりとか…

新座市大和田にある福寿山普光明寺

真言宗智山派の寺院で本尊は不動明王です。

山門が大変立派ですね♪

 

普光明寺本堂

実は山門から真っ直ぐ進むと千体地蔵堂です

本堂前にある地蔵堂は

源頼家が奉納したと云われる千体地蔵尊が納められており三十三年ごとに御開帳される秘仏との事です。

 

 

二度目に訪れた時は河津桜が綺麗に咲いていました。

新座市大和田にある古刹が二階堂(六郷)氏と?どういう関係があるのかというと…

↑現在の住所だと新座市大和田

現時点で具体的にどの地域に該当するか分かりませんが

小字名で【二階】とあり、二階堂と関係あるのか?気になりますね。

 

 

昔六郷某が武蔵野合戦に負け落人となりこの地蔵堂の中で微睡し霊夢を蒙(こうむ)ればそれより引き返し勝利を得た。

その時の帯びた太刀は【地蔵丸】と名付けた~

というような話なのですが…

 

この話が二階堂(六郷)氏に関わる

三芳町上富にある木ノ宮地蔵堂や江戸時代は普光明寺の末寺だった

ふじみ野市(旧大井町)亀久保の地蔵院と関係ある大井町の昔話でも大井町史民俗編などに口承されている共通した話が語る人の文言で差異ありますが似たような内容で伝わっていますね。

※普光明寺に言い伝わる武蔵野合戦小手指ヶ原の戦いだと合戦の年代や戦いの意味合いが違うのでどっちが史実に基づいた伝承か気になります。

 

先ずは三芳町史・通史編に記載有る【武蔵野木宮地蔵縁起】を読むと

前段は木宮地蔵と坂上田村麻呂伝説との関係

この地で木ノ宮地蔵堂が建てられた由緒が詳しく書いてあります。

中段から二階堂隠岐入道(二階堂行村か?)と木宮地蔵との関係

時代は下って鎌倉時代初期

頼朝の勘気に触れ奥州出羽に三年間流されていた二階堂隠岐入道

頼家が将軍になり許しを請うために鎌倉に向かう道中草深い木ノ宮地蔵堂の辺りで道に迷い困っているとある一行が現れて

木宮地蔵(権現)使いの愛宕権現(将軍地蔵?)から太刀を授かって

鎌倉へ行くと許しを得られて頼家より奥州出羽国六郷を賜った

ようですが

普光明寺に千体地蔵尊を奉納した頼家と、頼家に許しを請うため鎌倉へ向かった二階堂隠岐入道…偶然にしては不思議な因果を感じます。

 

 

後段は出羽国六郷を賜った二階堂氏

二階堂氏の子孫、末裔である六郷氏の鎮守とし今は無い仁王門を建立し武蔵野地蔵尊霊験あらたかで参詣者多く今に至るが寛永一九年(1642)火災で焼失その後再建したとあるので古くから伝わる坂上田村麻呂伝説と二階堂氏の木宮地蔵尊(地蔵堂)との関係、二階堂氏には諸氏多いけど末裔である六郷氏の家伝をまとめて木宮地蔵尊縁起で書いてあるようです。

町史に要約書かれてますが

この地での地蔵縁起が坂上田村麻呂伝説と結びつき将軍地蔵を本地とする愛宕信仰と邪気や境目の塞ぎとする道祖神信仰と融合した古来からの地蔵信仰なのだろうと思いましたが

二階堂(六郷)氏にとっては大事な場所なんだと思いました。

大井町史・民俗編だと

戦いに敗れて力尽き草原で倒れていると夢にお地蔵さまが現れて地蔵堂に団子があるから食べてもう一度旗揚げすれば勝てると言われ戦に勝った話と…

途中、アンパンマン的な団子を食べなさい的な話も出てきますね…

この話は新座市普光明寺の六郷某の話と似ていますが具体的ですね。

以下内容要約すると

新田義貞の旗揚げに参加したであろう二階堂氏が北条方との戦の一つ

小手指ヶ原の戦いで二階堂氏は破れ逃げ帰る途中

追ってきた敵兵は月夜に咲く蕎麦畑の花を大川(河)と見誤って深く追撃するのを諦めた。二階堂氏は亀久保で鋭気を養い地蔵堂に納めてあった地蔵丸を授かり北条方との戦に勝利し鎌倉まで攻め大勝利した。

お礼に祈願寺として亀久保に地蔵院を建立した。

二階堂(六郷)氏と関係あるから家紋が亀甲紋であるという…

ふじみ野市(旧大井町)に伝わる話です。

伝説に脚色された感もあれど、蕎麦の花が咲く時期を思うと…旧暦の5月ならば?小手指ヶ原の戦いの時期(元弘三年・1333年5月11日)の話として口承で伝えられた6月頃から咲くであろう蕎麦畑の花を大河に見誤った話も真実味がありますね。

↑大井町史通史編上巻より

 

木ノ宮地蔵堂ある三芳町史・民俗編だと

 

木ノ宮地蔵の云われ①~③ですが

土地の古老の話だと二階堂(六郷)氏は登場せず、【武蔵野木宮地蔵縁起】は元は三芳町旧家の所蔵ですが二階堂氏の部分の記述もあるのに古老からは出て来ません。

これが木ノ宮地蔵堂の史跡案内板には坂上田村麻呂の縁起部分のみで詳しい解説無かった理由かもしれません。

二階堂氏の話では?と思う部分も坂上田村麻呂伝説にすり替わっていたりしますが部分的な信憑性の有無も少し感じますがその当時聞き及んだ土地の人々に代々言い伝わっている話なのでしょうね。

ここであえて登場する『地蔵丸』三富新田開発を行った柳沢吉保家に伝わったのでしょうか?

確かめる術はないですが

地蔵丸が某所(柳沢家?)に今もあるのかが気になる記述です…

六郷氏の事を調べるなら…

今の秋田県仙北郡美郷町に合併された旧六郷町

六郷町史を読めば何かわかると思い

ヤフオクで検索すると出品があり入手しました。

 

 

二階堂氏

※六郷町史・下巻文化編より

藤原氏の南家の系統で右大臣是公一四世孫行政が鎌倉幕府に仕えて、天歴元年(1184)10月に公文書寄人に補せられ、建久二年(1191)正月政所令となり、鎌倉の二階堂に邸宅を構えて二階堂と称された。

その長子行光は政所寄人、令を経て

建保六年(1218)政所執事に補せられてから子孫相次いでこれを世襲して繁栄し幕府末年に及んだ。次子の行村は建保元年(1213)和田合戦に功を立てて

相模国大井荘(※注1)を賞賜されその子孫はすこぶる繁栄した。

室町時代以降には、二階堂氏の一門は相模、武蔵、上総、常陸の関東地方から東は陸奥、出羽に及び西は東海道の駿河、甲斐から近畿の美濃、伊勢、紀伊よりさらに中国の因幡、美作、安芸、長門の諸国、南海道の伊予、西街道の薩摩において有力な豪族として事績を伝えている。

 

※注1

今まで話している旧大井町(ふじみ野市)は入間郡大井町で二階堂氏が和田義盛の乱(和田合戦)の功績で相模国大井荘を得たのは間違いないですが

ビバホームが偶然か?と思いましたが元々は村山党金子氏や大井氏が所領していた所、和田方に与して没領され箱根に通じる重要な往路ある地を二階堂氏の一族が賜ったようです。

村山党大井氏発祥で本貫地であるはずの入間郡大井の地も他の村山党を牽制する目的もあったのか?同様に奪われてしまったようです。

大井氏を含めた村山党諸氏は執権政治を行う北条得宗家と御家人との間の争いに巻き込まれたようですね。

旧入間郡大井町を含む三芳町上富や川越市南大塚を含む地域に二階堂氏が領有し治めた歴史的史実や古文書など記録があるのか?と言えば…ないのですが…

近郷で二階堂氏に関連する資料は?

 

 

↑埼玉苗字辞典に記載有る内容ですが以前から元になった資料は何か興味がありました。

志木市史全巻揃って出品されてて安かったので購入しましたが通史編の年表に

↑う~む…これだけの記載です…汗

後年書かれた館村風土記に『二階堂土佐守』という人物が登場しますが二階堂家の系図に見ない官途名、実在した人物なのか?市史では信憑性が怪しく一例で紹介されてますがハッキリとした歴史的な資料ではないようです。

↑柏の城三の丸跡、普光明寺末寺の長勝院があった地に咲く長勝院旗桜

ただ『館』という武士の城館特有の古い地名で鎌倉街道ある地形的立地に田面長者・藤原長勝の柏の城伝説ある地です。

志木市史購入して(民俗編①.②は充実し良い史料です)…あまり今回に役立つ資料は無いな…と思いましたが

志木市史・中世資料編に二階堂出羽入道道簾なる人物に関する資料があるそうです。

駿河入道忻恵が、あの二階堂行春ですか!

興国3年/康永元年(1342年)9月6日、笠懸の帰りに行き会った光厳上皇牛車に対して、酒に酔った勢いに任せて「院と言うか。犬というか。犬ならば射ておけ」と罵って牛車を蹴倒す(矢を射たとも)という狼藉行為を行った。

上皇に狼藉行為を行った土岐頼遠と一緒に居合わせたので讃岐に流されていた人物ですが…武蔵国、今の埼玉県川口市にも所領があったようです。

柳瀬川右岸(新座市・志木市)には

鎌倉街道(奥州街道)が通り左岸側(富士見市)も

鎌倉街道と呼ばれる小径があるそうですが奥州征伐・奥州合戦の時はいずれかの道を大軍勢が通ったのでしょうか?

二階堂氏の始祖に当たる二階堂行政

大手軍として戦いに参加しています。

幾つかある二階堂氏の奥州入部が大河兼任の乱以降

や六郷町史・民俗編の年表だと…

下向する時代に隔たりがありますが六郷氏に繋がる二階堂氏が武州、武蔵

要は埼玉武蔵国から離れざる負えない深い一族の事情があったのでしょうか?

 

二階堂氏と木宮が何か関係すると思い調べるも…資料面でこれだと言える部分が見つからないです。古文書あったとしても戦乱や災害で失われた物もあるのかな?と思いましたが

 

 

木宮(キノミヤ)

↑①~③通して不思議な共通点があるな…と思いました。

まずは寺院の山号(木宮山)と稲荷神社(木宮稲荷神社)だったり

木ノ宮地蔵堂ある場所(上富字木ノ宮)の小字だったりする

木宮(キノミヤ)

Wikipedia見ていると…

キノミヤ信仰のある解説の部分が案外正解かも?と思う次第です。

三芳町の多福寺へ行きある小冊子がどうしても欲しくて購入しました♪

↑の多福寺境内の図を見て鼻血が…ww

そうです!

熊野神社が何故か三富開拓民の菩提寺である多福寺境内に…

なぜか?あります!!

あれ…?

熊野神社はどこに…(。´・ω・)?

纏まらない意味不明な内容で申し訳ないですが④に続きます♪

 

 

今日もご覧頂きありがとうございます。

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