ショートカットどころか?この自転車に乗って家まで帰れるか不安になってきました…
これを見た瞬間!?
まだ新しい自転車がドナドナ処分された理由が分かった気がします…
どうやって治すのか?
取り敢えず応急処置で前輪の14mmのハブナットを緩めてタイヤとフォークの左右隙間を均等にしてハブナットを締めました。
TONE ロングめがねレンチ(45°) 二面幅14×15mm HPM45-1415
2,020円
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※家を出る時、胸騒ぎがして14mmと15mmのレンチも持参してて助かりましたw
同サイズ二丁ないのでハブダイナモの端子部分が共回りするのでオートライトの配線は予め抜いてから作業しました。
まだ道中、何があるか?分からないので気を引き締めて…
不動橋からは舗装されてて走りやすい。
純正品ではないが特大Dバスケットの
ステンレスの籠も大きくて良いですね。
滑川と市野川(※Googleマップの誤植か?滑川が市野川で記載されてましたw)の合流地点ですね。
旧流路の跡を感じつつ
天気が良くてポタリング日和
インター5のギア比でも追走できるな…
左に見える山裾の辺り…
そろそろ見えて来たかな?
吉見百穴。
堤防上の道から左折
昔の横穴墓で埋葬品が出土していますが
一騎坂近くの川越の岸町にも似たような横穴墓があるらしいです。
薄葬令が出てから?公に古墳が作れなくなり
こういう埋葬のされ方をしたのかな?と思いますが要は𡋽(ハケ)と呼ばれる段丘壁を古代の人たちが生かしたそうです。
これだけの横穴墓があるという事は…
古くから人々が住んでいた証ですね。
戦時中は軍需工場として利用されたそうですが
週末ドライブというと昔から何故か?よく行っていたw
でも、ある一角の雰囲気が怖いので
今回はパスです…
一応観光案内図を↑
埼玉ふるさと散歩 比企丘陵編
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埼玉ふるさと散歩比企丘陵編から一部抜粋引用すると
吉見百穴は、凝灰岩の丘陵斜面に造られた古墳時代後期(7~8世紀)の代表的な横穴墓群で、明治20年に坪井正五郎氏によって237基の横穴墓が発掘されて人骨の他副葬品として、金環・銀環・勾玉・管玉・小玉などの装身具、直刀・刀装具・鉄鍬の武具類、須恵器・土師器・円筒埴輪等が出土した。現在は219基の横穴墓が確認されている。
とあります。
江戸時代の人から見れば何の穴か?
謎だったでしょうね。
埋蔵文化財センター
一段低い所は市野川の旧流路が
駐車場になっていました。
そういえば…松山城址はこの辺り。
というか、この丘陵地帯ですね。
雪が溶けずに凍っています。
滑らないように…
この辺で自転車を置いて
なんでしょう?この格子は…↓横穴の横に
松山城跡の
史跡案内の看板
↑特に云われは書かれてませんが戦時中に掘られた遺構でしょうか?
これが、もしかして?松山城下まで掘られていたのでしょうか?
↑凄いな…
※行く気満々でしたが相当時間が掛かるかも?
松山城は吉見丘陵の南端に築かれた北武藏地方屈指の平山城との事。
東武東上線の歴史散歩だと
東武東上線歴史散歩 (史跡をたずねて各駅停車シリーズ)
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松山城は「流川の城」と呼ばれるように、北から流れてきた市ノ川(市野川)が蛇行して城跡の丘陵を北・西・南の三方から囲んでおり東側は荒川の氾濫原となっていて理想的な天然の要害をなしていた。
とあります。
よく見ると…
【根古屋】という字がありますね!
↑川越市寺尾や下新河岸周辺には歴史に埋もれた城址があったようですが
推定地ですが【猫山】という古い小名があるのが根小屋(根古屋)転じた名前でしょうね。
松山城址周辺は小名であるように典型的な根小屋集落なんですね。
松山城址の西側の断崖壁は日陰なのか雪が凍って残っていましたが、この道を進むと
かつての根古(小)屋村の中心部へ行けるようです。
新編武蔵風土記稿にも根小屋(根古屋)村の記述があり松山城址や繰り広げられた戦いの様子が記載されてます。
小名が興味深いですが↓に見える建物が春日社だったのでしょうか?
数々の松山城を巡る攻防で興味深い記述が…
地元に近いので難波田弾正正直(善銀)の活躍ぶりですね。
閉鎖されてますが…
これが有名な岩窟ホテルですか!
明治の頃…農夫の高橋峰吉さんがのみのみで21年間かけて
松山城址・崖の凝灰岩の柔らかい岩窟を掘ったそうですが…
岩窟掘っているから「岩窟ホテル」と呼ばれたらしいですがw
宿泊施設としては機能してなく
昔々は観光施設として入場料を取って中を見学できたそうです。
岩窟ホテルの横並びに…
岩室観音堂
松山城の裏門・北崖にある観音堂
石仏が多く祀られていますね。
観音堂の建築様式は京都の清水寺と同じ縣造り。
この地方では珍しい貴重な建造物との事。
代々の城主に篤く信仰されたが天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐では観音堂は灰燼したが奇跡的に観音像残ったそうです。
観音堂は寛文年間(1661)に造営されたそうです。
凄いw
道路から直近なので車に注意して参拝見学しましょう。
全体を撮りきれない。
岩室観音と石仏
四国八十八カ所観音霊場を巡ったのと同じ功徳が得られるそうです。
胎内くぐり
観音堂の二階に上がれそうでしたが…
壊すと怒られそうなので遠慮しましたw
振り返って…
手摺りはあれど急なのと車道が近いので車に注意。
松山城址の裏門・北崖ですが石仏も所々に祀られています。
当初、ここから松山城を登城しようかな~と気軽に考えていましたが…
( ̄▽ ̄)…
なんだろう、滑ったら道路まで直滑降w
松山城の北の守り
竪堀との事です。
どう見ても残雪ありでw軽装備なので諦めました。
ただし、ここを馬で駈け登ったのではという逸話が
天文六年(1537)上杉朝興が河越城で亡くなると
北条氏綱が河越城を攻略
扇谷・上杉朝定は河越城を放棄し
松山城に逃れると、氏綱は余勢を駆って松山城まで攻め寄せた。
扇谷上杉氏家臣の松山城主・上田又次郎政広はこれをよく防ぎ落城は免れたが北条勢は城下を焼き払って引き上げた。
この攻防戦の時、上田政広の家臣・難波田弾正善銀は味方の不利に松山城に引き返す時
北条方の将、山中主膳が駆け寄り歌で問いかけた。
あしからじよかれとてこそ戦はめなど難波田の浦崩れ行く
と敵から読みかけられて難波田はふりかえり、
君をおきてあだし心を我もたは末の松山浪もこえなん
と詠み返し駒足早く消え去ったという。
『河越記』にある有名なエピソードとの事。
難波田よ、戦わずになぜ逃げるのだ。という問いに対して、難波田弾正は、主君・朝定を館に残して私が妙な功名心に駆られ、ここで討たれれば、松山はたちどころに寄せてくる波のような敵に攻め落とされるだろうという意味である。
『古今和歌集』の一首を本歌撮りとした、当意即妙の難波田の返歌に
「かけひきしれる勇者」と人々は絶賛したという。
城に残した幼君の身を案じた難波田弾正は松山城の裏門である切り立った岩壁を乗馬のまま駆け上がったとも言われるそうです。
その逸話・伝説が史実なら地形的にここしかないですね。凄いな…
市野川橋
河川敷に降りられますね。
今まで通り過ぎていたのでw
こういう史跡があるとは思わなかったが訪れる価値がありますね。
松山城址西側から登城するか?
市野川橋を渡るか悩んだが
県道を左折し松山城址南側を進むと
登り口がありました。
思いの外城域が広そうなのと…
自転車の件でテンション下がり気味…w
探索時間を思うと今回は止めておこう。
県道を東へ進むとバス停が『流川』なるほど…
松山城址を見て、また近いうちに必ず行こうと後にしました。
短大がある所も松山城址の遺構がかつてはあったそうです。
↑そういえば…松山城散策の動画がありました。
キャッスル!キャッスル!したかったw
今日もご覧頂きありがとうございます!
続く