発達障害と狂気。
結局テーマの完結を年越しした形となりました。
今年内に無事完結できればいいのですが。
自分としては、人類の文化史がコンフォームドな思考よりもオリジナルな思考によって創造されてきたという認識を前提としたいです。
しかし、ここで本来問題としたいのは「発達障害と狂気もしくは文化との不可分なかかわり」であって、
あまり論じられないわりには重厚な問題を含んでいたりと実に厄介です。
そもそも人類史のなかでもっとも共同体から真っ先に排除された精神疾患が何かといえば、精神薄弱とメランコリアという話があるように、
その理由は至って簡単で、現代で云う第一次産業にうまく従事できなかったからであろうことは疑う余地はありません。
しかも、労働の内容が高度にかつ複雑となってきますと、そこから脱落するサブノーマルな人間群も増えてるんじゃね?と思われる向きもあるでしょうが、
現代が電脳化の時代であるとすれば、サブノーマルな人間群も以前より仕事が見つけやすくなっているとも云えます。
と言っておきながら、実は就労そのものが依然重要かつ慎重なテーマであり続けている以上、現状をどう評するかは未だひとそれぞれという領域なのでしょうけど。
発達障害という狂気を抱えた存在からすれば、ここ近来の情勢の変化により、障害の現れ方が「多分薬でどうにかなるであろう」というだけでなく、啓発やケーススタディによって当事者の心性をある程度まで理解されるうえ、
社会生活や文化システムに当事者を組み込んだうえでどうにか生活していけるであろうというように、楽観的な考え方が支配的になりがちであるわけで、率直に云えば、発達障害にともなう狂気の範囲というものは以前から…少なくとも1980年代からすれば…縮小しているような感じです。
ともかく、現代の社会が発達障害に関してある程度まで寛容であるという前提と、未だそうであり得ないという前提のなかには、ノーマリティとアブノーマリティという概念を相互補完的なものとして受容し、内部で統合できているかの可否を問うものとは云えませんでしょうか。
もし理解度が高いとすれば、この国の文化は狂気に対する感受性の閾値が従前より低いことに他ならないからですし、
未だそうでないとすれば狂気としての認識がされないまま当事者が放置されているということに他ならないからです。
もっとも、この国では狂気というものが文化の中に既に包摂されており、各種の伝統芸能が狂いの要素を濃厚に遺したまま伝承されているという現実はあります。
(気力がなおあれば続く)