[生きるLIVING] | 力道の映画ブログ&小説・シナリオ

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オリヴァー・ハーマナス監督。黒澤明[生きる]原作。カズオ・イシグロ脚本。ジェイミー・D・ラムジー撮影。エミリー・レヴィネンズ・ファルーシュ音楽。22年,イギリス映画。

スカパー日本映画専門チャンネルにて鑑賞。ノレンさんがこのリメイクはいいと仰るので期待はしなかったが一応は鑑賞した。カズオ・イシグロは黒澤明の[生きる]がわかってない。かなり重要な場面を勝手に削除、イギリスに舞台を置き換えている洒落感を取り入れ自分流の[生きる]を書いたつもりなのだろうが、黒澤、橋本、小國の脚本は完璧であり、少しでも割愛するのその完成度は半減してしまうのだ。

さて、どこがダメなのか詳しく説明する。まず、冒頭、黒澤明は主人公渡邊勘治(志村喬)の胃のレントゲン写真で始め、この主人公が怠惰に日々を過ごし、生き始めるためにはもっと胃が悪くなければならないと説明する。これは観る側にはかなりのインパクトがあった。イシグロはこれを割愛し、主人公ロドニー・ウィリアムズ(ビル・ナイ)の朝の出勤風景から開始する。新人ピーター・ウェイクリング(アレックス・シャープ)オリジナルでは木村(日守新一)が役所の仲間達と列車で同席、課長のウィリアムズは同席はしないということを知る。ここで女性課員マーガレット・ハリス(エイミー・ウッド)オリジナルでは小田切とよ(小田切みき)が登場、役所を辞める意向があることを提示する。陳情の婦人達オリジナルでは菅井きん達が盥回しにされる場面、ここはオリジナルではワイプ編集を使いコミカルに見せているのだが、監督は普通に撮ってしまいピーターに付き添いさせることで、役所の体質を彼にわからせる手法を取る。オリジナルでは木村はここまで駆け出しではない。この設定ならこのやり方は悪くはない。
 次にウィリアムズが医者から余命半年を告げられる場面。
ここはオリジナルは本当のことは医者(清水将夫)は言わないが、その前に渡邊に胃癌の説明を患者の一人(渡辺篤)にさせることで、彼が自分の異変に気づくという、抜群の伏線を使っているのに、これも割愛。
 息子夫婦が自分達の家を建てるのに父ウィリアムズの金をあてにしていることを話せず、父は自分の余命が半年であることを話せない。ここもオリジナルの方が辛辣で渡邊は息子夫婦に失望するのだが、ここのウィリアムズの妻が亡くなり、霊柩車の回想場面に切り替わる。ここはオリジナルをテキトーに再現している。オリジナルは割と長めの回想を導入することで、父と息子の関係を丁寧に観る側に伝えているため。割愛など、もってのほか。
 そこからオリジナルでは最高の場面、場末の飲み屋で渡邊がメフィスト役の粕取り作家(伊藤雄之助)に出会い、夜の街を彷徨う場面になるが、この映画では避暑地に設定を変え、作家サザーランド(トム・パーク)がその役をするのだが、あの雰囲気と退廃とした感じが、全く再現できていない。昼の設定にしたことが間違い。さらに渡邊は酔って[ゴンドラの唄]を[命短し恋せよ乙女]と歌う、これは自分の余命を彼がわかっているから、観る側に沁みるのだが、[ナナカマドの木]の歌、幼少期を歌うような歌を挿入、意味がない、これでは味わいが全く出ない。ここをイギリスなんかに置き換えすることはできないからリメイクなど無理なのだ。
 マーガレットが自分の推薦状を書いてもらいに無断欠勤しているウィリアムズを訪ねてくる。その無断欠勤をピーターに非難させ、オリジナル感を出そうとしているが、全く必要ない。ウィリアムズはマーガレットを連れ、ハワードホークスの[僕は戦争花嫁]を観に行くのだが、オリジナルはまだ戦後からの貧しさをとよのストッキングで表現したり、オリジナルの持ち味がイギリスでは全く再現できない。
 肝心な場面は渡邊が辞めて工場で働くとよを無理に連れ回し、うさぎの玩具を見せられ、課長さんにも作れるものがあるはずという場面、それをヒントに渡邊は公園を作ることを思いつくのだが、本作ではゲーム場の今でいうUFOキャッチャーでマーガレットがうさぎの玩具を取る設定に変えたためにウィリアムズが公園を作るに至る過程が甘く、意味が繋がらない。さらにオリジナルではここで誕生日を祝う少女がハッピーバースデーに合わせて階段を登り、死にいく渡邊との対比とし、渡邊が公園を作ることを思いつき実はここから生き始めたことがわかる皮肉で秀逸な設定をあろうことかカットしたしまっている。話にならない。この場面は[生きる]という映画の本質であり、テーマであることをイシグロはわかってないのだ。こんな奴にリメイクなどして欲しくなかったというのが黒澤信者からの思いだ。
 オリジナルはここで渡邊の葬式に切り替わる、この大胆な構成の妙は本作も引き継いでいるが、ここにマーガレットに来させてはダメだろう。彼女はウィリアムズが余命がないことを息子に聞かれはっきりとは答えられない。そこで、葬式の中で渡邊が行った行動を回想するオリジナルに対して、本作は列車の中で回想。本作のオリジナルとして、マーガレットに恋人ができて、うさぎの玩具を持たせてウィリアムズへの思いを表現しているのだが、一切必要がない。とよはそこまで渡邊のことを考えてなどいない。そして、変わらない日常にピーターは木村のように黙るしかない。色々怒ったりする設定にしたのなら、これはおかしいだろ。もっと上司を叱責しないと、特に日本人は自己主張しないからオリジナルの設定が成り立つが、外国人は自己主張は専売特許、オリジナルの設定は再現すると不自然になる。オリジナルでは警官が葬式に来て、渡邊の最期を話すのだが、本作はウィリアムズが作った公園を見るピーターに警官が話す設定、そして、ウィリアムズが感傷的な手紙をピーターに残すというふうに設定を変更している。これも、ダメ、木村が見上げる夕日に変わらぬ日常。これはオリジナルの空しさが漂う味わいを生かさなくてはリメイクの意味がない。感傷的になどする必要がないのだ。
 この黒澤明を代表する映画史上に残る名作をリメイクしようという考え自体が不遜で、不可能なのだ。志村喬の味わいあれ燻銀の演技を、やはり誰がやっても再現などできる訳がない。結局、また映画史の中で本作など歯牙にもかけられず埋もれていく無断な映画を一本増やしただけだ。何度も言うがリメイクなど一切必要がない、禁止すべきである!