[海と毒薬] | 力道の映画ブログ&小説・シナリオ

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熊井啓監督・脚本。遠藤周作。栃沢正夫撮影。松村禎三音楽。86年、日本ヘラルド配給。


スカパー日本映画専門チャンネルの録画にて、劇場鑑賞以来の再観。原作は遠藤周作が昭和32年に発表した同名小説の映画化であり、熊井啓は69年に脚本を完成させたが出資者がなく、17年後にやっと映画化が実現した経緯がある。自分もこの原作を大学のゼミの発表の題材に選択したことがあり、公開後、即劇場で鑑賞したことを思い出す。第37回ベルリン国際映画祭銀熊賞、キネマ旬報1位など高い評価を受けた秀作だ。


戦時中、九州の大学病院を舞台に米軍捕虜に対する臨床実験を体現した若き研修医を通じて、生命の尊厳を問う問題作。良心の呵責に葛藤する主人公勝呂を[もう頰づえはつかない]の若手俳優奥田瑛二が演じて彼の代表作になり、後の熊井組の中心俳優になっていく。またクールな同僚戸田を演じた渡辺謙は翌年大河ドラマ[独眼竜政宗]でブレイクするきっかけになった映画だ。


昭和20年5月、日本の敗戦は濃厚になり、九州F市にも米軍機による空襲が繰り返されていた。F帝大医学部研究生、勝呂(奥田瑛二)と戸田(渡辺謙)の二人は、物資も薬も揃わぬ状況の中、なかば投げやりな毎日を送っていた。だが勝呂には一人だけ気になる患者がいた。大部屋に入院している“おばはん”(千石規子)である。助かる見込みのない患者だった。おばはんは、彼の最初の患者だったが、現実主義の戸田は、いつも冷笑して見ていた。そのおばはんのオペ(手術)が決まった。どうせ死ぬ患者なら実験材料に、という橋本教授(田村高廣)、柴田助教授(成田三樹夫)の非情な思惑に、勝呂は憤りを感じながらも反対できなかった。死亡した医学部長の椅子を、勝呂たちの第一外科の橋本教授と第二外科の権藤教授が争っており、権藤は西部軍と結びついているため、橋本は劣勢に立たされていたのだ。橋本は形勢回復のため、結核で入院している前医学部長の姪の田部夫人のオペを早めることにする。簡単なオペだし、成功した時の影響力が強かったのだが、オペに失敗した。手術台に横たわる田部夫人の遺体を前に呆然と立ちすくむ橋本。橋本の医学部長の夢は消えた。おばはんはオペを待つまでもなく空襲の夜、死んだ。数日後、勝呂と戸田は、橋本、柴田助教授、浅井助手(西田健)そして西部軍の田中軍医に呼ばれた。B29爆撃機の捕虜八名の生体解剖を手伝えというのだが…。



映画は山本薩夫監督の[白い巨塔]のように、病院内の権力闘争のために医療が犠牲になるという問題を盛り込みつつ、あまりにも軽く扱われる生命の尊厳に対する問題を手術などの現場をリアルなの再現で提示してくる。熊井監督のこだわりは相当なもので、グロデスクな動く内臓の映像は思わず目を覆いたくなるほど。


遠藤の本作だけでなく、例えば大岡昇平の[野火]なども、戦争が生み出す極限の状況は、生命の尊厳という概念や殺人行為という罪の意識を曖昧にするという問題を言及しており、非日常である殺人という行為が日常になってしまう恐怖を提示している。熊井啓はそうした状況をリアルに再現しており、勝呂以外の登場人物たちの無機質な表情、看護婦長(岸田今日子)ですら、患者を人間扱いしないという状況に、観ている側は、驚愕し怒りすら覚え、葛藤する勝呂の目線で見せられることで、より身近な問題として実感させられた。


実際に戦後すぐに撮影された映像と比較するなら、本作ですら、まだ綺麗過ぎるところがあり、熊井啓がモノクロームを選択したのは、80年代ではリアルに時代を再現する技術がないため、当然の選択だったかもしれない。だが、美術の木村威夫、音楽の松村禎三など、映画界を代表するスタッフが集結して、時代を最大に再現。重厚感を感じさせる映像を作り出したことにその技術力の高さを感じずにはいられない。


DVDはあります。


熊井啓。[日本列島].など。