我ながらここまで元も子もないブログになるとは思わなかった(禁)「アナログSEO」、形容矛盾です。いや、でもよーく考えるとです、アフィリエイトも新しいシロウトによる広告サービスも、一般人によるアナログSEOだという気がしてきませんか? つまりこういうものが流行りそうだとか、ヒットしそうだとか、注目されそうだとか……云々ということは人が考えて、その話題をのっけて、集客しているのいうのが、要するにアナログSEO。もっとマジになって言えば今日はテレビで視聴率の高いこういう番組があるからそのでキーワードでウェブに流れてくる量がいくつ、と見積もるのだってアナログSEO(自動化したらちょっと気持ち悪い!?)。マスコミは確かにアナログかもしれないがSEOじゃない。SEOをアナログでやるなんぞはシロウトの発想というわけです。ところがシロウト=たとえば私にしてみれば、これが楽しい。なぜならプチマスコミだからじゃないでしょうか。有名におなり、なれるもんなら、ってわけ。こんな生意気なことを言ってますが、ほんの少し前まではアナログSEOそのものが実験できなかったのですから、今は実験の時。自分の読みが試される時なのかもしれませんよ~。
広告のユビキタス
うちのコの友達のご家庭は、コドモがいると家が散らかるという事態を逆手にとって、必要なものがすぐに手元で使えるようにと体温計といいティッシュペーパーといい複数備えていろんなところに放置してある。「お、ユビキタスティッシュはどこだっけ?」のように使うわけだ。これに慣れるとティッシュを取りにわざわざ席を立つなどということは時代遅れなことと指定される。映画の中に出てくるメーカー品が広告であるとか、メールの中に広告がそっと差し込まれているといった「広告のユビキタス」だって驚くには当たらない。この場合のユビキタスは大いに量に支えられている、量はコピーが可能にしたものだ。でもまったく同じでは飽きられそう。最適化という無限のバリエーションが奏でられるのか?
うちのコの友達のご家庭は、コドモがいると家が散らかるという事態を逆手にとって、必要なものがすぐに手元で使えるようにと体温計といいティッシュペーパーといい複数備えていろんなところに放置してある。「お、ユビキタスティッシュはどこだっけ?」のように使うわけだ。これに慣れるとティッシュを取りにわざわざ席を立つなどということは時代遅れなことと指定される。映画の中に出てくるメーカー品が広告であるとか、メールの中に広告がそっと差し込まれているといった「広告のユビキタス」だって驚くには当たらない。この場合のユビキタスは大いに量に支えられている、量はコピーが可能にしたものだ。でもまったく同じでは飽きられそう。最適化という無限のバリエーションが奏でられるのか?
お茶の間ドットコム
テレビ的ポータルの最先鋒……とおもいきや、私がチェックしたときは売りにでていたURL。しかし、「ドッと混む」って儲かるイメージの最たるもののような気がする。そこでお茶の間写真を集めて、そこに人や動物を入れてドッと混ませるオンライン・ソフトにしてはどうだろう。これでずばり、お茶の間がどっと混む。混む必要ないでしょ、というのがノーマルな感覚というものだと思うが、せっせとプチSEOしちゃったりするブログなんかは、まさしく「お茶の間ドットコム」?(舌)
テレビ的ポータルの最先鋒……とおもいきや、私がチェックしたときは売りにでていたURL。しかし、「ドッと混む」って儲かるイメージの最たるもののような気がする。そこでお茶の間写真を集めて、そこに人や動物を入れてドッと混ませるオンライン・ソフトにしてはどうだろう。これでずばり、お茶の間がどっと混む。混む必要ないでしょ、というのがノーマルな感覚というものだと思うが、せっせとプチSEOしちゃったりするブログなんかは、まさしく「お茶の間ドットコム」?(舌)
rikeyaのブログは、まことに「ささやかに恥をかく」場と思って書いている。そのはずなのに、どういうわけか少しずつ「パブリッシュする」にともなうプレッシャーを感じていたらしく、今週前半は、頭がというかココロがというか使い物にならない感じを覚えた。この感じは初めて体験するものだった。なんというか、むしろ体はどうということもないのに、動けないという感じ。こういう神経では、やはりスモールターゲット専門にしたほうがいい。(っつーか、今はナノなブログなわけで。。。)
そのように四苦八苦している最中に読者登録のメールをいただいた。as the earth turnsとかいうのだろうか、こういう心境を。「現場で働くベンチャーキャピタリスト 辻俊彦のBlog」というブログを書かれている辻俊彦さんから。いろんなビジネス書の紹介もあって、読者数もなんと399人! きっとメルマガ的に読んでいる方も多いに違いない。私は長い間土井英司さんの殿堂入りメルマガ・ビジネスブックマラソンを購読しているが、辻氏のはよりベンチャー+アンチ会社員な雰囲気で、IT系起業を目指しているかたにはまさにソコが知りたいの書棚紹介になっているのではないか。
ところで読者登録くださっている方はいずれも私よりランキングがずっと上(雲の上)の方々で、訪れるとコンテンツそのものはもちろん、新しいスクラップブックを知ったり、そのまた読者におもしろいブログが並んでいたりと、いろんな発見がある。今回も広告関連のスクラップを発見。さっそく参加したのに、ブラウザがとまってしまった。よくあるんです。マック版IEはそろそろお見限りなのかな。(忍)
そのように四苦八苦している最中に読者登録のメールをいただいた。as the earth turnsとかいうのだろうか、こういう心境を。「現場で働くベンチャーキャピタリスト 辻俊彦のBlog」というブログを書かれている辻俊彦さんから。いろんなビジネス書の紹介もあって、読者数もなんと399人! きっとメルマガ的に読んでいる方も多いに違いない。私は長い間土井英司さんの殿堂入りメルマガ・ビジネスブックマラソンを購読しているが、辻氏のはよりベンチャー+アンチ会社員な雰囲気で、IT系起業を目指しているかたにはまさにソコが知りたいの書棚紹介になっているのではないか。
ところで読者登録くださっている方はいずれも私よりランキングがずっと上(雲の上)の方々で、訪れるとコンテンツそのものはもちろん、新しいスクラップブックを知ったり、そのまた読者におもしろいブログが並んでいたりと、いろんな発見がある。今回も広告関連のスクラップを発見。さっそく参加したのに、ブラウザがとまってしまった。よくあるんです。マック版IEはそろそろお見限りなのかな。(忍)
カエルの子はカエル、と諺は言う。よくベンチャーを果たした社長さんが「親が商人だったので、お金の大切さが身についた」など言うのを目にするから、金銭感覚のようなものは、多かれ少なかれ、親の影響を受けるものかもしれない。
私は神社などで投げるお賽銭というものが、長い間、よくわからなかった。ふだん細かい金額に汲々としてる人ほど、喜んで払っているだよなあ、と不思議だったのだ。あれはなにも縁起をかついだり、景気のもんではなくて、要するに今の私でしたらささやかなれどもこれくらいでしたらお役に立てます、というようなものだと今は思っている。そんなとこでお役に立てなくったってどうということはないが、ささやかであるからにはひっそりとお役に立ってもよい。まあそのようなもんだと思って最近は保育園へ行く道にあるおじぞうさんのようなのに(相変わらず詳しいことは知らない)「ごくささやか」で挨拶する。
したがって特に効用というよ うなものもないのだが、最近気づいたのは、繰り返し拝顔するうちに、仏像の「お顔」を見る目の分解能が上がってきたことだ。いや分解能というよりは、人は顔に「表情」を読む癖が、仏像にも適用されるようになるのである。同じ石のお顔が、こちらのコンディションによって、ふてくされてたり、まろやかに見えたりするのである。
私は神社などで投げるお賽銭というものが、長い間、よくわからなかった。ふだん細かい金額に汲々としてる人ほど、喜んで払っているだよなあ、と不思議だったのだ。あれはなにも縁起をかついだり、景気のもんではなくて、要するに今の私でしたらささやかなれどもこれくらいでしたらお役に立てます、というようなものだと今は思っている。そんなとこでお役に立てなくったってどうということはないが、ささやかであるからにはひっそりとお役に立ってもよい。まあそのようなもんだと思って最近は保育園へ行く道にあるおじぞうさんのようなのに(相変わらず詳しいことは知らない)「ごくささやか」で挨拶する。
したがって特に効用というよ うなものもないのだが、最近気づいたのは、繰り返し拝顔するうちに、仏像の「お顔」を見る目の分解能が上がってきたことだ。いや分解能というよりは、人は顔に「表情」を読む癖が、仏像にも適用されるようになるのである。同じ石のお顔が、こちらのコンディションによって、ふてくされてたり、まろやかに見えたりするのである。
時々行っているジムの会員募集チラシが折り込みで入ってきた。入会して3カ月間、前回来館の日時やその人におすすめのトレーニングなどをメールで知らせ、来店を促してくれるサービスがついてくるそうだ。入会してみたものの通う習慣がつかずにやめてしまう人が多いだろうことが予想できるだけに、かゆいところに手が届くシステムなのではないかと思わせる。こういう店頭周りのこまごまとした仕事を自動化するのは昔からあるアイデアだが、そういったことをキカイがやるということに対する抵抗感は、昔に比べてずいぶん減ったような気がする。「あれ久しぶりですねえ」なんて受付の人が気を配ってくれなくても、キカイがちゃんとデータを管理し、メールを送ってくれて、その費用はタダというほうがうれしいという感覚。人がどこまでキカイに任せ、どこまでは自分でやりたいか、という一線は意外と流動的なのかもしれない。(忍)
仕事がほんとうに滞ると、ブログも止まる。ブログはいーから仕事しろと言われている頃がハナである。ということを最近知った。
どんな時も止まってはいけない、と言ったのはたしかユニクロ柳井社長ではなかったかと思う(糸井重里の対談で)。考えを止めてしまうのが何よりもよくない。即危機と思え、というわけだ。だのに、ブログごときが止まってしまうというのは、これはかなりやばい。(もちろん毎日書くつもりがないブログもあるし、その場合、そのブログは止まっていない)
ブログが先か仕事が先か、で思い出すのが、部活か勉強かという、遠い昔の話。しかし部活か勉強かは、あえて言えば人によってどちらでもいいんじゃないかと思うが、仕事とブログの場合はどうだろうか。ライターは書くのが仕事なこともあって、どうして仕事でもないのにブログを書くのか、という質問を受けることは案外多い。もちろん、ブログは仕事ではない。ブログと仕事なら、仕事が先である。そりゃそーだと思います、私も。
一方、ブログではないが、どんな天才でもスランプはあると教えてくれるのが、眉村卓『妻に捧げた1778話』(新潮新書)。病床の奥様のために著者は毎日短編を書いたのだそう。2年前の刊行だが書店では平積みになっているところもあるのに、amazonでのユーズドの価格は20円からとのこと。それもすごい。(滞)
どんな時も止まってはいけない、と言ったのはたしかユニクロ柳井社長ではなかったかと思う(糸井重里の対談で)。考えを止めてしまうのが何よりもよくない。即危機と思え、というわけだ。だのに、ブログごときが止まってしまうというのは、これはかなりやばい。(もちろん毎日書くつもりがないブログもあるし、その場合、そのブログは止まっていない)
ブログが先か仕事が先か、で思い出すのが、部活か勉強かという、遠い昔の話。しかし部活か勉強かは、あえて言えば人によってどちらでもいいんじゃないかと思うが、仕事とブログの場合はどうだろうか。ライターは書くのが仕事なこともあって、どうして仕事でもないのにブログを書くのか、という質問を受けることは案外多い。もちろん、ブログは仕事ではない。ブログと仕事なら、仕事が先である。そりゃそーだと思います、私も。
一方、ブログではないが、どんな天才でもスランプはあると教えてくれるのが、眉村卓『妻に捧げた1778話』(新潮新書)。病床の奥様のために著者は毎日短編を書いたのだそう。2年前の刊行だが書店では平積みになっているところもあるのに、amazonでのユーズドの価格は20円からとのこと。それもすごい。(滞)
マスコミの歴史のひとコマには「テレビの登場」とかいう項目があって、必ずといっていいほど、街頭テレビで力道山の試合を観戦するひとだかりの写真が載っている。それがまるでYMOのジャケットのように同じズボン、白いシャツ、黒縁めがねをかけた男性ばかりなのにも驚くが、ああやって家族でもない人と一緒にテレビを見るのは楽しそうだと思った記憶がある。
今でもオリンピックや高校野球やワールドカップをわざわざパブや商店街で集まって見る、という習慣はあるが、私はもともとスポーツ観戦そのものをあまりしないのに加えて、今ではそこに行かなければ見れないわけではないので、それほど楽しそうだとは思わない。
人々のアテンションが、ある時期、あるものにわあーっと集中する機運をつかんで、マスコミはお茶の間に適度な喜怒哀楽を演出してくれてきた。そのトップ争いそのものも、視聴率競争として半ば中継されていた。ところが最近はそのアテンションがいっせいに同じ方向を向く、または向かせるのが難しいと言われている。
便宜的にそこらへんにあるものを楽しむ=「娯楽」、自ら選び取って楽しむ=「趣味」とすると、人々がアテンションを向ける先は、ちょっとした感情の赴く先、つまり「娯楽」である。この間に合わせ=おあつらえ向き=タイムリー・ヒットなものこそ、マスコミが得意としてきたのだとわかる。
またなにもテレビに限ったことではなくて、本の世界でも「世間の感情のエネルギーが高まった時に出た本は売れる」らしい。趣味・興味だって、「アテンション」に誘導されるのだ。コピーライティングの教科書にもたいがいこう記されている「その商品には、時代に合った魅力があるか?」。
アテンションが分散すると言われるネットの時代、もしかりに各人が別々にそれぞれの趣味を追求し、もう地域とも家族とも一緒にテレビなんか見ないという風景になるのだとしたら、楽しそうどころか、むしろ異様だ。だからそのイメージは間違っていて、ネットにおいてもやっぱり、ネットやコミュニティでアテンションを集めた人などが影響力を持つ……と考えると、お茶の間から見れば山梨側でも静岡側でも同じ富士山じゃんと思わなくもない。(余)
今でもオリンピックや高校野球やワールドカップをわざわざパブや商店街で集まって見る、という習慣はあるが、私はもともとスポーツ観戦そのものをあまりしないのに加えて、今ではそこに行かなければ見れないわけではないので、それほど楽しそうだとは思わない。
人々のアテンションが、ある時期、あるものにわあーっと集中する機運をつかんで、マスコミはお茶の間に適度な喜怒哀楽を演出してくれてきた。そのトップ争いそのものも、視聴率競争として半ば中継されていた。ところが最近はそのアテンションがいっせいに同じ方向を向く、または向かせるのが難しいと言われている。
便宜的にそこらへんにあるものを楽しむ=「娯楽」、自ら選び取って楽しむ=「趣味」とすると、人々がアテンションを向ける先は、ちょっとした感情の赴く先、つまり「娯楽」である。この間に合わせ=おあつらえ向き=タイムリー・ヒットなものこそ、マスコミが得意としてきたのだとわかる。
またなにもテレビに限ったことではなくて、本の世界でも「世間の感情のエネルギーが高まった時に出た本は売れる」らしい。趣味・興味だって、「アテンション」に誘導されるのだ。コピーライティングの教科書にもたいがいこう記されている「その商品には、時代に合った魅力があるか?」。
アテンションが分散すると言われるネットの時代、もしかりに各人が別々にそれぞれの趣味を追求し、もう地域とも家族とも一緒にテレビなんか見ないという風景になるのだとしたら、楽しそうどころか、むしろ異様だ。だからそのイメージは間違っていて、ネットにおいてもやっぱり、ネットやコミュニティでアテンションを集めた人などが影響力を持つ……と考えると、お茶の間から見れば山梨側でも静岡側でも同じ富士山じゃんと思わなくもない。(余)
同じものも見え方が違えばこうも違う、という事態に遭遇する。と、そういえば「山梨側の富士」もそうだった、あれはでっかい典型だなどと思い出した。
もちろん人によっては「静岡側の富士」でもあるだろう。どちらも浮世絵や写真で見たことがあるから、同じひとつの山であることは重々わかっていて、絵で見る分にはさして違いを感じないのに、いざ河口湖のインターを降りると、目の前に迫る山の姿は、東海道新幹線の新富士駅から見える山とは、全く印象が違うのだ。
私にとって何が違うって、まず距離感。そして自分が山にどうアプローチできそうか、というアクセス感。日本を代表する美しい山を眺める感覚と、近所の山だからとにかく登ってみようぜという感覚。
と整理してしまうと、はてさて、これは、ウェブという山を目指すメディア感覚とIT感覚にもよく似ていはしないだろうか、と思ったのである。同じものも見え方が違えばこうも違う、というわけだ。
じゃあそれをさらに俯瞰する 視線で見てみたら?(それってGoogle Mapsの視線? まさか)ただ、いよいよ巨視的にざっくりと見たいと思うと、より大きな技術的なアイデアとか、宇宙論とか物理学とか、ふだんは本来人々の暮らしとはおよそ隔たって進められている研究成果が、新しい考え方のイメージ的なリーダーとして頼りになったりする。複雑系とかゲーム理論とかそれこそ高度なマッチング技術とか。私のような「お茶の間」が科学技術を楽しむにはそこらへんが快適なのである。(歩)
もちろん人によっては「静岡側の富士」でもあるだろう。どちらも浮世絵や写真で見たことがあるから、同じひとつの山であることは重々わかっていて、絵で見る分にはさして違いを感じないのに、いざ河口湖のインターを降りると、目の前に迫る山の姿は、東海道新幹線の新富士駅から見える山とは、全く印象が違うのだ。
私にとって何が違うって、まず距離感。そして自分が山にどうアプローチできそうか、というアクセス感。日本を代表する美しい山を眺める感覚と、近所の山だからとにかく登ってみようぜという感覚。
と整理してしまうと、はてさて、これは、ウェブという山を目指すメディア感覚とIT感覚にもよく似ていはしないだろうか、と思ったのである。同じものも見え方が違えばこうも違う、というわけだ。
じゃあそれをさらに俯瞰する 視線で見てみたら?(それってGoogle Mapsの視線? まさか)ただ、いよいよ巨視的にざっくりと見たいと思うと、より大きな技術的なアイデアとか、宇宙論とか物理学とか、ふだんは本来人々の暮らしとはおよそ隔たって進められている研究成果が、新しい考え方のイメージ的なリーダーとして頼りになったりする。複雑系とかゲーム理論とかそれこそ高度なマッチング技術とか。私のような「お茶の間」が科学技術を楽しむにはそこらへんが快適なのである。(歩)
ある種のプロセスは自動的に進行するということを、私たちは案外身近に知っているのかもしれない。
人が亡くなると、一周忌、七周忌というような節目がある(宗教にもよると思いますが)。せっかく集まった親戚が全然関係ない話ばかりしていたり、人の一生をすらすらとまとめたり……と思うこともあるが、行事というかたちで、理解や整理に必要な時間がとってあるのだという気もしないではない。改めて考えて答えを出したというよりは、そんな節目に、ある種の考えがゆっくりだが自然にまとまる方向へ動いていたと気づかされるのだ。
自動処理の面目躍如は、マクロ機能のように逐一登録したプロセスをなぞるものではなくて、なるべく大きな規模の処理全体が、まるでブラックボックスに入っているかのように“勝手に”進行する、ふたを開けるとその進展が変化してしまう、とはいえ外からある種のコントロールをかけたり、外部の何かが影響を与えたりすることがある、といったタイプの自動処理にこそあると思われる。
で、このタイプの自動処理は、“たったひっつの冴えた正解”をたたき出したりするのではなく、“だいたい真ん中”という辺りを指示するものであるのも特徴だ。“たったひっつの冴えた正解”で他人をリードするより、“だいたい真ん中”で周りの支持を得ることのほうへ、実際ニーズも高まっているのではないか。じゃあ自動処理をどのレベルで達成するのか、と言えば俄然、技術の話になる。
私たちの日常的な感覚から、ほとんど無意識に技術に期待していることを考えると、その技術があるから使えといった感覚とは違った動機で、サービスを選ぶことができる。自分が実は、技術に何を期待しているのか……その想像力は常に問われている。(忍)
人が亡くなると、一周忌、七周忌というような節目がある(宗教にもよると思いますが)。せっかく集まった親戚が全然関係ない話ばかりしていたり、人の一生をすらすらとまとめたり……と思うこともあるが、行事というかたちで、理解や整理に必要な時間がとってあるのだという気もしないではない。改めて考えて答えを出したというよりは、そんな節目に、ある種の考えがゆっくりだが自然にまとまる方向へ動いていたと気づかされるのだ。
自動処理の面目躍如は、マクロ機能のように逐一登録したプロセスをなぞるものではなくて、なるべく大きな規模の処理全体が、まるでブラックボックスに入っているかのように“勝手に”進行する、ふたを開けるとその進展が変化してしまう、とはいえ外からある種のコントロールをかけたり、外部の何かが影響を与えたりすることがある、といったタイプの自動処理にこそあると思われる。
で、このタイプの自動処理は、“たったひっつの冴えた正解”をたたき出したりするのではなく、“だいたい真ん中”という辺りを指示するものであるのも特徴だ。“たったひっつの冴えた正解”で他人をリードするより、“だいたい真ん中”で周りの支持を得ることのほうへ、実際ニーズも高まっているのではないか。じゃあ自動処理をどのレベルで達成するのか、と言えば俄然、技術の話になる。
私たちの日常的な感覚から、ほとんど無意識に技術に期待していることを考えると、その技術があるから使えといった感覚とは違った動機で、サービスを選ぶことができる。自分が実は、技術に何を期待しているのか……その想像力は常に問われている。(忍)