9月16日(土)、ドライブ旅行の2日目。本格的にペルキン (Perquín) 周辺を巡って観光します。
まず訪れたのが、ペルキンの町の中にあるエルサルバドル革命博物館 (Museo de la Revolución Salvadreña)。一緒に仕事をしているエルサルバドル人が、「モラサンは観光的魅力に乏しい県だけど、ここは是非訪れてみるといいよ」と勧めてくれました。私としても、内戦の歴史には関心があったので――特にこの国は現在かなり平和なだけに、当時の状況はどうだったのだろうと興味津々です――外せない場所でした。
1979年(1980年とする場合もある)に始まり、1992年に終結したこの内戦。ペルキンは当時の左翼ゲリラであったファラブンド・マルチ民族解放戦線 (FMLN) の本拠地だった町で、従って、FMLN側から見た内戦を物語った博物館ということになります。
なお、このFMLNは終戦後、合法政党になり、現在までに2人の大統領を排出しています(現在のブケレ大統領は別の政党から選出されましたが、以前はFMLNに属していました)。
博物館の入館料は1ドル、それに付設されているゲリラ・キャンプ(実際に存在したキャンプの跡と思われます)は入場料2ドル。
最初に入った部屋には、戦士たちの写真パネルが掲げられていました。手前の緑のパネルは「チェレ・セサル (Chele César)」という異名を持った、サントス・リノ・ラミレス (Santos Lino Ramírez)。ゲリラ活動の中心人物の一人だったようです。
笑顔で銃を手にする、エンリ (Enri) という名の少年兵。説明には、「エンリはゴテラにおける1990年11月20日の軍事行動で死亡」と。ゴテラは恐らくモラサン県の主都サンフランシスコ・デ・ゴテラ (San Francisco Gotera) のことではないかと思われます。
「指揮官ジャネット・サモウル・アスブン (Yanet Samour Hasbun)、通称『(鳥の)ナイチンゲール』。1984年12月にサンミゲルの北6番通りにて捕縛。捕縛1か月後、ビリ・アルセにより殺害される」
隣の小部屋にはポスターが展示されています。「エルサルバドル――勝利する人民」というタイトルの映画の広告のようです。
英語で「爆撃を止めろ。アメリカはエルサルバドルから去れ!」と。
次の部屋には銃器や他の機材が。壁にはスナップショット写真が展示されています。
説明はありませんでした。銃を抱えて笑顔の若き女性2人。彼女たちの胸中はどうだったのか。そしてまた、その後の消息はどうなったのか。
迫撃砲。
ありました。世界で最も普及した自動小銃、AK-47です。口径7.62mm。
57mm砲。
その部屋を出た所にも迫撃砲が置かれていました。
ヘリコプター UH-1H の残骸。説明板によると、1984年10月23日16:00にゲリラによって撃墜され、乗っていた(政府軍の主要将校である)ドミンゴ・モンテローサ・バリオス中佐 (Teniente Coronel Domingo Monterrosa Barrios) が死亡。
敷地の奥の棟には、FMLNの公式放送「ラジオ・ベンセレーモス (Radio Venceremos)」に関する展示がありました。「ベンセレーモス」とは、「我々は勝つ」という意味。
スタジオの様子を写した写真を載せたカレンダー。1986年は内戦の真っただ中です。
実際のスタジオにどこまで忠実なのか分かりませんが、とりあえずそれを模したもの。吸音材には玉子パックの凸凹(でこぼこ)した紙が使われています(実際にそうだったかどうかは分かりませんが)。
送信機でしょうか。
屋外のゲリラ・キャンプに行きます。地下壕の入口。
この吊り橋は内戦中にもあったものなのか、それとも博物館になってから作られたのか。
放送・通信機器が幾つも置かれている小さなテントでラジオ・ベンセレーモスの録音が流れていましたので、ビデオを撮影しました(64秒)。
例えば前半の男性アナウンスではこう言っています。「ラジオ・ベンセレーモス。人民によって統制された領土への、人民の力による圧力。毎日、午前6時から7時、午後6時から7時、国際放送の周波数、40メーターバンド、7メガヘルツにて放送。私たちの私書箱は、メキシコシティ、7-907」
最後の写真2枚は博物館とは関係ないですが、綺麗な蝶が花々の中を舞っていたのでお見せします。
内戦当時も蝶がこのようにひらひらと舞っていたのでしょうね。
種の同定は、はじめから諦めている私です(汗)。