今回は少々長くなります。画像も上の1枚だけで、エンタメ的には最悪の記事であることをお許しください。
ケニアに居てコロナ禍で外出がままならない状況で(治安が悪いので散歩すらできない)、巣ごもりしつつ考えた事があります。
この疫病はやはり、生活に対する価値観について、根本的な変換を人間に迫っている。
リモートワークとか、地方生活とか、そんなレベルの話ではありません。
結論から言うと、基本的に、人間は社会生活が過剰なのではないのか。もっと自然との触れ合いを大切にするという価値観にシフトするべきではないのか。生活の中に人との関わりよりも自然との関わりの要素をもっと増やすべきではないのか、ということ。
社会生活が過剰だから、これほどまでに感染が拡大し、これほどまでに我々は疫病に悩まされているのではないのか。コロナ禍は、社会、あるいは人間同士の関係に依存し過ぎである我々のライフスタイルに対して、一つの警告を発しているのではないか。ここまで社会に依存しているのは不健康ですよ、と。
これは、社会のお蔭でコロナから守られているという常識的な発想とは逆かもしれません。
あるいは、「いや、仕事をしなければそもそも生活できない」とか、「家族という社会との最小単位との関りは必要だ」という反論があるでしょう。
しかし私は、そんな「オール・オア・ナッシング」な主張をしているわけではありません。
仕事は必要です。しかし我々は、生きるために、そこまで仕事をする必要があるのか。……と一般化して言ってしまってはいけませんかね。そこまで仕事をしなければ生きていけない人もいるでしょう。しかし、人類全体――というのも言い過ぎかもしれませんので、少なくとも日本人全体――としては、明らかに働き過ぎであるように私には思われます。働いて働いて、物質的には裕福になって、便利になって、それだけの経済活動をして、そうして本当に豊かな生活は得られたか。
確かに、見方によっては豊かな生活を暮らせていると言えるかもしれません。しかし、その代償が今回の疫病であり、実は健康をリスクに曝していることになるんだよ、とコロナウイルスが教えているように私には聞こえるのです。
もっと自然に、あるいは自然状態の生活に近づくこと。今の生活はあまりに不自然ではないのか、と反省してみること。社会から距離を置いて自分の生活を振り返ってみること(断っておきますが、今の私は日本の社会からは一定の距離を置いていますが断絶からは程遠いですし、ケニアの社会の中に生きていますので、人間社会から離れているわけでは決してありません)。
ただ、いくら社会生活から距離を置け、と言っても、家族を捨てて山林に一人籠って暮らせ、と言うつもりはありません。もちろん、その方が感染リスクは小さくなるでしょうが、今度はそもそも家族を構成する各人の生活自体が困難になります。つまり、家族と一緒に過ごすということは、ある意味の自然だと私は思っているのです(現在の私は単身赴任ですがね)。
ところで冒頭に、リモートワークとか、地方生活とか、そんなレベルの話ではないと書きました。これらの生活形態は、コロナ対策と社会生活を両立できる手段なのではないか、とお考えの方も多いでしょう。
確かに、コロナ対策にもなり、社会生活も一定のレベルで維持できるでしょう。しかし、私はこれらのことが、健康にとって根本的な解決策、ソリューションになるとは思っていません。確かにリモートワークは感染対策になる仕事形態であり、オンライン飲み会は感染対策になる社交形態でしょう。
しかし、現代のICT技術やSNS形態は、果たして人間にとって優しいものになっているか。ヒューマン・フレンドリーか。
先日アンデシュ・ハンセンの『スマホ脳』を読んで、この問いに対する否定的な回答の正しいことを、私はますます確信しました。
リモートワークは、長期的には、やはり人間にとって不健康でしょう。人間という生命体は、そんなことをするのに適するようには出来ていない。逆に言えば、今のICT技術やSNSは、人間が健康的な生活を送れるように出来ていない。本書は、この意味で、危機感を伴った警鐘を鳴らす良書だと思います。
私は、リモートワークは一時的な、場合の手段だと思っています。
地方生活、これは、確かに都会よりも物理的には自然に近づいた生活であると言えるでしょう。しかし、いくら地方に行ったとしても、そこで都会と同じような社会生活をしている限りは、地方にウイルスをばらまいているだけだとも言えます。また、最近のコロナ感染状況、すなわち第4波の地方への感染拡大状況を見ると、地方に行くことが必ずしも感染回避になるわけではないということがよく分かります。
つまり、単に地方で生活すればよいという話ではない。地方に行くにしても、そこで社会生活の度合いを下げなければいけないと私は思うのです。
疫病から免れるためには、人との物理的な付き合いを避けなければいけない。しかしネット上の付き合いにしたところで、今度は「スマホ脳」という別の弊害が大きくなる。
だから、そもそも人との付き合いを減らせばいい。私の理屈はこういうことです。
そして、自然に向かう。自然を相手にすることで、健康的な生活を取り戻す。
逆に、コンクリートに囲まれて、身の回りに自然がないと思っている都会生活者でも、考え方によっては自然に近づくことができると私は思います。より多くの自然に囲まれている地方生活者よりは悪い環境に居るとは思いますが。お気の毒です。
……と、ナイロビという都会でステイホーム状態の私が書いているんですがね。
最近の拙記事をお読みになっている方ならお分かりになると思いますが、確かに今の私の住環境は東京都心のような所とはかけ離れており、自宅コンパウンドに居ながらにして、植物観察(私は園芸植物は自然とは見なしませんが)も、野鳥観察(アフリカにしてはかなり限定的ではありますが)もできます。
しかし東京や大阪のコンクリート砂漠の中に居ても、大空はあり、雲という自然はあるはずです(それも大気汚染で自然状態ではないって?)。
私の言っている「自然に近づく」というのは、人間関係に神経を擦り減らすような煩雑な社会生活から視点を動かして、例えば空の雲を眺めるといったようなことに、少しでも多くの時間を割り当てた方がいいのではないか、ということです。それが疫病対策にもつながる。
都会からどうしても離れられない事情がある人は、そうするしかないでしょう。でも、その前に、本当に都会から離れられないのか、そのことについても考え、疑ってみるべきだと私は思います。
都会に住んでいる人は、自然に近づくために地方に出掛けようと思ったら、自家用車を持っていない場合は公共交通機関やツアーを利用することになり、感染リスクを高くすることになるでしょう。自家用車に乗って自然に満ちた所に行くとしても、行った先が行楽地で、人々でごった返していたら、これまた感染リスクが高い。
つまり、自然にあふれている場所でも、私から言わせると、そこが行楽地であるという時点で社会的です。端的に言って、行楽地というのは一つの社会であると言えるでしょう。人が集まっているのですから。集まっていなくても、集客のための行楽施設があるということで、あるいは行楽地に行くための交通環境が整っているということで、既に社会的な環境なのです。
結局のところ、社会的な場所で活動をしている限り、それが自然に囲まれた所への旅行であるとしても、感染リスクは低くないのであり、感染リスクの低い旅行とは、このような意味で、非社会的な旅行でなければならない、ということです。
そんな旅行は不可能だ、とおっしゃる方が多いのではないでしょうか。人間は、そこまで社会的になり過ぎている。人間が疫病に脆弱な原因は、人間の、それほどまでの過剰な社会性にあると私は言いたいのです。
私が昨年見出した「非社会的な旅行」は、里山ハイキングでした。基本的には私一人か、せいぜい妻と娘の3人で(娘は外出が好きではなかったので一緒だったのは二三回でしたが)、公共交通機関もなるべく使わず(使っても最低限に留め)、自家用車も持っていませんからもちろん使わず、自宅を歩いて出発、または山から歩いて帰宅する、またはその両方ということが多かったです。
しかし、山に行くと言っても、本格的な登山については少々慎重に考えなければならないでしょう。昨年も登山家の野口健さんが自粛を呼びかけるメッセージを発信していましたし、それに対するホリエモンの反論に対して、去年の今頃、私は反論を盛んに書いていました。
やはり、登山は感染対策としては安直過ぎます。安易な登山は軽率であるとさえ言えるでしょう。今ここで私が書いている「社会から離れて自然と触れ合う」という主旨とは少し違うのです。何と言っても、野口さんのおっしゃっていたように、万一遭難した場合に、救助活動を通して感染リスクが高まる。
ここで私は敢えて、登山は考えようによっては、自然と触れ合う活動と言うよりも、社会的な活動であると言いたいです。もう少し正確に言うと、社会に依存した活動であると言いたいです。
救助活動というセーフティーネットがあるから私たちは登山できているのではないのか? 登山には自然との触れ合いという要素はあるけれども、実は社会的な枠組みの中で行われているのではないか、ということです。救助活動は社会的な活動であり、その原因となる遭難は、社会的な枠組みの中で起こった事象であるということです。
「遭難しても自己責任であり、救助は不要」という考え方もあるかもしれません。確かにそれは、社会から最も離れた「自然」な登山かもしれません。しかし今の社会で、そのような考え方は許されるでしょうか。普段は社会のシステムの中で、システムの恩恵を受けて生活をしている人が、そんな時に限って社会のシステムは不要だ、と言えるのでしょうか。
もっとも、自殺するために山に行く人の理屈は別でしょう。でも、そういう人も、本人は気が付かないかもしれませんが、社会にそれなりの迷惑をかけているわけです。自殺志望の方、あなた方の中には、生きていると社会に迷惑がかかると思っている人もいるかもしれませんが、死なれるのも迷惑なんですよ。
しかし、私は自殺を病気だと考えているので、社会にとって迷惑であろうとなかろうと、善悪の問題としては捉えていません。風邪で会社を休んだ、それは会社にとって迷惑かもしれないが、倫理的・道徳的に悪かと言えばそうではない、それと同じことだと思うのです。
話を元に戻して、遭難して亡くなってしまって、本当に誰にも全く迷惑をかけないことがあり得るのか。もし「迷惑をかけない」と断言できるならば、どうぞ当局に捜索・救助拒否届を提出して山に登ってください。そういう人は、社会への貢献も拒否している世捨て人、社会を放棄した人であると言えるでしょう。
繰り返します。私は「オール・オア・ナッシング」の話をしているわけではありません。社会から孤絶して生きよと言っているわけではないのです。
私の提案はこうでした。人間は、全体として、もっと社会生活を減らして、自然に戻るべきである。自然をもっと重要視するように価値観をシフトするべきである。その最善の方法、すなわちコロナ感染リスクの少ない方法は、まずは身の回りの自然に関心を寄せること。
里山に赴くのも良し。空を流れる雲を眺めるのもよし。庭に生えた「雑草」に関心を寄せるもよし。
それが人間としての本来的な、もっと言うと、生物としての本来的なあり方ではないかと思っています。
もちろん、人間は社会的な生物であることを私も認めます。
要は程度の問題です。
反論は歓迎です。ただし、これは難しい問題でもありますし、私も今回は少々の暇を見つけて一気に書いたものの、普段は深くゆっくり考えている時間がなさそうです。十分にお答えできないかもしれませんが、ご了承ください。また、万一炎上して収拾がつかなくなるようでしたら、申し訳ありませんが途中で打ち切らせていただきますので、それもご了承ください。
(写真はコンパウンドの塀越しに見た隣の野原の高木(4月8日撮影)。自宅のベランダから眺めては気分転換をしています。4月26日には、オウカンエボシドリがこの木に留まっているところをレンズに納めることができました。鳥がいなければ、流れる雲を眺めることにします)
《同日追記》
自分の書いた文章をあらためて読み返してみると、やたらと「しかし」とか「でも」といった逆説の接続詞が多いことに気付きました。不快になるほど。
つまり、色んな意見や立場を想定しつつ、自問自答しているからこんな文章になるんですよね。不快かもしれないけれど、その部分については敢えて修正しないことにします。読者の方々に快感をもたらすためのエンタメ的な記事ではないと最初に断っていることでもありますし。