總持寺の涅槃会攝心(3)食事 | Que sais-je? ク・セ・ジュ――われ何を知る

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エルサルバドルに単身赴任中。
気候がいいので日本よりよほど健康的な生活を送っています。
ドライブ旅行をぼちぼちしていますが、
この国で最も注意しなければならないのは交通事故。
今や治安以上に大きなリスクです。

なおヘッダーは2020年に新潟県長岡市にて撮影。

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誤解を招きそうなので最初にお断りしておくと、この写真は攝心が終わった後にいただいた御膳料理の朝食です。攝心中に禅堂でいただく料理はもっとずっと質素です。しかし攝心のさなかに、しかも禅堂内で、料理の写真を撮るわけにはいかない。

 

さて、参禅についての一連の記事なのに、なかなか坐禅そのものの話とか、仏教の内容に入りませんが。

 

……いやいや、食事も、れっきとした禅の修行の一部です。仏教では行住坐臥(ぎゅじゅうざが)といって、日常の全ての動作が修行になるのです。道元禅師(ぜんじ)の『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』にも、トイレについてや歯の磨き方まで明記されています。

 

なので当然、食事も修行。作法に則り、集中して、一生懸命食べるのです。一炷(ちゅう)すわなち40分一本だけ坐る参禅会ならば食事はありませんし、一泊の参禅会の場合でも、椅子に座ってテーブルで御膳料理を食べるのが普通です。しかし何泊もする攝心となると、修行僧と同じように、単(たん)の上で坐禅の時と同様、足を組んだ状態で食べます。永平寺でも3泊の参禅会は応量器を使い、最初はテーブルの上ですが、作法に慣れてきたところで禅堂で足を組みながら食べます。

 

食事の作法は、『赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)』という一冊の本で規定されているだけあって、座席――とは言いませんでした、単――に上がるところから、食器――とは言わず、応量器――を広げて並べる展鉢(てんぱつ)、ご飯やおかずの受け取り方、食べ終わって洗鉢(せんぱつ)し、片付けて、最後のお祈りを唱えるまで、細かく分ければ100を越えるのではと言えそうなプロセスがあります。それら一つ一つの動作についても、例えば食事中は箸を次鉢(じはつ)(真ん中に置いた汁の鉢)の上に、先端を自分の方に向けて10時20分の方向に置くなど、それはそれは細かく決まっています。

 

最初の記事にも書きましたが、そもそもこのプログラムは修行僧のためのものです。従って、全ての段取り、全ての所作は、修行僧のペースで進行します。これが速い速い。参禅者も、これについて行かなければなりません。

 

一般参禅者のみが参加する永平寺の参禅会では慣れていない人が多く、足を組んで食事の準備を始めてから、すべてが終わって足を解くまで、一時間近くかかってしまいます。Miさんの話では、夏休みの若い人がたくさん参加する回など、1時間半もかかることがあるらしいとのこと。坐禅の場合は、40分坐ると、ゆっくり歩く経行(きんひん)とかリラックスタイムである抽解(ちゅうかい)というのがあって、足の痺れを取るようにしているわけですから、1時間半も坐り続けとなると、足がどんな状態になっていることやら。きっと耐えられないでしょう。よほどとなれば、やはり足を崩すのでしょうかね。

 

それに対して、この總持寺の攝心に参加する人々は、皆、速い。ほとんど間違えずに、淀みなく、すらりすらりとノンストップでこなしていくのが横目に見えます。

 

……いや、正確に言うと、少しは間違えています。初参加の私は、特に永平寺では教わらなかった作法については、両脇の人に目を配りながら彼らの真似をするのですが、左右で合掌していたりしていなかったり、あるいは箸を置く位置が違っていたり、細かいところで違っていることが何度もありました。そしてよく見ると、彼らもしばしば周りに目を遣りながら動作を進めている。

 

しかし一見する限りは、動作が一瞬たりとも停止しないかのようです。停滞して時間を取ったら最後、給仕をしている修行僧の動きに間に合いませんし、待ってもらうことにでもなれば、他の参禅者のみならず、僧堂にいる僧全員の動きを止めることにもなり、多数の人に迷惑をかけるのです。

 

でも、慌ててはいけませんよ、慌てては。慌てると、おかずや汁をこぼしてしまったり、鉢を落としてしまったりして、とんでもないことになってしまいますよ。集中です。

 

と書きながら、箸を落としてしまうことくらいなら、しばしばあるようです。実は私も今回、一度やってしまいました。次鉢に箸を置こうとして滑らせてしまいました。私の左隣りに坐っておられた方も前回の攝心で一回やってしまったそうですし、一人おいて右の方は、私が落とした後の食事で落としていました(人の失敗を見て安心してしまう私はまだ修行不足です)。

 

食器を置くところ、すなわち牀縁(じょうえん)は床から60cmくらいの高さにありますから、箸を落とすと「カランッ、カランッ」と乾いたいい音が響き、余計に焦りそうになります。しかし焦ってはいけない。まして、単から下りて拾おうとしてはいけません。そんなことでもしようものなら、食事を中断して単から立つ無礼を働くだけではなく、下手すると痺れた足でよろめき、応量器を蹴飛ばして中身ごと床にばらまいて、カタストロフィ(大惨事)になってしまうことでしょう。

 

ここは焦らず、合掌して静かに待っていると、ちゃんと担当の雲水さんが来て箸を拾い上げ、洗って返してくれます。なかなか来なくても、間違っても「すいません!」などと声を上げて呼んではいけないでしょう。なんてったって禅堂は三黙道場の一つですから。私の場合は、別の参禅者の方が素振りで示してくれたお蔭か、あるいは雲水さんにすぐに気付いてもらえたからか、すぐに駆けつけてもらえましたが、万一気付いてもらえなかったら、挙手するくらいなんでしょうか。

 

いずれにせよ、洗われた箸が戻ってくるまでは、食事を再開することができません。合掌しているか、さもなければ法界定印を結んで待っていることになります(多分そのいずれかが正解で他方は誤りでしょう)。私は法界定印で待っていて、箸が戻ってきたら合掌して受け取りました。

 

ロスした時間は最小限でしたので、急いで残りを食べて、すぐに他の人に追い付くことができました。追い付かないからといって食べ残すのも、これもいけません。食べ残しは仏道に反する。従って、追い付かなければ、食べ終わるまで他の全員に待ってもらうことになるでしょう。これまた迷惑。

 

食前と食後の唱え事はもちろん全員一斉にやりますし、食事が配られるのは一回限りですから――再進(さいしん)すなわち「おかわり」が一回だけありますが――、すべては全員が同時進行でなければなりません。従って、誰かが足手まといになるようなことがあれば、全員で待つことになってしまうのです。

 

食事の前に唱える「五観(ごかん)の偈(げ)」で「一つには功の多少を計り、彼(か)の来処を量る」とか、「四つには正(まさ)に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり」と言われていることからして、食べ物の大切さを実感しながら食べるべきなのでしょう。だから永平寺では、よく咀嚼し、その間、手は法界定印に結んでいるようにと言われたわけです。しかし總持寺では、このように他の僧と同じペースで食べるわけですから、ゆっくりと噛んでいる暇などありません。他の参禅者の方々も、ほとんど噛まなかったとか、ご飯も呑み込んだとかおっしゃっていて、とにかく遅れないことが最優先でした。

 

坐禅は、質の違いはあるでしょうが、基本的にはただ坐るだけですから、言ってしまえば単純です。いや、むしろ、複雑にしてはならず、単純であるべきでしょう。しかし、かくして、恐るべきは食事なのです。慣れれば円滑に間違いなく進めることができてくるのでしょうが、慣れない人間としては、緊張の連続です。

 

攝心の中で、食事が一番大変です。

 

表題に「食事」と書いたので、献立や料理の味の話を期待されていた方も多かったかもしれません。献立にも一定の決まりがあります。しかし、それらについては全く触れませんでした。お察しがつくでしょうが、それどころじゃなかったんだな。