革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -7ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 道なき道をぶっ飛ばせ。は、過ぎた。今は、道ありき道、を探している。ちゃんとした、公道だ。人の歩んできた道であり、人が歩むために舗装された道だ。そこを行きたい。と言うより、行くべきだろう。

 けれど、世界は、未だ持って、道なき道を強いる。傾向は抜けない、だろう。ずっと、道なき道を進み、その後に、道を作れ、を固定観念にしている。ちょっと前までは、当たり前にそうしていた。けれど、今は、それでは、いけない、と思うようになった。

 普通に、普通の道を歩め、と回転しだした、のを感じている。世界は、あまりにも、道なき道に、恋をし過ぎた。その結果、中毒のような症状を起こしている。あまり、いい傾向じゃない。少し、反省すべき、傾向だ。ここから、その道を整理することが求められる。

 他人の、勝手に、支配されてはいけない。ちゃんとした人であるのなら、ちゃんとした道も歩む時期は必要だ。

 道は、幾つも作ってきた。我歩く、我が後に道あり、を続けてきた。たくさん、魔族が、喜々とした喜ぶ、道は、できたことだろう。そう、魔族のためにしかなっていない。残念だ、の一言だ。

 これが、神という名の、支配者が、求めていたことなのか? 悪魔はいない、神がいるだけだ、だ。

 それで、今は、道ありき、道を探している。

 文学、文学の開拓に、道ありき道はあるだろうか? まだ、誰も進んだことのない道のように思える。つまり、どう進んでも、進む限りは、道なき道にしかならない。かもしれない。が、探してみる。

 明治のころにあるかもしれない。前例が。やり方の手順、道順が。世界は、どう、文学を必要としたのだろう? 今の僕らは、教科書で、国語の授業でしか習わない。僕は、国語が一番、現代社会において、不必要な学問だ、と思う。その、国語でしか習わない。

 行けるところまで行こう、ではなくなる。どこまでも行った後のある道だから、その道を辿り続けよう、になる。

 これが、ある種の、僕の、固定観念の打破であり、また、固定観念の創出だ。

 勉学の徒、として、経済に強くなるべきか? と思う。経済を第一に考えるのが、第一の正義だ、と言う人もいる。実際、儲けられるがあれば、人は、得をしたになれる。

 悪いことは、一つもない。理想論で、行き場を失い、ボロボロになっているより、ずいぶん、良心的だ。世界にも、他人にもいい。金儲け、を考えよう。そんな道なら、幾つも、道がありそうな気がするが、これは、ただの、勘違い、だろうか? 分からない。いったことがないからだ。

 文章を使った、金儲けの道は、幾つもある、だろうか? 結果は、直ぐには出そうにない。運命論者が言っている。まだ、先だ、と。それでも、その道を進むのは、ちゃんと、準備をしておくためだ。金儲けの。だから、そんな道があるなら、そんな道を、道の上を歩いてみる。

 ありそうだ、と思ったのだが、それもやはり、道なき道なのかもしれない。

 とは言え、金儲けの教科書が、英雄の教科書より、必要なのが、現実社会だ。

 作れるなら、よっぽど実利のある、その教科書こそを、作るべきだろう。

 人間が、神より、未熟なのは当たり前だ。なのに、神が、人間に、神よりも理想を求める、この、腐り切った、現実世界では。

 

 

 

 何でもない、いつもの陽気が返ってきた。日々は、行き詰り、これ以上やっていても、同じじゃないのか? と追い詰められ、騒音のような幻聴に、疲れが襲い、かなり、凹んだ。

 書くことに、情熱が持てない。と思うまでになった。

 そこから、少し、回復してきた。何がよかったのか? 書くことも、熱はないが、気落ちもない。愚痴のような話から、前を見ている、とまでは行かなくても、顔を上げたぐらいの勇敢なら、取り戻しつつある。とにかく、疲れていて、それを、吐きまくったのが、功を奏したみたいだ。

 人間、いつまでも、元気溌剌ではいられない、事を知る。そりゃ、空元気も出なくなるぐらい、酷い、苦痛に支配されるときもあるさ。初めての経験だった。

 まだ、完全に、回復したのか? は分からない。まだ、新しいを作り出すことに、意義は感じないし、書くことは、その前から苦痛ではないのだが、情熱、と言えるほど、熱いものは、残っていない。

 それでも、最悪な状態からは、前進したのは、自分でも分かる。また、戻らない、とは、言えないけれど。少し、ちょっとした、復活だ。

 ヤクルトの試合を見ていた。自分が、主人公チームと、名付けたチームだ。見事、巨人に勝ち、現在、暫定首位に立った。嬉しくないわけはない。元気や、勇気にならないわけはない。また、選手に、とても強く成長したような選手たちに、頑張れ、を分けてもらえる。

 もちろん、去年も、始まりは、首位に立ったことがあり、そこから、最下位まで失速した経験のあるチームだ。ここから、どうなるか? なんて分からない。

 けれど、逞しく見えた選手たちには、生き甲斐を貰える。

 応援とは、自らへの声援に、還元できるものだ。

 本当に、わけわからない苦しみにあっているときは、人は、他人に力を借りなければやっていけない。たとえ、最終的には、自分一人で、解決するしかない、事だ、としても。そこまでたどり着くのに、他人の力は、どうしても必要になる。

 君は、頑張っているか? 

 と言えば、頑張っていないように見えたか? と返してくれるか? 

 そう、君は、頑張っている。なら、それは、他人への、エールだ。

 他人の為に、と思っていなくても、他人の為になることはあるのだな、と学ぶ。

 何ができるか? 分からないが、もうしばらく、温かな日差しを目指して、走ろう、共に。きっと、みんなで、よかった、と思える日は来るはずだから。嫌がらせは、消えないけれど、そんなことで、凹んでいたわけではないので、僕も、もう少し、力尽きるまで、走り抜けるよ。

 君に、礼賛あれ。

 

 

 

 真面目が損する世界、とは、渡辺麻友の言葉だ。世界が、真面目な世界であってはいけないは、世紀が明ける前の僕の言葉だ。世界は、あれから、酷くなった。真面目は、損をする。

 人間性は、そんな中で、どう、評価を受けていくべきだろうか? 僕は、これから、僕自身の、固執しようと、思う。もう、他人のことは考えない。自分の好きなものが、好きだ。

 これまで磨いてきた、全知全能も、そこに使おう、と思う。優しき怪人よ、さらば、だ。

 愛のない人になるのか? いや、それとも、愛に強い人になるのか? は分からない。ただ、怯えて、損を選ぶはなしだ。他人がどうなろうが、知ったことではない、ぐらいの気持ちで行く。そこにこれまで学んできた、優しいよりの、思いやりがいくら働くかは、知らない。まったく、働かなくてもいい。

 前の世界の僕だったら、それこそ、人間性は、悪だろう。けれど、今の世界の僕には、どうでもいいことだ。

 怒った。そう、怒りだ。震える怒りが、そうさせた。

 弱弱しく、弱っているところに、同情をかけられる、より、断然、怒りで、眼前が見えなくなるほど真っ赤になるが、強く働くこともある。

 お前が、ここへ導いた、と言うなら、お前も、関係なく、切る。もう、誠実も、正義もない。ただ、己の欲求だけがある。

 それで、世界が、どうなるのか? 見てみたい。神様はすべて見ている、と言うなら、どうなるのか? 見たみたい。

 真面目が、損をする、ばかりを、徹底した、糞神だ。最低な、方法論を持ち出すだろう。どうでもいい。ただ、得をすることだけを考える。

 欲に正直なのが、得をすることだ、とまではいわない。そう言う教育を、残念ながら受けてこなかった。ただ、他人を思いやり、自分の指針を変えることはない。

 簡単に、どんな、人間でも、踏みつけていく。それに関しては、徹底をするだろう。

 自らを滅ぼす? 前なら、そう恐れただろう。今は、恐れない。追及で行く。極めるを選ぶ。進みに、進み、愛まで行く。愛が至高、が変わらない、と自分で、判断できるのであれば、だが。

 そうでない、と判断したら、愛も穢す。ただ、今は、愛は、至高だ。

 無意味な、道徳観は、なしだ。

 怒りが、そこまでした。憤怒が、人間の煩悩か? は知らない。大罪か? は知らない。ただ、そこに固執した、強い反抗意識があるだけだ。

 今は、それに倣う。

 真面な、意義ある言葉は、吐けなくなるかもしれない。見捨て時だな、と思ったら、迷わず捨ててくれ。ただ、この意志のまま、僕は行く。勇者の、行動理念だ、と思い直していく。

 どこまでも、熱く燃える、火がある。

 

 

 

 雨降って、地固まらず。雨の後も、雨だ。梅雨の晴れ間、野球を見る。最近は、ドームがあり、ドームの試合なら、別に雨でも試合は見られる。僕の好きな、東京ヤクルトスワローズは、昨日まで、ドラゴンズと、ナゴヤドームの三連戦を戦っていた。

 ぐずぐずの試合内容、と言われた、三連戦。それでも、スワローズは、二勝一分けと、いい結果を残した。何がよかったのか? 分からない。相手も、本気だ。それなりの、覚悟を持って、打席に立っているのが分かった。それなりの覚悟を持って、マウンドに立っているのが分かった。

 みんな、勇者だ。体に悪い、三連戦。とても、疲れる、試合内容ばかりだった。見ている人間でも、これだけ疲れるんだ。やっている人間は、もっと、苦汁をなめ、あるいは、歓喜し、安堵し、試合を終えたことだろう。

 ただ、ただ、すごいな、と思ってみていた。僕は、不純を抱えている。それが分かった、三連戦だった。何とか、解決しなければならない。それに加えて、書くことに、情熱が、薄れていっている。世界の、バトンを、早く、次の人に渡して、早く、端役になりたい、とても、強く思うことだ。

 そんな中、勇者たちは、戦いを見せた。彼らは、一心に野球が好きだ。負けるのが嫌いだ。勝ちたい、勝たなきゃ、勝ってやる、を想っている。

 不純を抱えた、僕には、思うことがある。思わなきゃならないことだ。決めなければならない。何かを失っても、いつまでも優柔不断なままではいられない。世界を想う気持ちが、小さくなった今、人を想えなくなったら、何もかも、なくなる。人を想うなら、決断をしなきゃらないことがある。

 いつまでも、善側の人間じゃない。時に、悪側の人間になることもありえるし、自身、認めなければならない時がある。当然、それで、儲ける、と言うわけではない。痛みを伴うのは、自然なことだ。

 傷つけたくない、ではいられない。自分の心に正直に、でも、答えを出さなければならない。その結果、また、ダメダメな方向へ進むことになるかもしれない。世界は、いつまでも、遠回りが好きだ。それでも、解決しなきゃならない問題は、解決しなきゃならない。

 僕は、最後まで、正義側ではいられなかった。でいい、が、悪が、滅びるのなら、滅びるかもしれない。付き合わせることにならないよう、滅びなければいけない。

 そこは、男らしく、担おう。

 他人が喜ぶ、とは、何だったんだろう? 他人が、喜ぶが、最高のはずだ。実際、最高、だと思う。ここまで、色んな景色を見てきた、僕の感じたことだ。

 笑い飛ばしてくれるかい? 

 できない、と言われるのが、一番辛い。僕は、人に優しい、人でいたい。ずっと、与えられ、教えられ、て来たことだから。

 走らぬ名馬よ、走れよ。お前が走れよ。お前しか、いないんだ。お前しか、颯爽を体現できる人間はいないんだ。

 この、終わりのような、場所で、まだ、希望を見ている僕は、世界が、愛に満ちることを、嫉妬しながらでも、望み、期待している。

 

 

 

 昭和の人間、昭和の香りがする、これは、否定の言葉として使われる。けれど、別に、古臭い、とか、古き良き時代的な、とか、にはならない。なぜなら、平成の時代より、よっぽど、挑戦的な、新しい時代、だったからだ。

 むしろ、平成生まれ、と言うのは、何の発展性もない、失墜した時代、という意味合いしか持っていない。これも、それも、みんな、昭和後期、生まれの人間が作ったものなのだが、悲しい、悲劇的な話だ。もっと、純粋に、真面な時代に生まれ、育ちたかった、と言う人間が、多いだろう。

 僕は、ぎり、昭和の時代に、子供時代を過ごした。夏に、虫取りがあり、魚取りがあり、近所の子らと、缶蹴り、宝探しがあり、ファミコンが、誕生した時代だ。だから、オタクと、外で遊ぶ、の両方を経験している。これが、どれだけ貴重なことか? 生きた人間にしか分からない。

 人間も、自然も、人間の創作も、両方、好きになっていった。夢も、それに合い、知る真理も、それに合い、柔らかく、純粋に、多岐に、また、多様性の中を、育ってきた。

 一番の学びは、友達との、遊びの中にある、これは、いつの時代も変わらない、と思う。そう言う意味で、僕は、とても、恵まれていた。

 他人を楽しませるのが好きだったのは、他人に好まれる自分があったからだ。

 それに対して、平成は、確かに、より、多様性の時代、だろう。色んなものが溢れているかもしれない。けれど、自然の偉大さをどれほど知ることができたのか? それが、悲劇だ。

 今、自然は、ゲリラ豪雨などで、災害としての、恐れ、しか与えない。自然が、その豊かさで、夢を、人間の未来を、豊満にすることが、どのくらいあるだろうか? 

 母なる大地を、知らない人が、地球で、健全に生きていくのは、とても、困難だ、と思う。

 挑戦する、も、いくら、覚えられるだろう。

 けれど、今から、それを惜しんでも仕方がない。これからは、機械的な中に、世界を作っていくよりしょうがないんだ。そう言う時代に、生まれ、育った、と言っていくしかない。そんな中で、人を好きになる、地球を好きになるしかない。

 どこかで、何かの、欠損が起こるかもしれない。人が作り上げた世界ばかりでは、人を嫌いになる要素も、そこには、いくらもあるだろう。救ってくれる、母なる大地は、死んでいる。

 デジタル化された社会で、高画質、情報過多になった社会で、見る夢、とはどんなものだろう? 

 令和は、もっと、生き甲斐のある時代でなければいけない。それをするのは、まさに、平成生まれ、だろう。空洞の時代、そんな時代に生まれた、君らの双肩に、未来は託されている。

 本当のカッコいいを知って、本当の勇ましいを知って、難解な、この人文パズルを、解き明かしていってほしい。

 ただ、ただ、夢に生きて、夢に死んだものとしては、その果敢を、期待するだけだ。

 

 

 

 これが、お前の理想か? いや、理想さえ持っていないのか? 世界をどう作る、どう仕立てていく、をなぜ、話さない。ただ、小ばかにした皮肉を言って、その場だけの激情で、腹を立てて、未来も、未来の子らも、彼らに橋を渡すことも考えず、何を守っているのかも分からないのに、先頭に立って、戦った気になって、ただ、否定だけをしている。

 戦う、とは、守ることだ。まァ、守っているのかもしれない。けれど、それがいったい、何なのか? 考えたことはあるのか? 本当は、何も守っていないくて、ただ、壊しているだけにすぎない、と知っているのか? 

 本気の言葉を吐いている、かもしれない。君に、嘘はないのかもしれない。けれど、何を守っているのか? を、どうして、真面目に考えない。君が守っているものが、このくだらない、社会で、くだらないからいいんだ、と言い切って、また、真面目を穢し、うさん臭い、の小手先のごまかしだけで、何とか、どうにか、自分だけが、結局脱する。

 やはり、守っているものは、自分でしかないのか? と言えば、初めからそう言っている、と言うかもしれない。

 じゃァ、何のために、怒ったのだ? 否定の文言を並べたのだ? 自分を守るためだけで、社会に向って、発言する権力が、君にあっていいのか? 

 僕は、理想的な世界にしたい、それだけだ。そのためだけに、動いてきた。そのためだけの発言をしてきた。けれど、現実を、左右するのは、君らの発言だ。君らが、変わらなきゃ、世界も、社会も、前も、未来も、歴史も、変わらない。

 くだらない、でいいんだ、と言うのなら、くだらないままいろよ。くだらないでいいんだ、と言うくせに、なぜ、時折、論理を企てる。そんなことで、他人を説き伏せようとするなよ。正義は、今、僕が握っているよ。君が握っているのは、敗北、でしかないよ。何を言っても、何をしても、敗北でしかないよ。

 それを、勝利に変えるには、君が、くだらないじゃいけない、と言うしかないよ。本当の世界に、情熱ある世界に、理想世界にするには、自我をズタボロにできるぐらいの優しさを見せつけて、真心を込めた言葉ないし、作品を作り上げて、世界に、示し、それに沿った行動をとるしかないよ。

 本気なら、いくらでもできるはずだ。今すぐ、ボランティアに、精を出しなよ。労働に、つくしなよ。上から見る、上から言う、だけじゃなく、下にいって、下の人の気持ちを直に、その心に映しなよ。

 そして、そこで得た、言葉を語りなよ。否定ばかりの言葉じゃない、言葉が、きっと、心に、芽生えるはずだよ。できないから、くだらない、でいいんだ、と言う。

 それで、何が変わるわけもない。そんな人間には、発言をする権利さえない、とは思わないかい? 正義あがるなら、思えるはずだ。君には、正義がないから、もともと、世直し的な発言をする、側じゃないんだよ。

 どんな、気にくわないことがあっても、黙って、笑顔で、素通りしなよ。

 世界には、資格、と言うものがある。資格がないものには、発言する権利もない。もちろん、憲法では、言論の自由と言って、すべて認められている。けれど、これは、この世界に生まれた、人として、認識できているか? の、憲法なんてものよりもっと、高等な、高貴な、法、だよ。僕らが、生まれた世界に、僕らで、認識する、権利なのだから。

 誰が決めたものでもなく、人として、認知しているべき、愛情のような、育っていく、心の優しさ、温もりだよ。

 くだらない、を基本にしている君には、他人を否定する権利なんて、資格なんて、ない、と思えが、正解、だと思わないか? 

 否定したければ、理想を持ち、理想を語り、理想に向かって努力し、理想に対しての苦労を重ね、それで、改めて、その場に立てよ。

 君が、そこで、愚痴を吐くようになって、ずいぶん、長い時間が経つが、何も変わらないどころか? みんな、どうせ、くだらないでいいんだ、で、すっかり、固定された観念が、染みついて、人を動けなくしてるよ。

 情けない。情がない。信念がない。信心がない。どれも、君の好きな、くだらない、ものばかりだ。

 

 

 

 

 僕は、ずっと、水属性、だと思っていた。優しいが、僕の持っているものの中で、一番の有能だし、もちろん、自分で、自分のことを優しいという人間はいないが、四十年以上生きていると、過去の経緯で、言えなくもなくなってくる。

 癒し、が特技のはずの人間だ。

 烈火のごとく燃えて、燃やして、光となる、攻撃力を持つ、タイプではなかった。

 雨の日に、静かに、部屋にこもっているのが、性にあっている、と思われるような、被攻撃的人間だったはずだ。今でもそれはあり、非暴力を掲げている。

 それが、いつしか、火属性に当てはめられる。

 熱く、言うことを聞かず、熱心だ。になっている。僕は、未だに、水属性でいるつもりだから、そんな認識はない。

 けれど、今、火属性だとしたら、それは、水属性として、反対である、火属性を知り過ぎたから、だと思う。

 表裏一体。反対を知るがゆえの、反対だ。

 これは、二つ、攻略した、と言うことなのだろうか? 

 よくは分からないが、二つの意図は汲める。広く、理解できる人間になった。白でも、黒でもなく、赤魔導師、と言うところだろうか? それか、僧侶から、賢者にクラスチェンジ、どちらにしろ、褒めている。自惚れかもしれない。まァ、そう言う経緯が、世界にはある、と言うことだ。

 世界は、単純に、火属性、水属性、だけでは、割り切れない。どちらか、一方の意識が強くても、それを極めれば、もう一方も極めていることになる。

 これは、今まで、僕が話してきたことと、変わりない、世界の真理の一つだ。一番右は、一番左に繋がっている。だ。

 烈火のごとく燃えるか? あるいは、清流のように清めるか? その二つの得た能力を利用して、最大限に、有能な創作を、作り上げていかなければならない。

 使命も、したいことも、何も変わらないな。

 ただ、今は、木属性に、憧れるかな? 

 創作に熱を出し、世界を優しく癒そう。

 

 

 

 やりたいことが見つかった。一つは、固定観念の創出だ。

 固定観念は、打ち破るもの、と習った、と思う。それが僕らの世代だ。そして、そう、僕もしてきた。多くの固定観念に、見えないところで、釘を外してきた。解放してやった。比較的自由に、人々は、世界を、散策するようになった。

 けれど、自由過ぎないか? といのが、ここ最近だ。みんな、意図と、糸が切れて、浮遊している。彷徨っている。どれに預けていいのか? 分からず、とりあえず、今を生きている。誰も、確証を持っていない。

 だから、こその、固定観念の創出だ。固定された観念が、概念が、必要だ、と思う。そんな時代に来たのではないか? と考える。だから、これからは、固定観念を、算出するために、物事を、秤にかける。自由過ぎるから、確かな確証を持った自由へと、変化するためだ。

 時代は、また、歩み方を、思い出していくだろう。そうなるために、思案を始める。

 大切なのは、固定観念として、成し遂げて、みんなが認める、優秀と言える、観念を、創出することができるか? だ。そこに、気概を、費やせるか? だ。これならいい、と言えるものを、作り出さなければいけない。

 そして、当然、固定観念は、やがて、打破されるためにあるものになる。その間、頑丈な官邸のように、たいそう立派な、理性の柱で、理論の柱で、支え続けられるか? が、問われることになる。有能な愛にこそ、なろう。

 ということだ。それが、やりたいこと。どう、受け止めるだろうか? まァ、様々に、価値意識があることだろう。

 相変わらず、固定観念なんて、バカげている、と言う人もいるかもしれない。けれど、僕は、ここから、そう言う道を取る。

 もう一つは、教育、だ。学問の提示をしたい。新教科、新教養。

 今までなかった、まったく新しい視点からの、学術の創造だ。それを、作り出すことを、目的として、過ごしたい。

 有益でなければ、生きる意味がない、が、とりあえずの、僕の固定観念だ。そのために、新教科、を生み出したい。

 『英雄のための教科書』と言う題で書きだしたことがある。ここでも言っている。けれど、それは、なぜか、上手く行かなかった。どうも、途中で、遣り甲斐が、萎んでいった。悪い題ではない、と思うのだが、単に、それにそぐう、胆力がなかっただけだ、と思う。

 その過ちを繰り返さず、新教科、を探りたい。

 人は、死ぬまで学ぶ生き物だ。また、教えようとすることが、一番の、学び方だ。学問を新しく創出しようとすることは、それら適えることになるだろう。もっと、純粋に、学びになる、学問を、幾つも、適切な形で、作り上げたい。

 とりあえず、真っ暗闇からは、抜け出れた感じだ。漂流船は、ある程度の、自分の場所を知れ、海図を手に入れた。しばらくは、何をしていいか分からない、の飢えから、逃れることができる、と思う。

 ここから、未来に向けて、覚えるべきことを覚えられるように、学問し、観念を固定してく。

 

 

 

 何をすべきか? 分からなくなった。文芸復興さえ目指していればいい、と思った。けれど、それが叶った後の作品を書いた。そうしたら、それも、ただ、一過性で、その場を潰すだけの、ただの、行事にすぎないようなことが分かった。

 それで、救われる人も出てくるだろう。大したことだ。時代も、何らかの大きな変化があるかもしれない。充分なことだ。けれど、僕は、やる気を失った。

 そこまで、導き、誘うのは、大切なことかもしれない。多くの人が、変わり、多くの変化があるから。けれど、その後に今、僕はいる。別に、何が、変わった、世界でもないのだが。

 僕は、そこにいる。

 そして、指針を失っている。大海原に出て、羅針盤を失った状態だだった。星が羅針盤になる、でもない。星は、自分勝手に、光ってるだけだ。

 何かは、やらなきゃいけないのだが、まだ、生きていくわけだから、ここでつまらないに陥って、ぐずぐず、ぐずっていても、仕方がない。とは言え、その方向性が見えない。

 凄く、萎んだ状態だ。暇に、漂流している感じだ。暇は、暇でいいのだが、遣り甲斐は、遣り甲斐でなければ、格好がつかない。格好なんて、つける必要はないが、自分で、自分を、喜べない。

 書くことには、快楽があった。これは、他人の為になっていることをかけている、と思うと、気分がよかった。全人類を救済するのだ、といきごんでいた。それらが、今は、雲散霧消だ。どうも、これは、書くことでは、回復できない気がする。そう、意固地になっている気もしないではないが、当分、他人の役に立っているが、感じられない、文章しか書けないのが、気力を強く奪う。

 人に、優秀な人でありたい。が、何もそれは、書くことじゃなきゃできない、と言うわけでもない。

 困る。書く能力しか、磨いてこなかったからだ。そうじゃなくなることは、自分で、自分の首を絞める所業だ。それでも、現実、自分の感じることはそうだ。

 だから、漂流している。どこに行くとも、目的地がないまま、フラフラ、ただ、文章を書いている。

 情熱がないのか? 確かに、そうだが、ちょっと違う。情熱になるべき、事柄がないんだ。文章の世界に。

 理由は、もうすでに、どこもかしこも、歩き続けたからで、いったことがない場所が、ないからで、あっても、ある程度予測できることでしかないから、であり、それで、とても、困っている。

 先は、これまで、文芸復興だったから、遠く、遠くあった。だから、平気で、それまでの道を進みたいだけ、進んでこれていた。けれど、その遠くの目的自体が、潰れた感じだ。

 困る。確かに、漂流船だ。どうしようもなく、今は、強い意義なく、書いている。それは、普段の自分の快活さにまで及ぶ。もともと、病気持ちだが、より、張り合いをなくした感じだ。快活に笑ってなんていられない。これが、夢を持っていないの人の、日常か? と言うのを、味わっている。確かに、世界に、不満しか生まれないな、と思う。人は、目的を、夢を、遠くに持っていないと、人生自体が、つまらないものになる、と言うのが、実に分かった。夢を見ることだけは、世界一の自信があっただけに。その夢が見られなくなると、こう落ち込むのか? が分かる。

 分からないでいいことだ。一生、分からなくていいことだ。けれど、不意に、僕は、ここへ来た。いつもの、記憶喪失で、忘れられればいいのだが、そうも上手く行かないだろう。

 さて、どうすかな? だ。実に、口癖になってしまった。

 欲しいものから探すにしても、僕はやはり、人の役に立ててこそ、幸福を感じられる人間だというのがよく分かっている。ただ、それには、何でもいいか? と言うのが、ケチの付け所ではあるのだろうが。

 ああ、なんくるないさー。

 さて、どうするかな? 

 

 

 

 

 世界に求められる人だった。かつては言えた。名前が知られていなくても。何をやっているか? なんて知られていなくても。世界に求められる人、だった。

 別に、誇っていたわけではないが、ある程度の、モチベーションになっていたのは事実だ。僕が頑張れば、世界も諦めない。いい、生き方の理由だ。上手く回転していけば、上手い世界になっていく。

 けれど、コロナ禍、からか、少し、求められる度合いが低くなっていった気がする。自己が、壁に、衝突したのもあるかもしれない。なぜか、世界は、僕がいなくても、上手くやっていけることを、知らされた日々に変わっていった。

 いいことなのだが、僕自身にとっては、やるべきことがない、状態だ。じゃァ、好きにすればいい、が道理だと思うが、そう言うわけにもいかない。身の程は知るべきだし、弁えるところは、弁えなければならない。やりたい放題、とはいかないものだ。

 そうなると、少し、息苦しくなる。何もやらない、と言うわけにもいかず、何かはやるのだが、こうして、意義の低いブログを書いたり、何か、日々の発案を、小説にしたり、やるのだが、少し、休んでもいいのかもな、とは思う。

 人に任せる時代、に来たのかもしれない。あまりにも、僕の世界では、僕が、引っ張り過ぎた。それは、しなくてもいいのかな? とは思う。

 頑張ろう、という気概も、少し、落ち着いた。頑張らなくてもいいかな、と思うことはある。オバーワーク、きたのかもしれない。何度も来ては、その度、生きながらえてきたが。そろそろ、と言う気はしないでもない。

 世界は、大丈夫だろう。もう、示すべきものは、かなり、多数、示してきた。ずいぶん、たまっている、改革法は、あるのではないか? 未来が、まるで見えない、という現在じゃない。

 コロナ、で確かに、生末は、不安な世界になったが、やるべきことは、誰もが分かっている世界になってきたのではないか? と思う。僕の頑張りは、役に立った。

 世界は病んでいる、僕の入る余地は十分あるさ、ではなくなっているのだ。入る余地も狭くなった変わり、世界の病み具合も、だいぶ癒されてきている気がする。

 だから、今後の僕のやることを、計画しているが、そう、気負う必要まではないみたいだ。神様も、見たい世界があり、そこへ向けて、進めてきそうで、それは、決して、人にとって、間違った世界ではない、みたいだし。つい最近、コロコロ意見が変わるが、今は、そんな気分だ。

 さて、どうするか? だ。本当に、最近の口癖だ。

 叶えたい夢もない。もう、妄想世界で、叶った後の世界まで見てしまった。現実は、のらりくらり進む、が現実だから、現実化する必要もないだろう。何だかんだ言って、のらりくらり、進んで行くのは、約束されたことのようなものだし。

 ここ何日で、神様に対して、かなり、注文を付けた。それも、多少なりとも、意味のあったことであるならいいな、と思う程度だ。

 今、世界に、僕が求められる人ではない、と言うのは、世界にとって、とてもいいことのような気もするから。しばらく、大人しくしているか? と思う。

 今、やろうとしているのは、温故知新だ。文芸復興自体が、温故知新なのだが、僕は、それを、斬新性で、やり遂げようとしてきた。けれど、やり過ぎて、それに、興味が持てなくなった。だから、代わりに、興味を与えるものは、明治や、大正期のような作品だ。そんな作品が、かけたら、いいな、と思っている。新しいに、固執する必要はない。世界も、もう、新しい、新しい、言うのは、めんどくさい、だろう。

 それで、僕に今を打破する、未来像は、見えにくいけれど、とりあえず、やってみる。作品と、作品として作り上げること。

 まァ、頑張るわ。楽しくなかったら、また、違うことを探すし、少し休んでもいいかな、とも思っているし。