道なき道をぶっ飛ばせ。は、過ぎた。今は、道ありき道、を探している。ちゃんとした、公道だ。人の歩んできた道であり、人が歩むために舗装された道だ。そこを行きたい。と言うより、行くべきだろう。
けれど、世界は、未だ持って、道なき道を強いる。傾向は抜けない、だろう。ずっと、道なき道を進み、その後に、道を作れ、を固定観念にしている。ちょっと前までは、当たり前にそうしていた。けれど、今は、それでは、いけない、と思うようになった。
普通に、普通の道を歩め、と回転しだした、のを感じている。世界は、あまりにも、道なき道に、恋をし過ぎた。その結果、中毒のような症状を起こしている。あまり、いい傾向じゃない。少し、反省すべき、傾向だ。ここから、その道を整理することが求められる。
他人の、勝手に、支配されてはいけない。ちゃんとした人であるのなら、ちゃんとした道も歩む時期は必要だ。
道は、幾つも作ってきた。我歩く、我が後に道あり、を続けてきた。たくさん、魔族が、喜々とした喜ぶ、道は、できたことだろう。そう、魔族のためにしかなっていない。残念だ、の一言だ。
これが、神という名の、支配者が、求めていたことなのか? 悪魔はいない、神がいるだけだ、だ。
それで、今は、道ありき、道を探している。
文学、文学の開拓に、道ありき道はあるだろうか? まだ、誰も進んだことのない道のように思える。つまり、どう進んでも、進む限りは、道なき道にしかならない。かもしれない。が、探してみる。
明治のころにあるかもしれない。前例が。やり方の手順、道順が。世界は、どう、文学を必要としたのだろう? 今の僕らは、教科書で、国語の授業でしか習わない。僕は、国語が一番、現代社会において、不必要な学問だ、と思う。その、国語でしか習わない。
行けるところまで行こう、ではなくなる。どこまでも行った後のある道だから、その道を辿り続けよう、になる。
これが、ある種の、僕の、固定観念の打破であり、また、固定観念の創出だ。
勉学の徒、として、経済に強くなるべきか? と思う。経済を第一に考えるのが、第一の正義だ、と言う人もいる。実際、儲けられるがあれば、人は、得をしたになれる。
悪いことは、一つもない。理想論で、行き場を失い、ボロボロになっているより、ずいぶん、良心的だ。世界にも、他人にもいい。金儲け、を考えよう。そんな道なら、幾つも、道がありそうな気がするが、これは、ただの、勘違い、だろうか? 分からない。いったことがないからだ。
文章を使った、金儲けの道は、幾つもある、だろうか? 結果は、直ぐには出そうにない。運命論者が言っている。まだ、先だ、と。それでも、その道を進むのは、ちゃんと、準備をしておくためだ。金儲けの。だから、そんな道があるなら、そんな道を、道の上を歩いてみる。
ありそうだ、と思ったのだが、それもやはり、道なき道なのかもしれない。
とは言え、金儲けの教科書が、英雄の教科書より、必要なのが、現実社会だ。
作れるなら、よっぽど実利のある、その教科書こそを、作るべきだろう。
人間が、神より、未熟なのは当たり前だ。なのに、神が、人間に、神よりも理想を求める、この、腐り切った、現実世界では。







