革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -6ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 他人を想う、少し、過多になった。飽きが来る。というのか、違うことが言いたくなる。いいことでは、決してない。それは、最後まで、守り抜くべき、保つべき、手、だからだ。

 美しい手、人間の素晴らしさ、最高値。この街で、他人を想い、他人の為に、世界を切り開いて行く。まだ、壊すには、早く、何もできあがっていない、今だから、言い切れること。

 けれど、人間、ずっと、同じではいられないものだ。絶えず、何かは、移ろうとして、季節や、時代とともに、回っているものだ。他人を想うも、当然、何らかの、変化をその覚悟に、蠢き始める。

 他人を想わないになるのか? いや、もっと、他人を嫌う、になるんだ。反対への招待状。異分子の活性化。それは、小さなところで、起こっていたことだけど、やがては、本丸を襲う。だから、他人を嫌う、がその言葉に、態度に、立ち位置の取り方に、芽生え始める。

 いい悪い、じゃなく、自然の摂理。人間の生理。僕も、例外ではない。生きているのだから、摂理には、体が、従っている。

 どんな人間も、どこかで、強情を口にする。傲慢を口にする。清純、清潔、清ら、ではいられない。

 とは言え、面白くない、という、最大の、方向性が、物語に、左右する。僕が、ここで、他人を嫌う、に動き出すのは、それが、認めない。面白さは、他人を想うのみに、死せよ、と言っていく。同じく、体が、そこに縛られる。

 これも、無視はできない。

 そうだね。始まりが、他人への感謝であったことを忘れるには、百年という時間は、短すぎる。人生で、二度死んでも、失われない、出発点。

 それを思うと、また、翼が、大きく、開き、バタつく。

 さて、今度の始まりは、その地点から、また、始められるだろうか? 

 それとも、同じやり方はできない、という陳腐な、惰弱に負けて、他人を嫌う、から始めるだろうか? 

 今は、休むだけだから、何も、言葉にできない。疲れがとれて、他人を想える状態の、自分に戻っていることを、期待するだけだ。

 僕が生きたことは、世界が人を考えたこと、だと言い切れる、証明、でありたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人のおぞましさを追求することもできる。人の醜さに呆れることもできる。けれど、人は、可愛いものですね、で話を終えることもできる。

 いったい、どっちなんだ? といいかねないが、小さく、弱く、脆く、か弱いものを可愛らしいと思う人間は、そう、意外に、可愛らしい。

 そっちこそ、だ。

 何も、多くを望むばかりが人ではない。少なくていい、本当に信じられるものがあるならいい、愛こそ至高。そう、思えるのもの、人だ。実に、幼く、可憐で、可愛らしい。人は、そんな人を、大切に思う、事も同時に、持ち合わせている。

 弱いから、とか、自分が不運だから、とか、は言わない。単に、ひたむきで、一生懸命なものが好きだ。

 この可愛らしさを、大切に、生きていきたい、と思う、可愛らしい、生き物だ。

 

 

 

 文学の必要性、に戻らなければいけない。意見を言うことが、僕の作風だった。けれど、文学には、その他の可能性があるはずだ。

 例えば、芸術性。作品として完成されたもの。これを見つめなければいけないし、現代においても、必要な、提示物だ。今の世界に、どれだけ、芸術として、完成された文学があるのか? と言うことだ。僕は、その眼前まで、覗けるところに来ている。

 困難にこそ挑戦しろ、が本位なら、それこそ、やってみなければならないことだろう。芸術的価値は、その分野の、気品を上げる。気品があれば、宝石のように、物として、あるだけで、価値を産める。

 人間が、人間の想像として体内に持っている、未知の美しさ、だ。

 それは、作ってみなければならない。

 僕は、この点において、今まで、不能に近い、作物を作ってきた。振り返るなら、今からあたるなら、挑むものとして、格好な、挑戦物だろう。

 人間を極める。これも、遣り甲斐がある。書くことで、あるいは、それを読んでもらうことで、人間が極めるものを、作り出すことだ。人間は、多岐の、感性を持っている。いいも、悪いもある。それらのあらゆる方向で、究極を目指す。これも一つの、文学の在り方、だ。

 これは、今までやってきたこと、とも言える。結果、極められたか? と言われれば、落ち込んだりもするが、まァ、艱難辛苦、僕の船、よくやったものだ、とは言える。

 今後も、人間の聖域にどんどん踏み込んでいきたい。ただ、神いじり、神批判は、もう、やめなければならないだろう。あれは、あくまで、悪魔である、でいい。あまり、関係は持たない、人間として、独立した、方便の方が、心落ち着くものがある。

 神様は、神聖、でいいのではないか? 

 気に食う、気に食わないで、話すべき話ではない。

 風刺小説、これは、自分で難しくしているところだ。なかなか、発想の仕方が、簡単ではない。作り上げることができれば、末代まで誇れる作品になるのだろうが、そうは、降りてこない。

 特に、僕のように、草稿を練らず、場当たり的に書いていく作家には、不慣れで、また、その困難なところだ。困難にこそあたれだが、あまり、乗り気になれないのは、なぜ、だろうか? 文学としては、あるべき自然な姿のうちの一つなのだが。

 各、グリム童話や、アンデルセンや、日本昔話で、語られ、尽くされつくしてきた。

 頭のできの悪い僕には、とても、難易度の高い、やり方だ。だから、他人任せ、で済んでいる。

 と、いくらか、今後僕が当たるべき、文学の方向性はあるようだ。特に、芸術性と、人間を極めるは、重視したい。

 愛する人間に、愛される人間になっていこう。今後、いくら、自分の能力の壁にぶつかり、それを打破できるか? が、のみが、カギになりそうだ。

 まァ、やってみるよ、としか、今は言えない。

 世界には、愛する人がいる。その人までの、道のりをどう歩くか? の問題でしかないのが、人生だから。

 

 

 

 謝るよ。世界が、悪い方にいかないことばかりが、祈りだ。僕は、頑張った、と今は言えない。いや、ここで方向を転換するために、休養は必要なのだが、それでも、今なお、頑張っている人もいる。

 戦場に咲いた花。

 あまりよくはない。こうして書いているだけで、癖が抜けない。結局、休んでも、また、元と変わらない、書き方になるのかもしれない。だから、ここに書くのも、本当は、やめるべきだ。

 それでも、悠久の時があるから、書いてしまう。実に厄介な、病だ。

 詫びなければならない。少し、いい気になっていた。さらに、自己中心的に生きようとしている。他人の為に、何ができたのか? 他人の為に生きるが正解だと言い続けるだけで、行為では、示せなかった。これは、申し訳ない、というより、仕方がない、だろう。

 愛する人に会うためだ。試練を超えなければならない。そう、自分が幸せになるためだけに。

 他人を背負うことを止めたら、僕は、終わりだろう。その気持ちは、もはや、変わることはないだろうけれど、それでも、その中で、自己中心的に生きよう、としている。

 否定したつもりはなくても、立場は、否定の立場だった、今まで。自己を抑制し、他人を慮る、が、今までの僕の立ち位置だっただろう。

 それが、好感にも繋がっていた。得をしていたわけだ。それをなくすのが怖い、と思い始めている。自己の防衛本能が、守っていたものが、自己を危険に導くかもしれない、言っている。

 別に、自分を守るために、他人の為、を言っていたわけではなくても、それを続けて今がある人間にとって、それを止めてしまうことは、一種の恐怖であることは変わりない。

 何だろうな。この神様。自分の為に生きていいよ、と言われ続けているのだけど、そうできなくなっている、頑固にも映る、弱者の神経。

 破滅が怖い、は、普通にある。ここまで積み上げたものが、すべて砕け散るのが怖いは、普通にある。

 だから、平身低頭。頭を下げて、生きるのさ。

 生きづらくなければいいが。まァ、傲慢にはならずに、生きられるだろう。ただ、子供があるのに、他の男に浮気をする、には、賛同できないな。それは、お断り、だ。もう、子供ができた時点で、その人は、他人の奥さんだ。子供ができていなくても、同じことだけど。

 それは、明らかに、神様が悪い。素直に、家庭の人として、生きるべきだ。

 そういうことで、少し、休む代わりに、もう一度、万人に、頭を下げるような、自分を取り戻せたら、と思う。みんな幸せが、一番いい。

 やはり、どこかで、調子に乗って、また、上から目線で話し出すのは、変わらないかもしれないが。まァ、そのときは、そのとき。少し、研鑽をしよう。心を、清純にしよう。

 優しい君が好きです、と言ってもらおう。

 

 

 

 書いていない。何年ぶりだろうか? 休むのは。止まり、休むのは。いつも、日記のように、毎日の記録のように、文章を書いていた。一日、一ページで進んだ日もあったが、それでも、絶えず、前へと進めてきた。それを止めた。

 いいことだ。当然、悪いことじゃないから、やっているわけだ。最近の僕は、濁り過ぎていた。ネガティブ、まさに、それだ。完全なる、否定の存在。神を詰ることばかりに、日々を使っていた。別に、神否定はいいのだが、そればかりになるのは、窮屈だ。

 誰もが、神の子供。親に、文句を言っても、いくら、親が勝手すぎても、親は親だから、と納得させるのが、常道だ。今、いい気分にいる。休めている。世界をもう一度好きになり直すのに、必要な、穏やかさにいる。気分を、少年のように輝かせるのは、いくつになっても、創作家志望には、必要なものだ。今年のプロ野球シーズンが終わるまで、休もう、と思っている。それで、東京ヤクルトスワローズが、最下位でも、別に悪い気はしない。

 僕のせいとか、言うのじゃなくて、気分的に、人に頑張れよ、と言える資格がない、というだけだ。ただ、暇を潰すように、気楽な世界を取り戻すために、休む。

 他人に、何かを言うには、自分も頑張っていないと、その資格はないが、世界を詰るだけの文句しか吐けないのなら、もっと、物を言う資格はない。

 だから、休憩だ。世界が、好きになるまでの休憩だ。

 今に全力を尽くさないでどうする? とか、明日やろうはバカヤローとか、そう言うのは、まったく違う話だ。それは、そこで、玉砕したから、止まったんだ、の方が、ずっと、正しく、今を言い表している。

 世界に、プラスじゃない文章なら、書く意味なんてない。が、僕の、想いの原点だ。従える限り、それには、従い続けよう、と思う。今の僕は、プラスと言えるものは、書けていない。なら、書けるまで、頭の中を空っぽにする。が、正解、だと思う。

 もう一度、書けるときは、勇者の話、英雄への話、であろう、と思う。他人や、世界に、物を言うのが、僕のやり方だから、濁っていては、できることではない。

 純粋は、何より必要だし、純粋に書きたい、と言う想いが、何より必要だ。それが、戻ってくるまで、書かないでいる、だけだ。

 ここで、後退するわけではないし、止まる、だけだ。また、ここから前へは進む。

 最近、ヤクルト観戦の、ユーチューバーを見ている。一人、毎日、観戦してくれる人がいて、後二人、有名人で、たまに仕事の合間にやっている人がいる。それと、振り返りをやる人が、一人いる。今後、増えていく、野球の観戦スタイル、なのかもしれない。やはり、人間、どこか、共通の趣味を探している人がいて、寂しがり屋の集まりなのさ、なのだろうか? 

 同時視聴は、百人とかだけど、再生数だと、五、六千は行くみたいだ。それが、どのくらいの収入になるのか、知らないが、もっと、盛んになってほしい、分野だ、と思う。今後、色んな方面から、YouTubeの使い方は、活性化されそうだ。規制が入らなければいいのだが、とも思う。

 世界には、まだ、新しい世界が、眠っている、とそれだけでも、言えるだろう。

 僕としては、その前に、文章の改革を、とぜひ言いたいところだけれど、これは、なかなか、通してもらえない。文章が、多方面に向かって、改革されれば、もっと、色んな表現方法が見つかるのに、と思うのだけど。なかなか、僕の声は、小さすぎる、みたいだ。

 まァ、とは言っても、しばらく休むのだけど。

 アンチコメントばかりは、精神的によくない。前進性、救世意識がなければ、やるべきじゃない。それを取り戻すための休憩。というより、今迷い道に迷っている、意識を忘れるための休憩。

 戻る頃にはまた、神様は正しき心を、愛すもの、と言っていたい。言えていたら、とりあえず、酷く疲れることもなくなる、だろう。

 信じるものは、救われる、だ。信じる心が、救うんだ。何が行われようと、信じているから、で償われるから。

 よし、止まれ。そして、休め。

 

 

 

  正義は、不正を働けば、直ぐ崩れる。

                         語るものは、自ら、正義でなければ、価値は埋めない。

 

 

  正しいは、本当に正しいから、では通じない。

                              神は、正しいの味方、ではない。

                     それは、現実が正目している。

 

 

  正当性を追うなら、未来永劫、正当でなければならない、覚悟を持たない限り、叶えられない。

              正しいが、何より、贔屓を受けるために、世界は、それを選んでいる。

 

 

 

 

  自分の体験と、今の現実を見て、神とは何だ? と聞かれたら、

 

                                         バカな変質者だ。

                                                   と、答える。

 

 

 

 

  ここ、笑う、とこ。

 覚えているよ。

 僕が覚えている。

 君が、凛として、凄まじく、躍動していたことを。

 君が、君にしか見れない景色を見て、始まりの園へと向かおうとしていたことを。

 すべてが、眩しかった、あの頃のままに、覚えているよ。

 さァ、もう、自由になるんだ。

 翼は、出来上がった。世界は、思いのままに飛べる。

 優しい風と、綺麗事の雲の世界、真っ新な空を、飛ぶんだ。

 恐れはいらない。

 生まれたとき持った、熱だけ、抱えていればいい。

 君は、君でしかない、にこそ、どれだけ、重要な意味があるのか? それを示す、飛空だ。

 輝きの中で、生きる、その美しさを、風の王に、伝えればいい。

 ともに、世界を、さすらうことを、求められるだろう。

 確信ある、伸びやかな羽で、高く、澄んだ声を放ち、一羽の鳥は、空を、渡る。

 君は、君への、多いなある、幸だけ、あれ。

 

 

 

 いつ、脇役になれるのか? 現在の、現実の世界には、英雄はいる。スポーツ界、お笑い界、俳優界、テレビの中、テレビの外、現代の英雄、と呼ばれる人間はいる。

 けれど、どれも、自分を、脇役にするほどの、知力が、道徳心が、正義感が、あるわけじゃない。特に、文学界の英雄は、いつ現れるのだろう? 

 この世界を引っ張っていく英雄は、なぜ、現れないのだろう? 

 現実は、漫画じゃない。漫画のように、いつの時代も、英雄がいるわけじゃない。漫画のような英雄なら、そうそう、普通にはいない、ものだろう。

 けれど、英雄を待って、久し。

 自分がなろうとしないものを、ただ、待っている、と言うのも、卑怯な話かもしれないが、待って、久し。現れてくれなきゃ、困る。世界を、救済するんだ、という強い意志。世界の裏側の底まで見通せそうな、強い視力。

 待っている。

 英雄は、何を望んで英雄になるのか? 

 それは単純、人々の喜びだ。それが、分からなければ、英雄にはなれない。分かる人間だけが英雄になれる。何の得でもない。そう、だから、英雄になれるんだ。

 そんな、他人任せな、待望論は、都合がよすぎるか? かもしれない。ただ、英雄は、自然に生まれるものだ、と習ってきた。その教えが、間違いじゃないなら、きっと、現れてくれるだろう。僕が、最後まで、共にしたいと願う、佳人。

 この混迷の時代に現れれば、それこそ、世界は、一息に、安息へ行ける。いっそ、英雄になることを、市民が、競い合ってもいいぐらいだ。多くの、群雄割拠、でも別に困らない。

 文学の英雄、も、その中にいればいい。

 勇者は、まだ、英雄ではないが、勇者ぐらいならいるのかな? 勇者もいなかったら、人間社会、ある意味がない、とまで言ってしまえそうだ。

 その勇者たちの中から、事をなせるもの、として、英雄が誕生する。美しき、良き時代の始まりだ。次世代は、英雄が生まれたことによって、始まる、と言っても、過言ではない。

 そんな時代に、共にありたい、だろう? 

 誰だって、なれる英雄だが、誰もなろうとしない、で過ぎていくのが、時代だ。

 そして、誰だって、英雄を待ち望んでいる。

 嫉妬、なんてするだろうか? 英雄様に。するとしたら、より、有能と思える力を持って生まれたのだな、と僕は、光栄に感じる。そんな君が英雄になっても、何もおかしくない。

 力強い愛のある人になろう。

 すべては、そこからなのだろうが、その始まりが、人間難しい。

 意力ある勇者よ、まずは、ペンを持て。