革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -16ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 アメブロで、集客をする、と言うのはやめました。これからは、新人賞を目指して、書いていこう、と思います。そして、漏れたものを、キンドルで、売る、と言う感じです。多分、しばらくは、そんなことが続くでしょうね。だから、記事も、エッセイではなくて、本当に、日常記事です。一日、一更新できればいいかな? せっかく、続けてきたので、何か、ちょっと、でも書きます。野球が始まれば、野球ネタになるでしょう。まァ、気になるというなら、覗きに、たまにでいいですから、来てやってください。これまで、ありがとうございました。

 壊れた心を誇ろう。それは、そこまで、真面に、色んなものに、正面からぶつけてきた結果なのだ、と誇ろう。僕のは少し壊れている。何度かの、怠惰と、退廃と、諦観で、前ほど、人間的ではなくなった。

 他人の死に悲しめない。他人の涙を信じられない。他人を敬うを忘れている。もとからあった弱さとは言え、明らかに顕著だ。これでは、他人に愛を伝えるのも、偽物の愛になってしまう。

 繕う、とは、糸偏に、善なのだな、と思った。やはり、善意であることを、正常と言うらしい。善意でなくなったら、ほつれた、穴が開いた、壊れた、と言うことなのだ。

 その場しのぎの裁縫か? 延々と使える、ミシン縫いか? 分からないが、分からないように、せめてしなくてはいけない。あの人は、少しおかしい、と思われただけで、生きづらくなる世の中、だから。

 衣服のほつれは、糸で縫えばいい。裁縫はできないが、普通はそうだろう。心のほつれは、何で、元に戻すのか? 

 食べ物がいい。他人の創作物だ。心にいい、他人の作った心のこもったものだ。テレビを見なくなった今、頼るのは、漫画、ぐらいしかない。ブログを漁っても、なかなか、志高く、文章に向かっている人に出会うのは難しい。もともと、記事とは言っているものの、個人日記だ。そんなに、創作的なものじゃない。第一、売りものじゃないものに、そんな気概はいらない。

 しかし、心配もある。心を取り戻せば、また、壊れることを恐れなければならなくなる。もう、あの、音を立てて、壊れるさまは、二度と耐えられない。だったら、壊れたままでいいか、と思う。他人の死に、近親の死でさえ、悲しめない、自分でいいか、と思う。

 ただ、理屈を書いている。整理整頓できる、理屈を書いている。正しいものを、正しい場所にしまえる理屈を書いている。世界が傷つかなければいいな、と壊れた心で、壊れた感性で、理屈を書いている。壊れているから、理屈の方は、正常でも、心は感じていない。心がない、と言われても、今の僕には、なにも響かない。じゃァ、君が、僕の心になってよ、と音を立てる。その音は、君の中で、響く、だろうか? 

 温かい、光の下に生まれた。それが救いだ。とても、いい時代、いい田舎、だった、と思う。ファミコンが出てきて、ジャンプが華やかで、カブト虫や、小魚がいて、近所付き合いがあって、経済的にも裕福だった。倫理が、壊れるまで、世界は、ずいぶん、健康的な、世界、だった。僕は、倫理を壊した神様を、心底恨んでいる。

 人を傷つけないでも、笑いはできた。人の醜さを暴かなくても、人には持って生まれた美しさがあった。なぜ、知らなくてもいいことを、教えたのか? 健やかに成長すべきだった世界は、瞬く間に、堕ちて行った。今まであった、愚行に比べれば、岡村の発言なんて、可愛いものだ。

 真面じゃない世界に生きている人間は、みんながみんな、みっともない。気味が悪い。このままいくのか? ふと、疑問に思う。繕うべきは、僕だけじゃない、ようだ。

 世界がある。愛を教えることができなかったら、それは、世界として、赤点だ。賢いも、秀逸も、あったものじゃない。ただ、ただ、変質的を高らかに、表明しただけに過ぎない。

 負けたくないことに、理由、っている? 

 いるよ。負けたくない理由を持っているものには、勝てないから。本気で戦う、とは、そう言うことだ。ただ、ただ、子供みたいに、我が儘に地団駄を踏んでも、勝ちは、転んでこない。来るとしたら、どうでもいい、存在だからだ、に違いがない。

 心、漱石は、あの小説で、何を表したかったのだろう? 僕は、表せていない、と思っている。本当に表したかった、ことじゃない、と。

 壊れた心を抱いた、さろついている。ああ、もう少し、生きていようか? 死で、喪失を演出するのは、そろそろ飽きなさい、と言われた気がした。

 

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 今書いている小説を見て思った。少し、自棄が過ぎる。反吐ばかりはいている。毒になり、社会の生活のリズムを止める。極めつけに愚痴との違いがない。これでは、ただ、ただ、無益だ。言葉の力で、押し切ることはできるかもしれない。世界観の雰囲気で、虚無感であったり、喪失感を刺激して、感性のアンニュイには連れて行けるかもしれない。だが、そこで生み出されるものは0だ。

 建設的でないなら、ある、意味はない、と思う。少なくとも、僕は、そちら側には、立ちたくない。作る、生み出すものでありたい。創造的破壊、も、少し自重すべきだ、と思うぐらいだ。

 実際、世界は、堅調ではない。色々、がたが来ている。不満も溜まっているみたいだ。その不満が何であるのかも、よく分かっていないまま、溜まっているみたいだ。破壊は、必要になる。それを阻止するために、虚無感がいる。喪失感がいる。亡くなったんだ、気にするな、がいる。

 実際、苦労を癒す方法は、もう、残りわずかしかない、ようにさえ思える。それが尽きれば、突き進むのは、戦争だ。実際には、戦争は起きないだろう。そこまで、人間も馬鹿ではない。けれど、荒廃の地に、天使が降りてくるまで、荒らしまくるしかない。そんな、心境になるだろう。

 僕の心の個人的焦りか? は知らない。まだ、世界には、余裕があるのか? は知らない。とは言え、あまり、いい空気は、流れていない。終末論のそれが、聞こえる。世界に対して、創造的であれば、また違うかもしれない。

 痛みは、化膿を生む。足を腐らせる。治療がなければ、切るしかない。手遅れでは済まない。少しでも、前進的にならなければ。

 世界は、まだ、終わるわけにはいかない、と言っている。それは、救いだ。終わらせてしまえでも、それもまた、新しい始まりのため、だろう。なら、救いだ。

 疲れが、一番厄介だ。疲れは、毎日同じことを繰り返していたら、自然溜まる。日本人の我慢力には、敬服する。好きなことをやっていても、時折色を変えたくなるのに、同じことの繰り返しの戦場に戻り、残業までして、国家経済を支えているのだから。

 だから、今、窮屈しているぐらいで、自棄や、愚痴に手を伸ばしても仕方がない。嫌われるのは構わないし、順調に嫌われたいものだが、世界にとって、無益である、と言うのとは、また違う。世界にとって、有益でなければ、もともと、あった原点が変わる。ズレる。僕は、他人の喜ぶ顔が見たくて、それを増やしたくて、誰も望まない、戦場へ、レールを逸れても、乗ったはずだ。

 それを忘れては、何も残らない。残さない方がいい、と自分が分かったときまでは、残すつもりでいる。これでも、それなりの、歩みがある。

 前向きな精神に、前向きな同志は集まる。折れていては、その先に花が咲くことはない。

 強くなれ。ならないよ。強くはならない。惰弱なままだ。いつまでも、ひ弱なままだ。貧弱な人の、大言壮語こそが、僕の、僕らしさ、だ。

 僕は、そこから、僕にしか見つけられない世界を、見続けてきたし、落ちていた言葉を、ついばんでいく。墓場まで一緒。なら、みんな同じだ。みんな、尊い命だ。みんな、自分の色を探すべきだし、僕は、僕の完成を、夢見ていく。

 頑張れ、世界、最高のクズ人間。君が、最高の金貨を掘り当てれば、それが、この世界に存在する、最大の、財宝になる。上空高く舞い上げた、硬貨の表裏は、今、表に決まった。彼が言ったように、心のままに従え。

 ぐずぐず、ぐちぐち、世界に、喧嘩を売っていても、買い手なんていないさ。優しさが自分の中にある、と気づいたとき、初めて、自分が好きになったはずだ。

 

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 究極のマスターベーションかもしれない。けれど、それは、少し、違う。これを思えることは、きっと、一番幸せなことだ、と思う。どこへ行っても、誰といても、自分と離れることだけはないのだから。自分、その自分は、自分が、誰より、知っている自分のはずだ。

 世界には、自分が嫌いだ、と言う人もいる。けれど、その自分のおかげで、幸せになれた、と言える人がいるなら、それは、実に、正しい自分の道のりを歩いてきたことになる。最大の敵は、自分ではなくて、最大の味方は自分。僕がよく言うセリフだ。この、薄情な荒涼たる世界を行くには、それぐらいじゃなきゃ、やっていられないことは沢山ある。

 深くご自愛くださいませ。酷いな、と思ったことがある。酷い、皮肉だ。恨みを持ちそうなくらい、嫌いな言葉だ。自分で、自分を愛す、訳じゃない。自分が、自分の認める自分だ、と言うことだ。愛すのは他人だ。他人を愛すのに見合いな自分になったことを愛すのだ。

 それを分かっていて、そこまで到達もしていなかった人間に、あえて、その言葉を送る人間は、悪魔以上に、悪魔的だろう。まるで、お前は、一生、その、自己の檻から出てくるな、と言われた気がした。夢も、希望も、すべて奪い去る、と言われた気がした。その、表面的には、善意ある人間のような言葉を使って。

 僕は、それから、その人のことが嫌いになった。自己に惑い、自己さえ分からなくなっている途中の人間に、深くご自愛くださいは、いかに、卑劣なことか? 分かるだろう。その人だって、他に愛すものがない状態のときに、僕が、軽々に、深くご自愛くださいませ、なんて、使っていたら、憎しみに近いものを覚えただろう。

 それでも、今は、自分を持てている。自分でしかない、自分を持てている。それが、自分がいたから、幸せになれた、に繋げられる。支えてくれた人もいたが、基本、自分の力で、辿り着かなければいけないところに、辿りついたわけだ。幸福は、ここに存在する。だから、今、言われる分には、何ともない。けれど、あの最悪な時期に、愛もなく、使っていたことが、腹が立ったわけだ。

 頑張らなきゃいけない。それは分かる。人間、自分を掴むまでは、精進だ。自分を掴めば、たいていのことが、大した質量のあることじゃなくなる。重さもなく、背負える。

 それは、また、自分を知り尽くしている、と言うことでもない。自分を掴んでいる、とは、少し違う。自分を掴んでいるは、自分を自分が離していない、と言うことだ。おそらく、自分で、自分を知り切ることは、不可能だろう。だけど、そんな自分でも、ちゃんと、掴んで、自分とまったく同一の位置に置くことはできる。そこへは、それなりの苦労を経て、辿り着くしかない。

 浮ついてちゃできないし、人を裏切るようでもできない。人として、まっとうすべきものを、まっとうしなきゃ、できない。問題が、自分にあるのは、百も承知だ。そう言えなければ、始まらない。他人に背負わせているようでは、行けない。自分を見つめる目は必要だ。他人ではなく、自分に期待する気持ちも必要だ。

 自分と向き合い、ひたすら、勉学するしかない。自分がいたから、幸せになれた、とは、単調な言葉のようで、実に、洗練を要する言葉だ。自分がいたから、幸せになれた、なかなか、言えるようで言えない。それで、他人も幸せにするのだ。愛する人も、個人の愛の対象ではない、愛する他人たちも。至福、それが、そこにあることは、理解できるだろう。

 自分が、掴めていなかったら、やはり、どんな状態であれ、不幸と言える因子は、持っていなければならないものな。自分が、自分でないのに、自分は幸せは、おかしいだろう。

 それには、何度も言うように、自分と向き合い、勉学するしかない。逃げたら、おしまいだ。ひたすら、世界の鏡に自分を映せ。自分を、自分と、考えろ。

 

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 不人情ではない。確か、夏目漱石が言っていたことだ、と記憶する。この感性が大事なんだ。空は非人情だろう。山は非人情だろう。海は非人情だろう。森は非人情だろう。そう言った、達観のような、自然観のような、唯物論のような、何とも言えない、人間の、情を抑えた、あるいは、超えた、あるいは、消し去った、情の、状態のことだ。

 智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。草枕の有名な冒頭である。ここで、人間社会の生きづらさを語る。

 だったら、非人情であればいいのではないか? と言うことだ。詩は、非人情か? 画は非人情か? 非人情の詩もあれば、非人情の画もある。逆に、人情的詩もあれば、人情的画もある。人情が窮屈になった世界では、非人情の画を、詩を。人情が恋しくなったら、人情的、画を、詩を。人は欲する。引きこもりでも、漫画や、アニメは好むし、都会にいると、いくら金があっても、山村での生活が恋しくなる。

 人付き合いの悪さは、人間嫌いの、人間好き。非人情と言える。いつも人と一緒でなければいられない寂しがり屋は、非人情を理解しえず、ベタベタとくっつくだろう。それでもある瞬間、ふと、非人情になり、自分を俯瞰で見ていたりする。逆に言えば、寂しがり屋ほど、非人情を理解するものもいない、と言えそうだ。

 人情がなければ、人は生きていけない。これは、事実だ。現実だ。だからこそ、その溢れた世界で、非人情を気取る。それは、贅沢である。自己満足である。けれど、人は、この、ニヒリズムみたいな、履き違えの感情を、意外に、気に入る。

 漱石は、則天去私

https://ameblo.jp/rightown/entry-12580525798.html

と言う、一つの観念も、唱えている。私を去ること。これも、非人情、と言えるのかもしれない。気取らないように、気取る、ことでもある。人情社会において、神経衰弱ならないために、用いる、非人情だ。元来、気を使い過ぎることが美徳であるから、そう、塗れにさせるな、と言いたいのかもしれない。

 みんなが東を見ているのに、一人だけ西を向いている。思い出がいっぱいと言う歌では、一人だけ横向く記念写真、規律に反する、と言うのではなくて、また、人情を理解しない、欲さない、と言うのとも違って、風のように、颯爽としている。

 村上春樹の風の歌を聴けも、近しいものがある。よく、喪失感の作家、と言われるが、何も喪失しているわけじゃないのに、選んだ、喪失感。人は、何を求めて、非人情を気取るのか? 

 これも、拡散の法則の一つなのか? より複雑に、均等な複雑になるために、ものは、順列を乱そうとする。それが、新しいを生み出し、僕は、進化論だ、と言った。

 情に棹し、流されないためには、非人情であることは重要だ。時に、人の輪を抜けて、一人になりたい、ときもあるだろう。そのときは、景色が欠かせない。世界の一つであり、世界の混沌には混じっていない瞬間。人情が、混沌を呼ぶなら、非人情は、混沌外、になる。優秀なる、人の立ち方だ。

 ジョジョ立ちか? 情断ちか? 僕は、それぞれの人が、冷たくなれ、と言う意味じゃなくして、この非人情を持つことを、推奨している。何事も、動じない、風の流れのような、心構えでいたいものだ。そうすれば、自然、人への向き合い方も、力の抜けた、自然体なものへ、近づいていける、と感じる。

 愛に猛々しい人であることは、意外に人の世界ではもろく、気の抜けた炭酸でもおいしく感じられることの方が、愛に優しい肌触り、とも言える。

 あいつ、非人情だな。そんな非人情も、認めてみてはどうか? 

 

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 心掛けなければいけないこと。いつも、自分に言い聞かせてなければいけないこと。世界には、満たされない人がいる。なら、自分ばかり、欲に溺れることは、完全に、悪と言えることだ。

 偽善にとられるかもしれない。確かに、結局儲けがあって、ただ、心掛けているだけで、得が変わらないのなら、素直に、儲けたい。お金大好きです。女も大好きです。と言っている方が、ずっと、誠実、と言えなくもない。

 そして、一度きりの人生で、楽しんだもの勝ち。何も、躊躇する足かせはない。

 ただ、ねェ、それだと、成功できないんだ。どうしても、どこかで、しっぺ返しを食らう。

 成功していないじゃないか? そう考えることで成功できていないんだから、何の説得力もない。

 そうかもしれない。もし僕が、素直に欲しいものを、欲しいと言える人間だったら、こんな遠回りはしていないのかもしれない。それでも、思いやりは、大切だ、と思う。成功する、失敗するじゃなくて、人間として、どちらであるのが、自分の好みなのか? だけの問題なのかもしれない。ただ、僕は、強欲は、馬鹿だ、と言っている。

 節制は、必要だよ。楽しむことを制限する必要はないけれど、楽しいときは、思い切り楽しむのが、周りの誰もにとっても礼儀にさえ感じるけれど、自重、自制、内省は、とても必要なことだ、と思う。それこそ、欲をかいたら終わり、の精神で。

 愛に貪欲なのはいいことだ。愛のある、愛欲なら、いくらかいてもいい、と思う。けれど、数を求めたり、いい加減な嘘や、誤魔化しで、濁したり、するのは、罪、だと思う。人とは、人であるなら、どうしても、裏切ってはならない、生命、なのだ。

 成功はしていない。けれど、欲をかいて、成功するビジョンも見えない。清濁併せ持って、世界だ。綺麗事だけじゃない。と言う、楯もまた、人を守ってくれる。

 要は、バランスが大切なのか? 他人に、欲をかくな、と言えないから、自分が欲をかいても、ある程度は許される、だと感じている。誰もが、聖人君子じゃない。醜さが自分にあるのは、よく、承知している。それでも、欲をかかない、それでいて楽しい人がいたら、都合がいいだろう。人は、そこに集まってくる。祭り上げられた、カリスマになる。

 あまり、いいポジションの取り方には思えない。けれど、人は、ちゃんと、そう言う人を、心から敬う。そして、敬意を払い、自分も倣うようになる。それが、真のリーダーだ。大臣になって、何万の金で、失職する、その気持ちが分からない。意味が、分からない。何が、目的なのか? が分からない。金儲けなら、他を選べばいい。わざ、わざ、大臣になってすること、とは思えない。なぜ、こんなに、子供なのか? 

 僕は商業の子だ。ただ、ほとんど稼いでいない。それでも、商業、特化、と言える子、だと思う。金の成る木、を実はやっている。自分が金を手にしていないのだから、あまり意味はない。

 少年の心、子供のままはお前だろ、いい年してキッズ、とも言われる。そうかな? どう考えても、子供なのは、あいつ、の方、だと思うけどな。そして、世界は、大人を嫌う。

 理想の大人、誰がいる? なぜ、理想の大人、を話さない、描かない、憧れの対象にしない。そんな文化にしていることが、子供思考の、操作主人が、描いている、つまらない、面白味のない、醍醐味を履き違えた、世界、だと思うけどな。

 何にせよ、欲をかかないのは、大切なことだ。かかないではなくて、かき過ぎない、かな? 心掛け続けて行くべきことだし、いつ何のときも、帯刀していなければならない、正義、だと思う。自分のためにね。そう、自分のために、そう思っている。悟空、ルフィ、ナルト、ゴン、バカだけど、彼らに共通しているのは、バカだからこそ、欲をかかない、と言うことだ。欲に気づかないほど、バカだ、とも言えるけれど、結果、欲をかいていないから、強い。

 頭がいい、と言うのが、考える力がある、と言うのが、欲に気づくから、話の主人公にならない、と言うのは、あまり納得がいかないけれど、それぐらい、生きることに、集中力を、持ちたいものだ。集中力、そうだね。欲に気がいかないくらいの、集中力だろうね。

 

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 多くの人は考えている。それなりに意見を持っている。この国に、沈んでいる意見は、海ほど深い。けれど、結果、何もないものになる。ある人が言った。

「大衆は馬鹿だ。いつも、英雄の足を引っ張り、その生末の邪魔をする。だが、個人は、それほどでもないのに」

 そう、個人は、みんな、優秀に分けられる、何かを持った、意志だ。それは、個人を歩めばわかる。道にならない人生はない。そこで、拾い物のなかった人生はない。ただ、どこかで、欲に目がくらみ、人を妬んだりして、道を外れる、人もいるだけのことだ。

 誰かは、バカとは、僻みと、強欲だ、とも言った。

 大衆に、意見はないのだろうか? ないはずがない。自由表現社会だ。誰も、その言論を、行動を、選択を、縛り付けたり、狭めたりは、していない。

「神様になったら、何をする」

 青年が言っていた。色々妄想するものはある。色んなもので話される。神の力。神の完全無欠。

「何もしないだろうな。多少、食いぶちに困ったら、お願いして、死んでほしくない人に先立たれたら、生き返らせて、どこかでいたたまれない事件が起きたら、時間を戻してもらう。あるいは、上手く、ガス抜きしてもらう、程度のことだ」

 と、もう一人の青年は答えた。欲がないな、と言うべきか? 結局、持ちすぎる力は、人間には、大げさすぎる、と知っている、と言うべきか? 神の使い、と言った、キリストや、釈迦は、救済を、人の在り方を、説いた。神の奇跡を持っているものがなぜ、人間性を説くのか? 真面であればいい、それだけを言っていたような気がする。

「いつ、真面じゃない、が人間になったんだろうな?」

 この、自由選択社会、真面じゃないものは、何がしたいのだろう? 何が、欲しいのだろう? 神になったら、好き放題、描いた妄想を叶えるか? それで、謳歌できるのだろうか? 

「本当に欲しいものは、心だ。だから、神になっても、何も意味がない」

 青年は言った。一大衆だ。そこらの一人だ。雑多の、雑多だ。それでも、思っていた。結局、欲しいのは、誰かの、友達の、恋人の、あるいは、自分自身の、心だ、と、考えてた挙句に、道の上で、そこまで、進んできていた。ページをめくり、めくるように、進めてきた、物語小説で、その地点まで、辿り着いていた。綺麗事、と言うか? そんな、気力はない。普通であるが、見せてきた、最良の景色、だったものだ。

「心か? そうだな。心を惹きつける、心になれていたら、至福、だろうな」

 それは、それでまた、豪勢で、贅沢だ、ともう一人の友が言った。それに、答えた側は、当たり前だ、一番欲しいものだもの、と平然に答えた。

 どこへ行く? 翼もないのに、どこへ行く? 

 感覚の丘。すべてのフィーリングを掴むために、感覚の丘にいくのさ。

 そこで、愛の女神に会う。

 感覚なんて、大して掴まなくても、一番初めに感じる、大切なことを、大切に守っていたら、すごく、立派な人間ができる。守れなかった人間が、汚れた結果を残すだけだ。けれど、世界が、清濁併せ持って、世界だ、と言うなら、それもまた、一つの勉強だろう。最終的に、人間を信じられなくならないなら、それで、成功、と言える。

 ・は、ただの・ではない。もう、-であり、ただの、-でもない。物想う葦は、人に、人を見る力を与えた。それが、個々の考えを、失望と、希望、両方で、培うべき、思考に、至らせた。僻まない。強欲にならない。なぜなら、バカじゃないから。そう言える、輝きが、世界には、この知られいない、各所に、散らばっている。

 悪しき算段をしているのは、いつも、悪しきなんちゃら、だけだ。人間が情けないなら、まず、作ったものが情けない、に過ぎないことだ、と言うことを、始まりに、認識しておくべきことだ。

 

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「ほ、ほう」と言わせたら、僕の勝ちだ。僕の生涯をかけた、文章決戦。あの頃はあった。ただ、ひたむきに、失うことを恐れず、走り切ることだけに、注意をかけられていた。前しか見ていなかった、その姿勢は、背後が、欠落でも、特に、気にならなかった。

 でも、今はどうだ。ただ、自堕落に、過ごしていないか? 言葉は、書けるようになった。もちろん、当時から、あの門を突破したところから、できるようにはなっていたのだが、軽々しいは、今の僕の方だ。世界と、全面戦争する気があった。それを、聖戦と言って、歯向かう、気迫があった。

 全身全霊、少しそれている。体のいい言葉を並べる。思い付きでも、気づかれないなら、それでいいだろう、で済ます。走る理由は、ない。走らなきゃ、と言う切迫が、なぜ、あったのかも知らない。ただ、勘違いでも、思い過ごしでも、世界には、必要な変化の時期がある。そう、思い込んでいた。だから、気づいた人間がやらなきゃ、どうにもならないだろう。動機と言えば、それが、動機だった。

 結果、素晴らしい、書物ができた。自分でも納得のいく、自画自賛、上等の、傑作だ。すべてにいきわたり、すべてに解を通していた。ただ、世には弾かれた。ただ、編集者に送っただけで、済ませたからかもしれない。けれど、気づかれなかった、理由は、きっとある。僕には、早い、それだけだっただろう。

 虫になる。文字を綴る虫になる。とにかく書いた。書けるかな? と恐れとともに書いた。自分では、納得のいくものができた。まだ、今を生きているものの文学だった。真面に、文章を学問していたのだ。見えてくる世界は、星々を観察するより、高貴に思えた。届け、と願った。届いてくれるだろう、と思った。届かなかった。また、弾かれた。

 よく分からない。世界の求めているものが、よく分からない。どうなりたいのか? どうありたいのか? 現状維持、だという。永遠を願うなら、それがいいのかもしれない。それでも、僕は、文士だ。文章で、世界を、世界の一部門でいいから、変革することを選んだ人間だ。

 革命的、と言っている。やる以上は、他と同じじゃ意味がない。今までの続きでは、価値がない。第一、すでに、廃れているのが、文章の世界だ。僕に見えている可能性を、誰も知らない。伝えたい。伝えなきゃ。もっと、人は、深く沈むことができる。深淵に、顔をのぞかせることができる。主張は変わらない。いつまでも、人間の、奥深さへの挑戦だ。

 今、ブログをやっている。多少なりとも見てくれる人はいる。同じ、文士だろう。覚悟はあるか? そんなものはない。と言うかもしれない。また、あるさ、と余裕しゃくしゃくで言ってのけるかもしれない。僕にはあるのだろうか? 

 少し、文章をなめつつある、気がする。下手に、文句が出るから、言葉になるから、熟考が足りない気がする。別に、設計図を描いて、ブログを書く人間はいないだろう。けれど、今僕は、書いている、小説でもそうだ。ネタを練らない。ブログのように、その場の気づかいのみで、話しを進める。言葉は、積み上げられる。だいぶ、層ができた。どこをとっても、何か、伝えたいことを伝えようとしている、跡はある。それを、努力と言うのか? は別だ。

 最高の恋文、それは、覚悟、と書いた。最近では、気持ち悪がられるかもしれない。それでも、気になる人からのなら、嬉しいだろう。恋文を書くように、人に奉仕できているか? 

 追及は、後を絶たない。どこかで表現する以上、願いを持っていなければならない。自分への願いは、声にならない。たとえ、見かけだけでも、他人への願いでなければ、詩ではない。奉仕が、すべてだ。

 今の僕に足りないのは、何にせよ、覚悟、だろう。

 

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 空を飛べることは豊かい? 空は、思っているほど飛べない。本当に飛べるのは、ごくわずか、だ。では、その翼は何なのだい? 不良品の、品のない翼だ。飾りのようにあるだけで、何も教えてなどくれない。僕は、想像の翼になりたいのだが? 必要とするものはいないだろう。空は、思っているほど飛べない。

 君は、みんなと輪を描いているね? 大分、仲間を信じられるようになった。みんな、同じ境遇の、友や、戦友、と言うのにふさわしい、人達だから。優しく、愛をくれる。それで、幸せなのかい? ああ、幸せ、とは言えるだろう。不満を言えるほど、人が、周りが、チャンスをくれないわけじゃない。

 しなだれたカラス、知っているかい? 知っている。未だ、役目を放棄したカラスだ。そうだね。僕は、未だに、テレビドラマを見ない。世界の一部であることが嫌いなんだ。卑怯、だと思う? いや、どうせ、何も変わらないさ。遅かれ、早かれ、状況は、悪転していた。誰も、自分を知らないのだから。空なんて、飛べてもいないのだから。

 君にも君の苦労がある、と言うこと? 苦労なんてない。ただ、不満はある。言いたいことは山ほどある。だろうね。いつも、不満を言っているものね? カラスが、殊勝になれば、また違う。私たちも、あるべき姿、と言うものを見つめ直す。そうだね。そこは悪いね。僕は、引けばいいところに来ると、逆に押してしまう悪い癖がある。君は、美しい鳥だね? 誉め言葉にならない。もっと、神髄を射抜く言葉が欲しい。僕には、これが精いっぱいだ。君を、正しいとは、とても言えないからね。ほら、引かない、だろ? 少し、嫌になるな。

 地球のことを考えたりはしないんだね? 必要がない。私たちは、ただ、空を飛ぶ、鳥だ。飛んで、景色になっているのが、役割、と言えば役割だ。そう、そして、それを見て、褒め称えるのが、僕の役目だった。けれど、普通、そんな役目、放棄するだろう? 知らないよ。私には関係ない。そうだね。少し、自分事に慣れ親しみ過ぎた。君らの願いを考える、僕でいるべきだった。拙い翼だ。どうして、本当のことを言わない? 

 今度は逆に質問された。何もかもが本当のことで、何もかもが、本当じゃないこと。僕は答える。

 分かった。君らが、思っているほど、好きに飛べないでいるのは。それは、思いやるべきことなのだろう。色々しがらみが多くて、色々、不幸だよね? 

 幸せになりたいは、普通に思う。今、幸せじゃないは、普通に思わない。ただ、幸せとは、ゴールで、いつかたどり着くもの、と言う価値観がある。いつ、本当の不幸に突き落とされるか? 何て、私たちには、何も分からないことだから。踏みそこなわないように、踏みそこなわないようにしていても、突然、窮地に追い込まれることはある。恐怖を感じていても仕方がないけれど、今の自分たちでいること以外に、自分たちを保つ方法は知らない、生き物だ。いきなりなれ、と言われても、地上を歩く、生き物にはなれない。我がままでもなれない。幸せだから、幸せのままいるしかない。この不幸は、激しく、私たちを、動揺させる。ここにいるものにしか分からない、苦労、だと思う。意地があり、誇りがある。ただ、褒めそやされるだけで、笑ってなどいられない。あなたには分からない。私たちが求めているのは、本物の、理解者、だ。

 何となく、切なく映った。悲しい定めは、飛べ、と言われたときから、背負わされていたのかもしれない。僕は、地上を、一歩ずつ、歩く、生命でよかった、と思った。

 仲間が待っている。私には、私の役目がある。簡単に、抜けられるものじゃないんだ。

 と言って、飛び立っていった。また、あの、見られる、と言う世界に。華やかで、人々の憧れであり、舞踊のステージへと、飛び立っていった。

 彼らに必要なのは、本当に、その心を理解してやれる、愛してやれる、包み込んでやれる、理解者、何だ。それがあれば、きっと、もっと、奔放に空を飛び、我々に、感嘆を、与えてくれるのだろう。

 そうなければいけない、とは言わないが、考えるな感じろ、ばかりにこだわる気持ちが、少し、分かった気がする。感じていれば、その翼は、鋭敏に、風を切る術を、ただ、教えるのだろう。

 

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 ずいぶん、気に入っているように思われるかもしれないが、太宰の言葉、芸術の美は、所詮、市民への奉仕の美である、と言う言葉を良く引用する。これを用いて、女の子が、裸の男の体を嘗め回して喜ばれていたら、それも芸術だ、と書いたこともある。そこまで、あからさまな表現ではなかったが、言いたいことは、ニュアンス的に、同じことだ。もちろん、男と女が逆でもいい。女性蔑視、男尊女卑は、今朝から、嫌われる。そんな意図自体はなかったが、気は使うべきことだろう。何せ、市民への奉仕をやるわけだから。嫌われては、元も子もない。ただ、僕が男だから、逆に、男が体を嘗め回して、と書きづらかっただけのことなのだが。

 それは、おいておくとして、芸術とは、そう言うものなのだ。いかに魅せるか? であるとしても、いかに喜ばせるか? であり、いかに喜ばれるか? とは、いかに奉仕するか? なのだ。それ以上にも、以下にもいかない。求めるから、鬱陶しいものに認知されてしまう。

 つまり、僕が、作家として、中途半端にもいけないのも、新人賞をことごとく落ちるのも、奉仕の精神が、それだけ、足りないから、この一言に尽きる、ことなんだ。

 他は、一切ない。

 確かに、僕は、世の中をよくしようとは考え続けてきたけれど、市民にいかに奉仕すれば、は考えてこなかった。他人事のように、他人任せで、生きてきた。それでは、その分野で、トップに立てるわけがない。そして、これからも、考え方が変わらない以上、生み出すものも、よく奉仕されたものじゃなく、よく思想をこねくり回したものになるだろう。

 それでは、この男の先が思いやられる。気を使い、気を使い、しつつ、来た、とは言え、我を通す面は多く、決めていることは変えない。奉仕するではなく、下手したら、奉仕される、にさえ、なりかねない。この、世界への反抗心だ。問題になることは、アラとして、至る所に発見されるだろう。

 ここが分かりづらい。なぜ、もっと、譲歩しないのか? 上から目線が気になる。サービス精神だろ? 必要なのは。と、言われる。

 嫌になるぐらい、自我の塊に生まれたものだ、と思う。繊細さも、細部へのこだわりも、あったはずの優しさも、どこか遠いものになり、自己満、と言われる、粗大ゴミにしかなれない。

 愛に深くなるなら、愛せばいいだけの話のものが、道理、理屈を追いかけて、頭でっかちの、説明文にしかならなくなる。それでは、感じる人間は、まず、拒否の反応を示す。道徳や、道理が、どんなに大切でも、意味が分からない、の一言で、かき消される。

 まったく、面倒な、正確に生まれたものだ、と思う。解がなければ、納得しないし、すべてに解がある、と思っている。答えなんてない、と言う自然派の言葉を、端から無視だ。僕は、そう言う人間だ。

 では、どちらが、市民に奉仕できている? と言う話だ。単純に足りないものが、多すぎる。いや、足しているものが多すぎる、のかもしれない。何にせよ、奉仕の精神を学ぼうとしない限り、らちがあかないのは、確かなことだろう。

 それでも、売れるために、自分の観念を変えることは、認められないんだよなァ。そう言う、ややこしい性格だ。割り切りができない。一冊でも、奉仕に、奉仕しまくった作品を書いて、認められてから、自分の書きたいもの、表したいものへ行けばいいのに、と言う忠告も聞かない。我の、凝固だ。

 それでも、こうして、生きていくのだ。

 できませんわ。あなたは愛する男性ではないのですもの。という、どこかの淑女のように、そう言う性分を持って、これからもやっていくのだろうな、と思っている。

 はてさて、それで、認められる日が来るのか? どんな陰険な手を使っても、奉仕するばかりを考える世の中にあって、また、一人、唯我を行く、浄化していくばかりが念頭の、ドラゴンクエスト、だと思う。

 

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