革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ -17ページ目

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 愛するを覚えたわけじゃない。恋は知っている、だけだ。永遠にはいけなかったが、永遠に思える想いだった。彼女がいれば、他は何もいらない。よく聞くセリフだ。けれど、本当の恋を知っていれば、誰もが、経験する感覚だ。夢と、恋、夢を選んだ、僕だけれど。

 どうせまた出会いがあるだろうぐらいに、それぐらい想った人を離しても、思っていたんだ。けれど、年を取る、と言うのは、恐ろしいもので、経験が、恋愛を、純愛から、利己愛に変える。自分にとって、都合がよくなければ、付き合う、理由もないんだ。

 やりたい、は、適当に処理できる。風俗で、岡村が問題になった。そりゃ、問題だろう。大問題だろう。けれど、その倫理違反にも、鈍感になっている僕がいる。まァ、また、性の問題で、未熟な人間が、口を滑らせたか? ぐらいに、思っている。

 別に、それで、彼が、役を奪われても、テレビを見ない僕からしたら、何でもないが。残念なのは、僕の初めの反応の方だ。若いころなら、顔を真っ赤にして、怒っていただろう。どうかな? 違うかな? もう、忘れた。ほら、残念だ。

 彼も、恋に破れた、人間なのかもしれない。ずっと、大切にしているものがあったことだろう。それが、時を経れば、そうなる。年を取る、と言うのは、色々、刺激、思惟激に、触れ過ぎて、麻痺してきて、摩耗してきて、純粋さはあっても、純粋に感じる能力には、どうしても、衰え、と言うか? 敏感ではなくなっていくものだ。それで、軽はずみなことさえ、口にしてしまう。

 年が悪いとまではいわないが、自分自身ある感覚だけに、あまり、他人に文句ばかりは言えない。少しの、女性蔑視も嫌った、若かりしころが、とても尊く思える。

 これは、寛容になった、と言うべきか? 悠長になった、と言うべきか? それともやはり、ただ、鈍感になった、と言うべきか? 本当に憎むべきは、やはり、年、なのかもしれない。それとも、いい年の重ね方ができなかった、幼さ、だろうか? その方が、的確、と言えば、的確なのかもしれない。

 思えない人がいたら、自分の欠落について、知っているのも、大切なことだろう。人は、余分なものを脂肪、筋肉にし、本当に大切なものを、脱ぎ捨ててしまう。

 老成は、何でもかんでも、受け入れていたら、それは、それで、敬虔に欠ける。最も、それ以前の、幼稚な発言ではあるのだが。

 二度と恋はしないだろう、を悲しくは思わない。世界が、男と女の物語、であっても、悲しくは思わない。むしろ、恋疲れをした人間のように、あの感覚に埋もれて、多感に、あちこちを振り返りたくはない。心は、静かな、湖、のようで、できるだけいたい。これも、老成、か? 

 恋をしない人間が優れている、なんて理屈はないが、いつまでも恋はしていたいよね、と言っていた、彼らは、その通り、恋をしているのだろうか? 人生は、楽しんだもの勝ちだから、らしいから、そこまで、純粋無垢を維持できるなら、立派なものだ。

 死と再生の繰り返し、一度死んだ人間は、再生しても、恋心まで再生するとは、思えないのだが、みんなが一度は経験する、あの感覚を通ってきた人間は、今、その感覚の真っただ中にいる人間を、どう見るのか? 神が、初恋は叶わない、と言う発言の気持ちが、分からない、でもないでもない。

 いろんなものをまっとうにしようと思い、行動してきた。いや、思考してきた。頭の産物。恋に欠ける、と言うことは、人間として、欠落している、と言ってしまうのだろうか? 僕には、少し、辛らつだ。

 それでも、愛は、持っているよ。いや、育てるつもりだ。だから、大概の男女間の煩悶は、愛で、解決していく。愛は、永遠不変だろ? どこかの、吟遊詩人のように、その想いを歌にしてくれ。

 僕らは、愛になっていく、猿から毛が抜けた、厳かなる、気高き、生き物。

 少しも、疑っていない。

 

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 これは、架空の話です。僕にそんな権利もなければ、力もありません。と、前置き。

 フォローをする。すると、アクセスが返ってくる。上手くいくとリピーターになってくれる。それで、85まで、アクセスを伸ばした。本を売っているのだが、そこまでいくのは失礼だ。それは、よく承知している。

 アメブロと言うのは、アメブロ内で記事を作成している人が顧客だ。もっと、外から入ってくるものと思っていた。ふと、見たくて訪れた人が、覗くように見れるものだ、と思っていた。けれど、そこまで、一般のものにはなっていない。文化の成熟度が未成熟、と言えるのだろう。

 純粋に、文章が読みたいだけの人にアピールするにはどうしたらいいのか? やはり、個人で、ワードプレスで始めるのがあっているのか? PVが集まるか? 集まらないか? は別にして。

 何にせよ、接触の方法がこれしかない以上、この方法に頼るしかない。けれど、やっていて、虚しくなる。ただ、数を集めても、なんだか、一気にやる気が失せた。それで、一度、フォローした人を全部消したことがある。それでも、アクセスは続いていたから、いいねをもらっていた人だけを、フォローすることにした。そうしたら、すっきりした。アクセス数は、有り難いことに、今でも、40はある状況だ。フォローした数が、そのままアクセスの数になっている。だいぶ、つたなくなってきたので、疲れか、麻痺かで、前の方がいい文章が書けていたのに、と申し訳なく思うが、だいぶ、いい状態だ、とは言える。

 ワードプレスと言えば、夢がある。街を作る

https://ameblo.jp/rightown/entry-12572075488.html

 

だ。いつか、そんなプラットーホームを作りたい。そのためには人材がいある。真面に文章に、命を懸けているものはいないか? いないでもない。心ある文句を並べている人はそれなりにいる。今のところ目をつけているのは、目立っている、一冊300円ぐらいですさんと、世に惑う老紳士さんぐらいだろうか? あと、ちらほら、気になる人はいる。まだ、真剣に見ていない人も多い。

 鷹狩り、鷹で狩るのではなくて、鷹を狩る、鷹狩り、戦士狩り、文士狩り、でもいいが、を始めた。どうせ、フォロアーするやり方じゃないと、結びつく機会はないのだから、どうせなら、こちらが読みたいもの、もちろん読書家は欠かせないが、何らかの可能性がある人を選びながらフォローしていこう、と本来なら、当たり前の話に戻ったわけだ。そして、夢へと、繋げる。夢しか見ていないんで、夢の話は得意なんだ。

 何の方法も知らないところからの話だから、戯言、と思ってもらっていい。あまり気にしないでもらっていい。ただ、僕がやるにしろ、他の誰かがやるにしろ、もう少し、なろう小説家とかいうかたちじゃなくて、このブログのかたちの文化で、文章に特化した、SNSがあってもいいかな? とは思う。実に、ジャーナリスティックなタレントさんなんかに、Twitterで半端に呟くより、心いくまで、文章で書いてほしい、と妄想を抱くわけだ。同じ年の、山本太郎なんかに書かせたい。賛否両論生まれそうだが,元気が出るテレビのころから見ていて、やる気は買える。

 話は変わるが、今度、兄がアメブロを始めるそうだ。結婚相談所をやるのだが、それの宣伝に使いたいらしい。ただ、集客が目的ではなくて、この人の話なら聞いてみたいというような話が書きたい、と言うこだわりに、さすが、僕の兄貴だ、と思った。まだ先になるだろうが、その時は報告するんで、まるで関係ない分野かもしれないが、軽く覗くくらいの気持ちで、見てくれると嬉しい。面白おかしく、人間性豊かに、と言うことなので、案外、僕なんかより、あっという間にアクセス数を獲得するかもしれない。それとも、やはり、苦戦の連続か? まァ、そんなに重きを置いているわけでもなさそうなので、一つの楽しみではある。

 つまり、少し、嫌気がさしてきていた、このブログ作業も、若干、意味合い的なものが生まれた、と言う、僕の私感だ。

 みんな、結局は、同じ文士だ。世界を、それぞれの目で見ている。共に、頑張ろう。

 

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 宿屋での夕食だ。人一倍、豪勢の料理を注文した。タイシが食べるため、と言うより、アンキに食べさせることを、快、としている。豊かな街の、豊かな農場、牧場で育った、肉や、野菜だ。

「世界を良くする人間は、限られた数、しかいないの?」

 アンキは、鶏肉の炒め物を皿事口に運びながら、両頬をいっぱいに膨らませて言った。彼女の名前が、疑心からきているのを、彼女は知らなかった。ただ、呼ばれていた通りに、覚えていただけだ。

「良くしようと思う人間が少ないんだ。自分の意見を通そう、それで注目してもらおう、ですらない」

 タイシは、骨付き肉を、アルミホイルで包まれた、ところを持って、齧りながら言った。

「ですらない?」

 アンキには、意外な返答に思えたのだろう。まだ、口いっぱいの料理を、むしゃむしゃと噛み砕きながら、そこは、ばかりの人間だ、ではないのか? と疑ったわけだ。現に、テレビでは、批評している人間ばかりだ。いや、どこを見ても、批評しかやっていないようにさえ思う。

「ああ、何がしたいのだ? と思う?」

 逆に、タイシは質問してきた。当然、そんな理由は、アンキには、想像もつかない。売名行為、と言うなら説明がつく。アレコレ首を突っ込んで、政治の話などに、意見を言っているのに、その目的が、自分の正当化、ですらない、としたら、話し出した意味が分からない。

 だから、アンキは、何も答えず、もごもごまごついていた。

「何もしたくない、が正解、だ。何も変わらなければいい、と思っている。間違った政治、間違った世論、間違った自分評、色々あるだろうが、それらすべてを含めて、今が、今のままならいい、と思っている」

 変える気が、初めからないんだ、とタイシは言った。アンキは、腑に落ちない表情をしている。だから、タイシは、後を続ける。

「なぜか? それは、変わっていって、一番困るのが自分でしかないからだ。物事を変えるのには、ものすごい力がいる。自分たちが、それになろう、力に加わろう、とは当然思わない。いつものように、自分は、ヒーローではない、さ。別に、そんなものをヒーローと言うわけでもないのにね。また、他人に、変えられても困る。自分の立ち位置を奪われる可能性があるからだ。激動の時代なんて、過去を見るものであって、今、現在進行形で体験していくべき時代ではない。何だかんだ、と、文句や、いい加減なことを言って、ああ、この人は、信じられる人なんだな、と思われて、進んで行くぐらいが、一番、居心地がいいのさ」

 ご飯に、箸を移しながら、タイシは、本当は、何の役にも使えない連中だよ。と、ため息を交じらせながら、言った。新聞、芸能、文化人、はなやかに、世界は、テレビと言う、簡易な道具で、世界を映す。彼らは、まるで、世界は自由であるように、自分次第であるもののように言う。けれど、その姿に、タイシは、ただ、辟易していた。

「タイシは、世直しをしているの? そのつもりでいるの?」

 アンキは、あなたは、どんな人? 変える力になりうる側なの? と、気持ちを込めて質問した。

「そうだなァ。どうしてやってもいい。変えるなら、変えて見せてもいいし、今の連中を尊重して、今を維持してやるなら、それでもいい。ただ、やる気もないのに、批判ばかりするような連中にはならない。一番困るのは、民衆だ。民衆にとって、情報操作じゃない、一番の在り方を、いつも、模索するつもりでいる。後は、それを、どこで発表するのか? だな。SNSを使って、呟いてもいるのだが、なにぶん、拾ってくれるものがいなくてね」

 と言った。結局、世直しをする、とは言い切らなかった。それが、残念な風に感じられないのは、自分も何だかんだと言って、今のままが、心地がいいから、なのだろうか? 本当に不満があるなら、変えたくて仕方ないなら、実際、それに向けて、行動に移しているはずだ。アンキは思った。

「何も言わないものは、何もアクションを起こさないものは、賛成に、数えられる。それは、社会が悪いのではなくて、自然なことだ。ただ、演芸をやって、マイノリティーだ、マジョリティーだ、どうの言っても、変わるはずはない。バカの妄言で済まされて終わるだけのことでしかない」

 そう言って、スープを、がぶ飲みした。彼に従うのは、従うで、色々軋轢が生まれるのは、また見えているな、と、アンキは思った。

 

                   続きます。

 

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 確かに、堕落と、惰弱な日々に見えたかもしれない。僕は、何かに勝つ前に、自分に負けていたんだ、と言われるのかもしれない。けれどねェ、僕は、できない、を知っている。できなかった、を知っている。ただ、やればいい、と言うものではないんだ。

 それが、できるようになったじゃないか? やれる能力があるじゃないか? やれる暇があるじゃないか? もっと、磨けば、もっと、優れることはできただろう? いうかもしれない。けれどねェ、僕は、燃え尽きるを知っている。灰になるを知っている。だからこそ、そこから再生して、なってたまるか? と言う気持ちを持っている。

 虫のように、ただ、ひたすら描けばいい、と言うものじゃないんだ。人生は、短いようで、永い。永く、できる人間でいることが、最善なんだ。僕は、僕の人生の作り手だ。僕の好きに作らせてもらう。灰になって、誰が保証してくれる。保証があったとしても、自我をなくしたその体で、誰が、それが、僕である僕だ、と言える。僕は、僕の意思を持って、立ち向かうことが重要で、僕の意思を持って、喜びを掴むことが重要だ。操り人形なんてならないよ。いつまでも、おかしいと思ったことには抵抗するよ。自我で、できた可能性を話していくよ。

 君は、練習をしてきた、と自分のことを想っているかもしれない。けれど、君は、僕ほど、世界を、俯瞰して見られるかい? 世界を、想って、こうあるべきだ、と言えるのかい? 

 一時期、ただひたすら書いた時期があった。一日、十枚は書いただろう。そのころに比べれば今は、三分の一、といったところだ。いや、もっと、少ないかもしれない。確かに、あの時期、伸びた、あの時期掴んだものがあった、とも言える。けれど、それは、今掴んでいっているのと、大して変わりはしない。

 盲目的に進むことは、何もしていないのと、変わりがないんだ。必要なのは、ある、と言うこと。そこにある、と言うことだけなんだ。体は、覚えていく。惰眠じゃないなら、何らかの世界の意図に絡められている。その意図を経験することができる。

 それが、後で、文章になる。言葉になる。大切な意味が分かるようになる。無駄なものなどないとは、世界が常に、無駄なものを持たず動いているからだ。それに、いい、悪い、がある。それを、精査するのが、そこにいた、あっただけの人間にできることだ。しかできないことだ。だから、あるだけで、まず、重大な、意味合いを持っている。

 書くことは、難しくない。息をするように、書けるときだってある。もちろん、つまるときも、自分で納得のいかない文章を書いてしまうときもある。そういうときは、酷く気分が悪い。悪い、と言うより、疲れる。苦痛になる。自分は、何もできていないのではないか? と落ち込む。最悪な、時間帯だ。

 それで、また、立ち上がって、書き始める。そこで、拓けた自分を見つけることができる。日々は、そうやって、研鑽と、練磨の日々に変わる。無駄をやっているわけじゃない。生きている。それがどれだけ素晴らしいことか? を君は知らな過ぎる。

 現に、良さについて語ることがない。喜びについて語ることがない。人間として、人間の生の在り方にそっていない。堕落と、惰弱で、手に入れたものは、理想、だった。自分の理想ではない。そこから見ていた、世界の理想だった。一番下に堕ちたから見えた光、だと思っている。

 僕は、努力はしない。好きなことに努力はない。もちろん、努力と言ってしまうときはあるだろう。それなりに、頑張った時間は、山のように積みあがっているからな。勉学はする、と言っている。努めるものは、努める、と言っている。それでも、無意味なら、努力はしない。味を感じないものはしない。味を感じないものに、色を使い分けられるようになるとは思えない。色を使い分けられないなら、それは、作家として、不能と同じだ。

 必要なのは、余力であり、ゆとりであり、余白だ。そこから出る、さまざまな色にこそ、人の見るべき価値がある、と信じている。

 

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 国語辞典だが、辞書に載っていた言葉をすべて丸暗記しよう、としていた頃がある。三日坊主で終わったが、それだけボキャブラリーが足りなかったし、辞書に載っている言葉さえ、覚えてしまえば、作家として、恐れるものがなくなると、思っていたんだ。

 今は、だいぶ言葉のすそ野が広がり、また、ないならないで作ればいいのだ、と、漱石もやっているのだが、自分で漢字を組み合わせて、草春、夢限、遊愛、のように作ればいいと、楽になったが、それでも、イメージしたものを表現する言葉が見つからず、躊躇することはあり、やはり、言葉数が足りないことに、おののくことはある。言葉の世界が、どこへ連れて行ってくれるのか? 少しやってみよう。

 knock ノックする。

 Knock three times before entering. 入る前に三回ノックしてください。

 何度、その扉をたたいたことだろう? これが開かなきゃ、次がない、とばかりに、叩き続けた。行ける世界が、あり、行きたい世界があった。その扉が開きさえすれば、まったく新しい世界が、待っている。僕は、行きたくて、行きたくて、仕方がなかった。今は、時折に数が減ったが、それでも、この扉の前に来ると、しぜん、何度か、扉をノックしている。未だに、見たい、景色が、その向こうにあるんだ。

 lie 嘘、偽り。

 a white lie 悪意のない嘘。

 嘘つきだって言われる。僕には、まったくの自覚がない。僕は、いたって真面だからだ。けれど、君は多くのものを騙している、って言われる。『全人類の恒久的幸福』、その言葉を使うこと自体が、嘘だ。と言われる。いや、行けるだろう。考えるまでもなく、今の人間の叡智で行けるだろう。感覚が、感性が言ったことだ。そんな訳はない。世界が、すべての人が、永遠に幸せになるなんてことが起こるわけがない。そんな言葉を掲げただけで、大嘘つきだ。詐欺師だ。僕には、未だ持って、何が不可能なのか? 分からない。だから、こそ、生まれつきの嘘つき、だそうだ。

 mercy 慈悲。

 throw oneself on a person's mercy 人の情けにすがる。

 神の慈悲は、必要な時に、必要なだけしか与えられない。人が苦しみ、世界が戦乱にあっても、それが時代なら、慈悲なんてものは現れない。それこそ今こそ慈悲を与えるべきだ、と言うときでも、サイコロでも振っているように、気まぐれに、ふと、地面に落ちていることがあるばかりだ。納得がいかない、の前に、そんなに甘いわけないだろ? がある。僕は、慈悲深く、神に慈愛を感じた。

 need 必要性。

 We have no need of your help. 私たちは君の助けなど必要としていない。

 当たり前だろ。おまえらが、オレの助けを必要としていたら、笑うわ。必要としているのは、オレの方だ。オレが見たい世界があるんだ。そこへ行けば、僕らの望むままの、もっと見るべき世界が見られる、と思っているだけなんだ。僕の人生には、その景色が必要だし、世界は一度、その景色を見るべきだ、と思っている。必要か? 必要じゃないか? ではなく、必要だったか? 必要じゃなかったか? にしたいだけだ。

 

 辞書は、人の能力だけで作られた、完全人工物だ。そこには、人の、人を学んだがゆえの、人工の美が、あちこちにちりばめられている。神の、一切関与しなかった世界。辞書の宇宙は、人間の宇宙、そのものになる。僕らは、そこから、人間の描き出したかった世界を、学ぶことになる。だから、辞書を知ろうとすることは、人間の不完全を知ろうとすることでもある。

 僕は、その人間の扉を、何度も、knock してきた。が、実は、いかに、真実とは違う、僕の知る限りにおいては、今までのことが、lie になる、完全人工物ではないその叡智であるかが、無mercy な、その、いや、無意味なその、世界観で、存在するのか? 本当の意味での、人間実存の、need になるのか? を、問いとして残しているのが、世界が笑えるか? の、大きな分かれ道になることだろう。

 

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 久しく感じなかった。と言うより、感じたことはないのだろうな。一つは、未来的な人間だった、と言うのがある。ずっと、未来を見ているから、今のもどかしさなんて、大したことではなくなる。今、上手くいかないのは、過程の段階だから、と変換を聞かせて。

 それが、自己養生の、対処法、だったのかもしれない。知らないところで、知らないうちに、自分で、自分を、回復させていたのだ。もどかしいに、憑りつかれて、神経をやられてしまわないように。

 と言っても、僕は、神経をやられている人間なのだが。本人には、そう言う自覚はない。ただ、苦しみを与える、憑き物が、絶えず、どこかに、つきまわっているだけだ。その程度の認識だ。大変なことだが、僕より大変な人は、いくらでもいる事実があるから、大変ではない。そう言うものを与える、神を、悪魔以下に下劣だな、と罵るぐらいだ。

 一つは、諦めきれる性格だから、だろう。もどかしいの前に、どうにもならないものは、どうにもならない、と言ってのける。人でもだ。救えない人は、救えない、と言っている。救う気がないわけじゃなくて、向こうに、救われる気がないんだ。変えられない考えは、変えられない。ただ、これからの意志には、まだ、判断していないだけに、それに応じた、教材は提供できる。勇敢な、大志、出会ってほしい。大志が、損失しか生まないもの、であった、としても。

 僕は何て、無知なのだろう? 勉強してこなかったからに尽きる。そして、自分は何て、博識なのだろう? と思うヤツは、なら、なぜ、世の中に還元しない。世の中をより良き世界にしようとしない、に尽きる。どちらにせよ、培ってこなかった、思想と、主義のなさ、だ。

 思想、主義のなさを、自慢してはいけない。それは、昔の話だ。今からは、持たなければ、ならない時代へと向かっていかなければ、いけない。ループ論で言えば、そう言う時代が来た、ことになる。これからは、思想と、主義で、戦い合うんだ。

 もどかしい、想いをするには、自分がこうすればよくなる、と言うものを持っていて、世間が、なかなかそれを受け入れない環境がなければ、成り立たない。かつて、どれだけ、そのもどかしさで、頭を痛めた、哲人が、いたことだろう。慮れば、可哀そうになる。もどかしい、ほど、いたたまれない、感情もないだろう。僕は、それを、避けてきた人間だ。

 真面に戦わなかった。正面から、ぶつからなかった。竹のようにしなやかに、あるいは、サザンの言うように、軽さを履き違えて、衝突を避けてきた。だから、今、こうして、命を長らえていられる。あの時、空を飛ぶことを思いついていれば、今ここに僕はいないが。それでも、もう、生きる気しかない。

 信念のない人間はよくない。ぜひ、若い人には、信念を持って、培っていってほしい。自分なりの価値観、世界を臨む方法。どうにか、探し出して、自分と言うものを、自分でしかないものにしてほしい。そうすれば、神も、生き残る術を与えるはずだ。利用価値のある人間を、利用する前に、捨て去る、悪意はあるが、能のない、天上の人ではない。うまく利用され、上手く、さらなる利用法を小出しにできる、人であってほしい。

 慈愛を求めてはいけない。そんな、高等な器ではない。駄器だ。

 最近、言葉が足らなくなっている。上手く書けずに終わる。書くと言うことの、終焉が近づいているのか? と感じる。いいことでもあるのだが、中途半端なことでもある。検索能力が落ちたか? どうにかなるも、どうにもならない。けれど、それも、そう思うのは、ここ何年、珍しいことじゃない。もう終わりか? もう終わりか? と思いながら続けている。その度、新しい翼が生えたように、また飛べた。今度もそうなるのか? エンジン切れなのか? は、分からない。ただ、進むだけだ。

 けれど、もどかしさはない。世界が終わる、と言って、終わらせないのは、なにも、僕ばかりではないからだ。

 無能な風は、世界の中央で、吹いている。

 

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 別れは、ごめんと言ったときに来るものでも、これでサヨナラだ、と言ったときに来るものでも、諦めたときに、来るものでもない。地球に生きている限り、あるいは、死んでしまっても、それらでは、人に意志があるのなら、別れ何て訪れない。

 成仏、と言う。仏教家でも、死後の世界を信じるもののわけでもないが、僕は、そう思っている。それらは、どうしても、地球に、世界に、意志を残す終わり方だ。である限り、どこかで、いずれ、巡りあうのは、自然なこととなる。

 ひょっとすれば、魂は、もう、すでに、出会ってたり、するかもしれない。別れは、その人が、もういいよ、と思ったとき、その人にやってくることになる。相手も、それを受け入れているなら、自然、完全な、別れだ。そうして、世界は、次へ進める。

 悔いがある限り、後悔がある限り、納得のいかなさがある限り、他人は、また、世界に、戻ってくるのだ。

 少し、抒情的すぎるか? まァ、おそらく、世界は、そんな風にできているのではないか? と言う話だ。

 だから、悔いなく、後悔なく、生きることが、人間の一生を、やり遂げた、生き切った、と言うことではないか? と思う。後に、寂しさや、満ち足りないものを残してはいけない。だから、本物の別れが訪れたときが、人間の本当の、解放だ、と言える。

 どんな、死後があるか? は知らない。僕だけでなく、生きているものは、不思議と、誰も知らない。科学でも、解き明かせない。科学は、そんなものはない、と言うだろう。それなら、言っていることは、非科学的なことだ。

 科学で解き明かせないものはない。が持論だ。なぜなら、科学とは、ものの仮定ではなくて、ものの検証、実存、真理の説明、だからだ。なかったものを科学することはできない。起こったことを科学することしかできない。予想はたつ。予測もたつ。仮定である、と言える。けれど、その段階では、誰も、まだ、科学的、とは言わない。アインシュタインの予想が、次々にあったたことがある。科学のさいたるものではないか? と言うかもしれない。けれど、アインシュタインは、すでに、物事の過程として、そうなるのが、当たり前だ、と理解していてのことだ、と思う。ただの、予測で言っていたわけではない。彼には、彼の、確かな、確固たる、確信があったから、言えたことだ。

 それに比べれば、この理屈は、あまりにも、心もとない、思い付き近い、推論に過ぎない。ただ、僕は、科学をやっているわけではない。エッセイ、随想、小論文をやっているだけだ。完全仮定の話が、許される。

 そうなればいいな、ではなく、そうなのではないか? ではあるが、そんなものだ、と言う、軽々しさがある。特別、重大事として扱ってもらわなくてもいい。そんなもんかしら? であればいい。

 人間、人間をやっていれば、悔いが残ることが、一番、後ろ髪引かれることだ。解消されないまま終わるなんて、そんな、やるせないことはない。大概は、死んでしまえば、納得するものとしても、どうしても、卒業できなかった想い、と言うものはあるかもしれない。

 それが、解消されないまま終わることは、あまりに、悲しすぎることだ。どこかで、満たされなかったものを、満たすことは、世界の摂理、としても必要だろう。僕には、それを、無理なものは無理なだけだ、諦めろ、とは言えない。気が済むまで、やり切れ、としか言えない。それが、人間の世界で、人間をやることの意味、だと思う。

 どうしても、そこまで行くには、それ相応の、執念になる、執着があったはずだ。それが、どこかで、世界に返ってこない、とは、どうしても思えない。ちゃんと、その人の飛ばした、種は、風に乗って、どこかに、飛ばされていて、実のなる木に、大地に芽吹いて、育っているのではないか? そう、信じている世界を、もう少し、信じてみよう、と思った。やるせない、はいけない。人だから。だけのことだ。

 

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 単純な話だ。それ以外に、結論はない。書ける以上、書いて、書くことが何もなくなったら、そこで終了だ。詩人でもなければ、文学家でも、本当はない。ただ、文士が必要だ、と思ったから、なっただけの一文士。漱石の言うように、維新の志士のように命懸けで、やっている。

 書くことは、幸いに、いくらかある。まだ、書きたいことは、徒然にやってくる。書くのに必要な、情熱も、なかなか冷めないものだ。こいつがなくなれば、僕は、解放されるのに、と思わなくもないが。本当は、書けなくなるのを期待してもいる。いつまで続く、この、しがなき務め。

 他に何もやることがないから、とも言える。いや、あっても、書くことはやめないだろう。一、養生になって、一、勉学になる。書けないときほどの苦痛はない。今のところない。勉学になっているから、何ら意味がない、と言うことでもない。ちゃんと、僕が、僕を作る要因になっている。

 華やかな世界を期待していた。僕の離れたところで、僕らが、ゲームの話をしていたように、中学生ぐらいが、文学の話をするのだ。それが日常になり、人が、いかに、文章をよく見せるか? アレが、鋭いか? を、争い、意見し合い、文学自体が、より高まった世界へ行くのだ。思想家が、普通に往来し、文士が、普通に、井戸端会議を始める。

 暇な、チーマーも、ゲーム廃人もいない。より、勇敢な、猛士がいるだけだ。猛々しくあれ、文を操るものたちなのに、男は、そう勇み立つ。神々しくあれ、女は、論文を重ねては、より、女神へと近づいていく。

 何が、視点を左右するか? で、形を変えていく世界。普通に、書くという作業が、作る、と言う作業が、人を作る、と同意義になっている世界。

 物語を作るのではない。人を作るのだ。物語を語るのじゃない。人を語るのだ。大事なのは人で、文章ではない。それは当たり前だ。人を、社会を、良くするための、媒体が、媒体自体が、趣旨に変わったら、本末転倒だ。そのくらいの理解力は、誰もに必要だ。金儲けの、目的になってもいけない。これまで、金儲けが入ってきて、崩れていった山は、いくらでもある。漫画だって、ゲームだって、音楽だって、僕は、だいぶお世話になっているが、僕から奪ったものも、同時にある。それではいけない。

 もっと、純粋に、人生を謳歌する、喜びのいっぱい詰まった、前進そのものでなければいけない。文学には、人を、人の思案をまとめる力がある。僕は、それを、信じて疑わない。発想がなければ、物事の展開もないのと、同じことだ。

 それを、それぞれが、持ち、それぞれに、自身を高める展開に持ち込めれば、そんな、優等な社会はない、と思う。

 文章のいいところは、必ず、一対一になることだ、と言っていた。実際、僕と、君の一対一だ。それは、何をやっていても変わらない。そう言った良さが分からない人間に、望んでも仕方がない。無理に、レポートをかけ、とは言わない。分かる人間だけが、やればいいことだ。

 世界には、多岐の選択があるのだから、その一つとして、これを、この分野が、人間を作る意味で、華やかになればいいだけだ。人生を楽しむ権利は、全員にある。けれど、人生を作らなければならない、と言うことを認識している人間は少ない。

 他人に感化されるか? 他人のレールに乗るか? 考えない操り人形では、面白くなんて何もない。自分で、自分は作り、自分の歩む人生も作る。それが、本当の、民主主義国家ではないのか? と思う。この大志、何千年と言う歴史の中で、積み上げられていった。

 想像上で出来上がった竜は、今、数多なクエストを持って、

https://ameblo.jp/rightown/entry-12576652141.html

僕らの時代に、降臨した。謎を解くように、僕らは、ゲームに夢中になったように、人生を、楽しめばいいだけだ。

 

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 苦しまなくていいよ、どうして、そんな軽々な言葉が言えよう。ああ、僕が代わりに苦しむから、まで言ってもいい。けれど、その人は、その誰かは、いつまでも、その程度で止まったままだ。

 人は、進まなければいけない。それは、その場所に取り残されないため。他人は進むよ。勝手に、置き去りにして、進み続けるよ。止める、力なんて、君にはないよ。

 他人を誉める。凄いねと、有頂天になるまで、誉めちぎる。いや、僕には、到底できないから、と下手に出る。その人は、気分がよくなって、大盤振る舞いに、金を使い、経済がよくなる。これは、他人の為、か? そして、今書いている、僕の文章は、自分の為にで、他人の為にはなれていないか? 

 感動を売る作家がいる。人を殺し、そのどうしようもない理由を吐露し、最後に悲劇が待つ、そんな他人の人生を書いて、英雄のみが、強者として、そこにある作品だ。それで、自分は金儲けをしている。世界に残るのは、何だ? 酷い、カタルシス。何かが、報われた気持ちにでもなるか? 何が、自分を救ったのだ。他人が、自分より不幸だった、と言うことか? 自分は、あそこまで、堕ちていない、と言うことか? 英雄の無類の強さか? 悲劇が起きなければ、救いもまた起きない。その無意味な、創造時代を否定することは、他人の為に働いている、とは言わないか? 

 自分もまた、感動だけする作品を書けばいい、と言うのか? 意味のない作品なんて書いても、それこそ意味がない。他人に、理由を与える作品を書くから、他者本位、の作品と言えるのではないか? 

 これから、世界に必要ではない作品が、どうして、そんな創作だ、と言い切れる。僕は、探している。常々、人を想わす作品を探している。人が想うのに必要な要素を探している。それは理想的に創り上げられるばかりじゃない。作品になる以上、加工しなければいけない。それは、人工の美だ。市民への奉仕の美だ。ただ、意志を貫いただけの作品を売れるわけはない。

 上手くできている、とは言えない。書いてるとき、題意は、失っているかもしれない。それが、一番厄介なところだが、僕は、嘘はつかないことは信条としている。それは、何かを裏切る嘘は、だ。何かは、分からない。けれど、侵してはならない、領域があることは、感覚で分かっている。

 だから、絶えず、作品には、そう言う人間が書いている、と言う影は、落とされているだろう。僕は、僕にしかない、働きで、作品を作り上げている。そこには、必ず、他人の為、という意志のある、僕が、存在する。

 今、世界は、変わるべきとき、だと思う。人は、人の世界は、大きく舵を取るべきとき、だと思う。ここを進まずして、人類社会の栄光なんて、ありえない。

 親は、子を想い、子は親を想う。そんな当たり前のことさえ、作られていない、この社会で、自分だけでも、考える自分でいなければならない。その問いかけが、どうして、思い込み、になるんだ。

 自分が自分を作らなくて、誰が、自分を作るんだ。安楽な道を行けばいい、なんて、どうして言えるんだ。進むには、それなりに障害がある。困難がある。手は貸さない、とは言っていない。どう付き合うか? どう乗り切るか? そして、世界はどう見ているか? を経験上話しているんだ。

 人の意志を曲げるな。自分がどれだけ恵まれているか? さえ知らないのに、他人への感謝の気持ちがないのに、他人に愛される自分になんてなれるわけがない。

 目指さなきゃ、起きないのに、他人の為になる人も、目指さなきゃなれやしない。どうして、それを否定するのを批判するのが、世界の前進に繋がらない、と言えるんだ。今変えなきゃいけないのは、人の根底だ。自己本位でいい、と決められてしまった、人の根底に、少しでも、他人に働く、を光のように、射し込まなければならない。この機会を逃したら、永遠に、争い合う人の誕生だ。永遠、不破な、幸福社会なんて訪れない。

 僕は、ただ、それを望んで、そのための、やり口を、探し、伝え、続けられるように努めて生きていくだけのことだ。

 

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 全然、人の役に立っていない。コロナで、世間は、まいっている、と言うのに、相変わらずの、だらだらした生活のままだ。病気は、このところ、調子は悪くないのに。能天気は、能天気だ。

 ただ、思う。もしここで、愛する人に出会えて、その愛を結実させたとしても、何のために人生か分からない。そう自分は思うだろうな、と。愛は至高のはずだ。誰もが望むもので、愛さえあれば、と言う人は多いだろう。確かに、憂鬱な夕方から、眠り、今起きると、多少改善はしている。こういうとき愛があればいいな、と思える。

 けれど、それでは、ダメなんだ。僕が、揃わないんだ。また、自暴自棄に陥る。

 僕は欠けている、と書いた。初めて、僕が、芸術的だった瞬間だ。確かに、僕は、実際、そんな風だった。そんな風に生きてしまったんだ。そして、それは、パートナー、生涯のパートナーを得ることで、完結するはずだった。彼女が、愛する人が、代わりに背中になってくれることで、その欠けている部分が埋まるはずだった。けれど、今、僕に、その背中が来ても埋まらない。

 僕は大きく欠けたままだ、と言うより、こんどは、心にぽっかり穴が開いた感じだ。それは、他人を満たすことでしか解消しない。されない。より多くの人を。一人でも満たせば、こんどは、二人を。二人を満たせば、こんどは三人でも。三人でも足りず、ずっと、ずっと、たくさん。

 そうやって、満たし続けなければ、この心の空洞は満たせない。充実感、と言う言葉だろうか? 単に、自分に役割がないことに飢えているのかもしれない。苛立っているのかもしれない。他人の為になることをしよう、それが一番の自分の快楽だ。と思って、実際は、頭の中だけで解決させて、何も実になることはしていない。だから、愛する人が現れても、自分が、これでは・・・、

 と書こうと思った。昼間、メモしておいた。けれど、気分の問題なのか? 今は、また、違っている。こういうとき愛する人がいれば、あの肌の温もりがあれば、十分な、満ち足りた器、になれるな、と体が、感じている。

 そうだ。一人じゃ足りないから、二人になるんだ。それだけのこと。何て、単純な話だろう。いい加減も、ここまでくると、オチさえ、つかないな。

 頑張りが足らない。もっと、たくさん書いて、書いて、学んで、学んで、って、下手くそな人生を選んでしまった。

 昔、昔、タッチと言うアニメで、浅倉南が、上杉達也に、キスをするシーンで、嫉妬したことがある。別に、何が問題だったわけではないのだが、浅倉南に恋をしていたわけでもないのだが、生真面目な和也を度外視しして、いい加減な兄貴にキスをする、そのシーンが、好みじゃなかったんだ。けれど、今は、逆だ。今は、出来損ないの兄の方だ。そんな、女神のような、愛する人がいたら、頑張れなくても、頑張るだろうな。

 ハッハハ、腹いてぇ。何だこいつ。何なんだ、こいつ。無様で、みっともない。支離滅裂もいいところだ。何だか、眠くなった。もう一度、眠ることにしよう。目覚めれば、また、違う、気分になっているだろう。

 世界に、たった一つの絆がある、それが、どれだけ恵まれているか、分からなくなったら終わりだろうな。

 疲れた。深い眠りに戻ろう。と言って、眠れない。また、直ぐ書き出す、と言うオチだろうが、三十分でも眠れたらな、と思う。

 

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