非人情 | 革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

革命的文学を新規開拓する、ネオ新感覚派の表現方法。作家山畑健の文化的ブログ

文芸復興が主目的。ネオ新感覚派を求める、文学、読書好き、の人のための文化的ブログ。
革命的文章表現をテーマに、その創造と、その支援を目的としたい。
山畑健と言う本名で、キンドルで本を出している。文学、読書に関する底辺拡大の行動として、ブログを選んだ。

 不人情ではない。確か、夏目漱石が言っていたことだ、と記憶する。この感性が大事なんだ。空は非人情だろう。山は非人情だろう。海は非人情だろう。森は非人情だろう。そう言った、達観のような、自然観のような、唯物論のような、何とも言えない、人間の、情を抑えた、あるいは、超えた、あるいは、消し去った、情の、状態のことだ。

 智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。草枕の有名な冒頭である。ここで、人間社会の生きづらさを語る。

 だったら、非人情であればいいのではないか? と言うことだ。詩は、非人情か? 画は非人情か? 非人情の詩もあれば、非人情の画もある。逆に、人情的詩もあれば、人情的画もある。人情が窮屈になった世界では、非人情の画を、詩を。人情が恋しくなったら、人情的、画を、詩を。人は欲する。引きこもりでも、漫画や、アニメは好むし、都会にいると、いくら金があっても、山村での生活が恋しくなる。

 人付き合いの悪さは、人間嫌いの、人間好き。非人情と言える。いつも人と一緒でなければいられない寂しがり屋は、非人情を理解しえず、ベタベタとくっつくだろう。それでもある瞬間、ふと、非人情になり、自分を俯瞰で見ていたりする。逆に言えば、寂しがり屋ほど、非人情を理解するものもいない、と言えそうだ。

 人情がなければ、人は生きていけない。これは、事実だ。現実だ。だからこそ、その溢れた世界で、非人情を気取る。それは、贅沢である。自己満足である。けれど、人は、この、ニヒリズムみたいな、履き違えの感情を、意外に、気に入る。

 漱石は、則天去私

https://ameblo.jp/rightown/entry-12580525798.html

と言う、一つの観念も、唱えている。私を去ること。これも、非人情、と言えるのかもしれない。気取らないように、気取る、ことでもある。人情社会において、神経衰弱ならないために、用いる、非人情だ。元来、気を使い過ぎることが美徳であるから、そう、塗れにさせるな、と言いたいのかもしれない。

 みんなが東を見ているのに、一人だけ西を向いている。思い出がいっぱいと言う歌では、一人だけ横向く記念写真、規律に反する、と言うのではなくて、また、人情を理解しない、欲さない、と言うのとも違って、風のように、颯爽としている。

 村上春樹の風の歌を聴けも、近しいものがある。よく、喪失感の作家、と言われるが、何も喪失しているわけじゃないのに、選んだ、喪失感。人は、何を求めて、非人情を気取るのか? 

 これも、拡散の法則の一つなのか? より複雑に、均等な複雑になるために、ものは、順列を乱そうとする。それが、新しいを生み出し、僕は、進化論だ、と言った。

 情に棹し、流されないためには、非人情であることは重要だ。時に、人の輪を抜けて、一人になりたい、ときもあるだろう。そのときは、景色が欠かせない。世界の一つであり、世界の混沌には混じっていない瞬間。人情が、混沌を呼ぶなら、非人情は、混沌外、になる。優秀なる、人の立ち方だ。

 ジョジョ立ちか? 情断ちか? 僕は、それぞれの人が、冷たくなれ、と言う意味じゃなくして、この非人情を持つことを、推奨している。何事も、動じない、風の流れのような、心構えでいたいものだ。そうすれば、自然、人への向き合い方も、力の抜けた、自然体なものへ、近づいていける、と感じる。

 愛に猛々しい人であることは、意外に人の世界ではもろく、気の抜けた炭酸でもおいしく感じられることの方が、愛に優しい肌触り、とも言える。

 あいつ、非人情だな。そんな非人情も、認めてみてはどうか? 

 

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