親愛なる先生へ

昨日のお手紙で書いた、「埋め合わせしたい、という発想になってしまう」と「ずっとうまくいかなかったりする」、っていう文、一体なんでそうなるのか、というのが不明でしたね。 

それはですね、しかるべき時期に、どーしても得られなかったようなものを、何を今さら埋め合わせなんて……ということなんです。全然現実的じゃないもの。
シビアではあるけれども、ここはもう、しっかりと割り切るしかないんですよね

要するに、“埋め合わせ”ということでは、ない。
早い話が、“埋め合わせ”なんかしなくても、もう“ある”ということ。
「そんなワケあるか!? “ない”じゃん」なんて人がもしいたら、その人の方がわかってないだけ。

もしかしたら、こういった心構えでいるということが、幸せを自給自足」という方向へとつながっていったりしてる、てことなのかなあ? 

ではでは。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

親愛なる先生へ

昨日のお手紙の中で、ふとした拍子に使ってしまっていた、幸せを自給自足」という言葉が、なんか気になってしまっています。

なんとか自分も、そういう境地に達したい。
だけど、これまでの生育歴を振り返れば振り返るほど、いかに真逆であったかを痛感してしまうんです。

つまり、その「真逆」であった状況を、なんとかしたい、埋め合わせしたい、という発想になってしまうというわけ。
ちょっと思ったのですが、そういう考え方だからこそ、ずっとうまくいかなかったりするのでしょうか? 

また、次回までに考えてみることにしますね。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

親愛なる先生へ

昨日のお手紙には、「とにかくなにもかもこちらが徹底的に悪い」って書いたんですが、それって極端にいうと、こういうことかもしれないです。
「いてはいけない(存在自体がゆるされない)」、と。

とにかく、相手に借りがある状態、っていうのかな。
埋め合わせ・罪滅ぼし・つぐないをせねばならない、って感じ。

だから、このところ頻出している「怒られるのがこわい」という表現は、むしろ、「怒られる」という現象が指し示している、そのような補償の義務が重荷だ、と言った方が良いのだったりして。

だから、常に追い立てられている、という感がぬぐえないし、誰かといるというだけで、どうにも落ち着かなかったりするんです。
もっとも、その“誰か”というのが、ちょうど先生のような、圧倒的な幸せを自給自足してるのが明白な人であれば別なんでしょうけど……。

ではでは。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

親愛なる先生へ

昨日のお手紙に、こんなふうに書きました。
「『怒られ』るのが異様に怖くなっちゃってるのは、例えば『エアコンの具体例』のような目に合わされてきたりしたからなのかも」、と。

この「エアコンの具体例」って、普通だったら、論理が完全に破綻してておかしい、って気付きそうなもんですよね。
だけど、自分は思い付いたんです。これがおかしく見えなくなるような捉え方がひとつある、って。
その捉え方とは、「とにかくなにもかもこちらが徹底的に悪い」というふうに判断する、というもの。
なにしろ自分のことは自分ひとりじゃわかんないといえるのだから。

論理が破綻、といえば……。
以前のお手紙にもありましたっけ。3月24日のお手紙の中に取り上げた、まるで超能力者にでもなれといっているかのような例。
コレ、じっくりみてみたら、「エアコンの具体例」と同様の構造をしてるといえはしないかしら!? 

さて、今回はこのへんで。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ

親愛なる先生へ


昨日のお手紙に、こんなふうなことを書いたんですよね。

「怒られたくない→他人次第みたいな態度が出来上がっちゃう→責任転嫁しちゃう」


これ見る限りでは、「怒られたくない」のって、あんまり望ましいことじゃないってことですね。
まあ、「怒られたくない」って気持ちから、改善に繋げていけるのなら、良いのかもしれませんけど。
なんか自分の場合は、やたら「怒られ」る恐怖ばかりが先に立っちゃってる気がして……。

ここまで書いたところで、ちょっと思い出したのですが。
12月5日に書いたブログ記事の中に
「モラハラ」で検索するとよく見つかるエアコンの具体例
ってあったんですよね。どうしても怒られずにはいられない、ってやつ。
もしかすると自分って、このような目に合わされてきたからこそ、「怒られ」るのが異様に怖くなっちゃってるんだったりして……? 

まあ、この続きは、また次回以降に。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineよ