【 広島|アートフラワー&カリグラフィー・メークアップ | 井植理衣 】 -14ページ目
日本舞踊を踊られるお嬢様へ
いつか渡したいと
ずっと前から思ってた
深紅のコサージュ
この数年間
辛かった出来事を
ご自身と向き合い
ご家族のサポートのもと
絆を深められ
乗り越えられたこと
本当によく頑張られた!!と
感涙なほど強く思い
同時に
お母様の
我が子を信じ
魔物に立ち向かう
献身的な支えは
本当に素晴らしかったです
側で見させて頂いて
私も沢山の気づきを頂きました
ありがとう!!
そして
ご卒業おめでとうございます
これからの
ご家族皆様の
ご健康とご多幸をお祈りして
私の幼少期
まだ幼稚園に上がる前の仲良しのお友達は
マー君でした
「マー君は、アーアーヴェーヴェーしか
言わんのよ」と、
私は母に言っていたそうです
マー君は
自閉症で言葉が話せませんが
IQは、それはズバ抜けて高かったそうです
言葉が話せない私達ですが
心は通っていたんだと思います
いつも、私はマー君が気になり
私の母が今でも言うのですが
「運動会のかけっこで
後ろに走っていたマー君が転んでね、
りえは、マー君を助けにいって
一緒にゴールした仲良しさんだったよ。」って。
マー君は、私にとって
大切な友達だったのだと思います
そのうちマー君は
遠くに引っ越してしまいました
今でもたまに
「マー君どうしてるかな?
元気でマー君がやりたい事やって
幸せな気持ちでいますように!」って
思うのです
そして
小学校に上がった私は
理由は知りませんが
先生から、クラスの発達障害を持った
二人の女の子の
りかちゃんとかずえちゃんの
お世話係を頼まれました
二人とは、学校から帰っても遊ぶほど
とても仲良しになりました
ある日
クラスのやんちゃな男の子が
かずえちゃんのまわりに
ワイワイ集まっていて
気になって覗きに行くと
ありえない事が起きていました
かずえちゃんの指に
ホッチキスを刺して
反応を見て楽しんでいたんです!!
私は
自分がされたら嫌な事を何でするの!!と
激怒して、すぐにやめさせ
すぐさま先生を呼びに行った事を
鮮明に覚えています
かずえちゃんは
痛くて痛くてたまらないだろうに
優しい笑みを浮かべながら
その瞳の奥には
痛さを我慢していたこと
今でも忘れられません
それから、3.4年生になった時のこと
クラスの中で
6つの班に分かれる事になり
班長を立候補により決めて
班長が自分の好きな人から順番に
指名していくという方法を
先生方が決めていたんです
私は仲良しのお友達とも一緒になることなく
最後から数えるくらいでした
そして、毎回最後に
りかちゃんとかずえちゃん
おとなしい子
最後から数えるほどになってきた子の
表情は、悲しそうな顔になっていきます
この状況が数回続き
この最後に残る人の気持ちを何とかしたい!
どうやったら
現状を変える事が出来るんだろう!?と
必死に考えました
そこで、私が取った行動は
自分が班長に立候補して
離れ離れみたいに感じていた
仲良しのお友達を一番に
そして、りかちゃんとかずえちゃんが
最後にならないように
早く指名したことでした
次も立候補して班長になり
順番に、今迄最後に近かった子が
少しでも早くなるように考えました
小さな私に出来た事はこの方法でしたが
今の私なら、先生に
別のより良い方法があるんじゃないか?と
話しに行っていると思います
何で、あの時おかしいと
言いにいかなかったのか!?
後悔はあまりしない性格ですが
これは思う事です
班長になると
いつしか
私が班長にならなかった時には
早く指名されるようになった変化も
感じました
先日、テレビで
いじめにあっていた男の子が
このままじゃいけないと思い
自分を変えようと
学校で前に出る勇気を持って
立候補していったら
変わっていった!!と言っていて、
同じだ!!と思いました
我が子や困っている方がいたら
サポート出来ると思う
一つとなりました
今の時代に
このグループ決めの方法は
流石にないだろうと思っていたら!
なんと
息子の学校の授業で起きていました
悲しい気持ちを経験すると
人の痛みを知り
人の気持ちに
寄り添いたいと思う事が出来たり
自分を変えていこうと思うきっかけに
なるとも思います
しかし
自分を変えていける子
難しい子
それぞれです
小さな子供達には
まだまだ大人のサポートが
必要な時でもあると思うのです
様子を見ながら
サポートが必要かどうか
判断していこうと思います
そして
子供の世界だけでなく
社会全般にも言える事
人の気持ちに寄り添いたいと思う心を
大切にしていきたいです♡
10年前の3月11日
広島にいた私でも
目眩かと思う
おかしな揺れを感じた瞬間
その後、ラジオから流れてくる
信じられない状況に
すぐさま
東北の友人に連絡した事を覚えています
ですが電話は繋がらなくて…
ただただ大丈夫!大丈夫!と祈り
数分後に
一言の「大丈夫!」という
安否のメールが届いた時の事
今でも忘れられません
携帯の電池が無くなるかもしれない中
一報くれてました
東日本には
お世話になってる会社や
友人、友人の実家…と
私にとって大切な方が沢山
お一人お一人の安否と
生活を確認出来たのは
一週間は経っていたかもしれません
テレビの映像からは
目の前で人が亡くなっていく
まるで映画のような現実の世界に
胸が張りさけそうでたまりませんでした
広島にいる私に何が出来るのか?!
必死に考え
一歳の息子を連れ
夫と必死にスーパーを走りまわり
家族で力を合わせた事
その後
ありがとうねーありがとうねーと
連絡を頂いた時のこと
忘れられません
昨日は
家族や大切な方を失われた方の気持ちを思うと
テレビの映像を見ることが出来ませんでした
当時幼かった子供達が
辛かった出来事
この経験を活かして
社会貢献したいと
成人になり
頑張っている姿に
胸を打たれパワーを頂きました
ありがとう!!
たとえ微力であろうが
生きてるうちに
自分に出来る精一杯の事
サポートになり喜んで頂ける事を
全う出来るように
寄り添い
つとめていこうと
改めて思った一日でした

