神寄木賀集ゆかさんブログはこちら。



【創造軸】
足らずの「一」を補い合い「全」となる。




皆様、おはようございます。



まずは行動グラウンディング実践編から。


今月、両親が旅行にわたしの娘を
連れていってくれるということがありました。


旅行から帰った後の、
とある日の朝のこと、
父がわたしに話しかけてきました。


父は自分の椅子に座りながら
身体の半分だけをわたしの方向へ向きを変え
わたしは、丁度ブログを書き終わって
PCを閉じようとしていた時のことでした。


父:「H(娘)が一番旅行を

楽しんでいたと思うで」


と、声を掛けてきました。


そこでわたしは父に

わたし:

「ありがとう、楽しかったんやね」と

返事します。


その旅行には、

わたしの妹家族も一緒に行っており
娘からすると、いとこの二人も一緒に
旅行に行っていたのですが


父が「3人は(いとこ二人と娘)仲良しやわ。

車の中でもずっと話をしてたで。

Hがいっぱい喋ってたわ」


わたし:

「そうなんや。Hと二人はほんま仲良しやんな」


Hには兄弟がいないけど、

いとこ二人が兄弟みたいやもんなと
思考しました。


わたし:

「わたしと○○(元旦那)が出来ないことを、
やってくれてありがとう。

色々と助けてもらって有難いなと
思ってる」


と、父に伝えた時に

わたしはHにはしてあげられないと

一瞬思考し、
すぐに、これ、

いつもの「自己憐憫」設定ルートやで!


この観点ではなく、
ガイドが云ってた、言葉を思い出す。


違う話のことで
ガイドがわたしに

自分が嫌だとか、

出来ないとか云ってることって
凄く「狭小」な自我の想い、気持ちとか、
そんなことって
わたしが目指している道の中で
そんな差し障りのあることなのでしょうか。


出来ない、

やりたくないと云っているわたしが
果たして「霊性進化」の道なんて歩けるんだろうか
ということを常に自分に問うようにすると
すぐに「立てる」ようになる。


○○が出来る世界に生きているって
有難いことではないですか。

それが叶う世界に生きている。
それを有難みを持って行う。


そういうことに対して
自分は感謝したことが

あるのかということですよね。

その観点を使っているのか。
そういう「意識」を

観察していかないといけない。


あなたはそれをいつも
「そうできない自分」
「そういう風に観れない自分」

みたいな「角度」を使いますけど
そこじゃない。
そこにいたら、

わたしの云ってる「観点」なんて
観えないんですよ。


「自己憐憫」をして
自分がそういうことすら

わからない「人間」だって
また思い始めたら


「この道じゃない。

どこに観点を置くんだったんだっけ?」
と、自らに問うことを常にやらないといけない。


その「意識」に合せて
「有難い」と思って、

行動グラウンディングをする。


わたし達が「自己憐憫」のルートを使うなと
云ってることは、そういうところにあって
そうじゃないルートを
見つけるのが
「霊性進化」という方向ですよね。


あなただけの「気持ち」というところではなくて
外側からあなたを観た時に


どれだけ自分をサポートしてくれている
○○の存在があるのかということですよね。


そういうのを観ていくことが
本来の「霊性進化」であり

それをわかった上で○○をするというのが
行動グラウンディングなのですよ。


「意識とエネルギー」が全てなんだと。


それに合わせて行動しなければ
それはただの「自我」の行動であって
自我の方から観れば
「自我の行動グラウンディング」
になるということなんですよ。


こんなことを云われた一コマが
セッションの中であり
(○○と書いたので

一部伝わりにくいかもですが)


わたしが最近、ガイドの「名言集」のような
セッションで云われたアドバイスを
「座右の銘」的に


学生の頃に良く使っていた
「単語帳」に書いているのですが


その中に
「この道じゃない。

どこに観点を置くんだったけ?」
という語録があり、


その言葉を一瞬で「思い出した」のです。


(ぜ~ぜ~、ここまで長かったぜ)


ガイドが云ってた「観点は?」と
自分に問う。


「私は出来ない」の観点ではなく

「サポートしてくれている人たちがいる。

わたしも誰かを自分ができることで
サポート出来る人で在ろう。」と
感謝して、行動グラウンディングをする。


この観点かな?と思考した。


ということがありました。



いつもであれば、「自己憐憫」ルートに浸って
「そうあれない自分」「出来ない自分」が
申し訳ないのルートを
すぐに使っていましたが


「どこに観点を置くんだっけ?」と
瞬時に自らに問いかけて

新しいルートを開拓しようと
実践した、一つの「事象」を

書いてみました。。。



そして、
最近、バイト先でとても良く見かける
わたしが「フォーカス」する光景の一つに


以前にもブログにどこかで書いたのですが
毎回、「寝坊」「遅刻」をしてくる

運送会社のドライバーさんがいらっしゃり、
そのドライバーさんが来ないと


バイト先の社員の方が
ひたすらそのドライバーさんの「スマホ」に
電話を架け続けるということが
あるのですが


それを社員の方が行う度に
クライアント先の企業の「所長」さんが


「もう、やらんくていいやん。
もう3年もこれやってるけど、

一度も彼から


ありがとうの言葉も

申し訳ございませんの言葉も
聴いたことがないねんで。


俺らがこの対応やっても何の見返りもないねん。
なんで、

俺らがここまでやらなあかんねんって話やし、
人としてどうなんってことやねん」


このように、

社員の方に毎回話をされている姿を
拝見し


いつも所長さんは「対価」についてを
云うよな、、、。


ドライバーさんが来なければ、その先で
荷物を待っている店舗の人たちに
荷物が届かないことが発生する。


これって、目の前のことだけではなく
「全体の流れ」を捉えた上で
社員の方は行っている行動なんよな。


これって、とてもわかりやすい
サポートになってるけど、


きっと、わたしもこんな風に誰かに
知らずのうちにサポートしてもらってることも
間違いなくあるし


自分がやってることしか観えないと
「不満」という観点を使うことになるのかもな、、、と思考し


もっと引けば、頂いてきたことを
お返しするタームなんかもしれんしな、、、


これって、

どう対応するのが最善なんだろう、、、


こんな風に大量に思考をし
その「事象」を観ているという
わたしを観察してみました。。。



まず、わたしの
「いつも所長さんは対価についてを云うよな」の
言葉から、わたしも何かを行う時には
「対価」を意識して、行動しているという
「意識の在り方」が鏡されているということが観えます。


そんなことないで、、、と思いたい
自我がムクムクと湧きますが


就活で「お給料」に重きを置いて
活動していたことからも
「対価」に意識があることが観えてきます。。。


まだ、観察ポイントはありますが
ちょっとタイムアウトでございます。。。


この「事象」は「全」なる「一」を捉える
わかりやすい「事象」であるなと
いうことを、観つつ、、、

わかってへんやんというところに
いきつつ、、、、


どうも、この「事象」の中に入り込んで
「観ている」わたしもおりますので


ゆっくりと観察したいと思います。。。。




読んでくださりありがとう!!!
またね!!!