「主体的に取り組む姿を求む!」
よく聞く単語。具体的になってないビッグワード。
これについて最近考えてたことがまとまったので書いてます。
(一か月ぶりかよ…という突っ込みは無視で。)
そもそも主体的とは…?
Yahooの辞書は「自分の意志・判断に基づいて行動するさま。」とおっしゃっております。
んでは、一般サラリーマンは主体性がないの?
おそらく答えはYES。
主体性があれば「仕事に主体的に取り組む姿を求む!」なんて言う言葉は出てこない。
じゃあサラリーマンもしくはOL(サラリーウーマンが定着してないので)に、普段の仕事を「自分の意思・判断に基づいて行動しているか」と聞くと、これまた答えはYES。
よほどの末端でない限り、意思・判断を持ち込む余地があるはずです。
(でなきゃ、マニュアルに沿って動いてくれるシステムなり高校生のバイトでOKでしょ?)
ある人は主体性がないといい、ある人は主体性があるといい…?
これが本日のテーマ。そして、これが「主体性」がビッグワードたる所以。
定義を少し付け足してみましょう。
「(見出したことを)自分の意志・判断に基づいて行動するさま。」
こうするとどうでしょう?
さて、組織で意思決定は誰の役割か? といわれると、会社組織では経営層。
末端の社員がバラバラに意思決定していては、船頭多くして船山に登るになります。
では、行動するのは誰の役割か? といわれると、会社組織では労働者側。
経営層が手を動かしていたら(ベンチャーではそうもいきませんが)労働者なんていりません。
では最後に、何かを見出すのは誰の役割?
経営側が何か案を出すのも問題なさそう。
労働者側が何か案を出すのも問題なさそう。
問題はここ。
役割があやふやだからこそ、この問題が出るのでしょう。
経営側は「労働者側がなにか案を出すべきだ」といい、労働者側は「経営層が考えるべきだ」という。
そして、この構図が「主体的に取り組む姿を求む!」に流れ着きます。
主導権を取れなかった側からの逆の目線に立つと、
経営層は「労働者からの突き上げに合ってやらざるを得ない」になるだろうし、
労働者側は「上からの指示でしょうがなくやらされる」にもなるでしょう。
ただ、「主体的に取り組む姿を求む!」なんて言葉が出てきている以上、今は経営層側が力を握っているのでしょう。
運命論というのを誰しも聞いたことがあるはず。
何かをやるときは、それは運命によってすべて描かれているはず…という考え方。
少し良い話だと、運命は自分で切り開くものというエンディングになります。
そして最近気づいたことは、物事には誰かの意思があるということ。
運命なんていうと、それは神の御心のまま…とかいう話になりそうだけども、もっと単純。よほど単純。
結局何かをやるときには「何か」を決めた人の意思が存在している。
神様は何をやるべきかを決めてくれません。たとえ神の啓示(そんなものがあるかも知りませんが)があったとしても、
その啓示を受けてやるべきことを見出すのは、結局は人の意思。
だれかが決めた明確なビジョンを共有し、それを行動に移すための意思決定をして、実際に行動する。
誰かがビジョンを持っているという点では、運命論もある意味で正しいかもしれません。
何かをするために決断する。もしくは何かを成し遂げるために行動する。
どちらにしても、その題材となる「何か」を定義した人のビジョンを具現化しているだけのこと。
それがたとえ国策であれ、経営であれ、今日の夕食であれ、程度は変われどやってることはほとんど同じ。
逆に、何のビジョンも持たずに過ごすだけだと、単に誰かの決めたことをやっているだけ。
いわゆる「受け身の姿勢」とか、「指示待ち」とか、最近ではおよそネガティブに取られるスタンスです。
少し前の従順たる従業員、ワンマンたる経営層から、世間が求められている、もしくは自ら求めている姿はシフトしているのかもしれません。
その実態は、単に皆おとなしくなっただけなのかもしれません。
少しだけ我儘に、少しだけ自分勝手に、要約すると個人的にはこう落ち着きました。