最近、ゆっくり話すことの効能を感じます。

 

元々は、話すことをゆっくりしようということではなく、行動すべてにおいてゆっくりを意識しようと思ったことでした。

 

人の体に与える影響として、冷やすことと温めることがあります。

 

体が不調を感じるときは、体を冷やしていることが多いとされます。

 

寒い時に風邪をひくをはじめ、緊張しているとき、怒っているときも頭に血が上るから温めていると思いがちですが、実は体を冷やしています。

 

反対に体を温めることで病気になることはあまりありません。暑いときは体がきちんと反応して汗で熱を出します。

 

そして、ゆっくりすることも体を温めることにつながります。

 

せっかちな人は体を冷やし、ゆったりしていることは温めている。そんなイメージです。

 

なので、人と話すときはゆっくりを意識してみました。

 

すると、焦って何か話さないとと思うこともなくなりましたし、人の話も聞けるようになった、そして、相手が慌てているときも、こちらがゆったりしていることで、落ち着いていく。これが非常に大きいなと思いました。

 

誰かに詰められているときは有効かもしれませんね。

 

わたしはのんびり屋だから、わたしはゆっくりしてると言われる。

 

そう言われる人は、案外周りにいい影響を与えてるかもしれません。

 

ゆっくりすることは体にいい影響を与える。そして、周りにもいい影響を与えている、のではと思います。

人って面白いなぁってつくづく思います。

 

自分のこともわかっているつもりでも、違う一面が出てきますね。

 

そう感じたひとつとして、物事に対し、きめてみると体がどんどん反応するということです。

 

ああしたいなぁ、こうなったらいいなぁではなく、何でもいいからまず決める。うまくいくいかないは考えない。

 

そうすると、体が勝手にどうすればいいか、今まで気づかなかった景色が目に入ってきます。

 

無意識に情報収集をしてるんでしょうね。

 

これだけでも面白いと思いませんか?

 

自分には何もない、何のとりえもない、そう思ってしまうと体もそう反応してしまう。

 

自分には何かある、とりあえず何かやろう、それだけでも体はどうにかして助けたいと思ってくれて反応する。

 

そういうことなのではと思います。

 

とりあえず、何でもいいので決めてみる。すると面白いことが起こるかもしれませんよ。

 

 

仕事の成果や、行動の推移をみるときに、数字は大事なものですし、ずっと注目していると変化に気づくこともあります。

 

人の能力も数字で表すこともあります。偏差値やIQ、性格分析など。最近ではメンタルスコアと言って、メンタル状態の推移も表すようになっています。

 

AIが一般化され、この数字を使って人の状態を判断する、どのように接すればいいか判定してくれる、そういったこともできるでしょう。

 

もちろん、数字と実態、実際の心身の状態が合っていることもあるでしょう。

 

でも本当は、数字ではなく、普段のひとつひとつの動作に現れるものなんじゃないかなと思います。

 

例えば、普段することをしていない、逆にしないようなことをしている。いつも元気に挨拶するのに、何となくいつもより小さい気がする。

 

こういったことは数字に表れづらいと思いますし、その瞬間に数字が出るものでもないでしょう(いずれは目の前の人の状態をスコア化できるかもしれませんが)。

 

わたしは、この「何となく」がとても大事だと思っています。

 

何となく元気がない。

何となく疲れていそう。

何となく上手くいってなさそう。

 

本当に何もないこともありますが、それはそれで、この何となくを元に最近どう?という問いはよくやります。

 

何でもデータが出て、AIでわかりやすいアウトプットを出せる時代になっています。

 

メンタルスコアも、スコアが良ければ大丈夫、悪ければ問題がある、それだけで判断できるのでしょうが、それだけを真に受けることには疑問があります。

 

人は数字で測れるものじゃない。これからも何となくを大事にしていきたいと思います。

子どもはおもしろいことを言うな、発想が自由だな、好奇心旺盛だな、無邪気だな、子どもに対して思うことはあります。

 

でも、当たり前ですが、われわれも以前は子どもでした。

 

それがさきほどの、いかにもすごい人を見るような、いかにも自分にはないものを持っているように思えてしまうのはなぜなんでしょう。

 

誰もが子どものときに持っていたもの。おもしろそうなことをやってみる、とにかく楽しいことをやる、誰かが困っていたら声をかける、何か書いてみる、あったと思います。

 

 

それがいつしか、制限され、否定され、比較され、好きなことをやってはいけないんだ、相手のことを気にしないといけないんだ、となってしまったのではないでしょうか。

 

年齢を重ねるにつれ、もちろん環境に適したルールはありますが、必要以上に制限をしてしまっていないか。

 

勝手にこうあるべき、これはよくないと、イメージして人に接していないか、振り返ることも必要に思います。

 

そんなときに、子どもの姿を見て、そういうば自分も同じ頃そうだった。いつの間にかできなくなっていた、と気づくことで、子どものときの自分の可能性を取り戻すきっかけになるかもしれません。

 

子どもは自由だな、責任がなくていいな、大人になったら難しいぞ、と思いながら接するのではなく、確かにこういう行動した方がいいな、こんな考え方が合ってるなと学んだ方が良いのではないかと思います。

 

なかなか直接子どもに触れることのできない環境の人も、今なら動画などでいくらでも子どもの姿を見ることができます。

 

たまにそういう映像を見て、当時の自分を振り返ってみると、今のヒントにつながるんじゃないかと思います。

今とある人の記者会見方法がこれまでと違うと話題になっています。

 

よく見る記者会見の方法は、話す人、取材を受ける人が壇上に上がる、または、その人を記者が囲んで質疑応答をする。

 

今ではインターネットで話す様子を配信することもあります。

 

それら記者会見の方法は、その場にいる人は雰囲気や誰が質問したかわかりますが、我々が後から見ると、誰が言ったかはわかりづらいですし、そもそも記事で見た場合は、質問内容や概略だけが情報としてわかるだけです。

 

今回そのこれまでと違うとされる記者会見は、質問する人が当事者と一緒に壇上に上がり、1対1の対面方式で質疑応答をする方法でした。

 

これだと、その場にいる人はおろか、後から見る側も誰が何を聞いたかわかります。

 

この記者会見方法に対する意見も様々で、わかりやすいという意見も、晒されるようで恐ろしいという意見もあるようです。

 

ネットでの誹謗中傷が問題となり、最悪の場合、受けた側が命を断つということもあります。

 

それくらい人の意見というのはときに相手にとって深いダメージを与えますが、言う側の責任云々よりも、何のためにそれを言うかかなと思います。

 

わたしは常日頃から、人それぞれ、考え方、意見はあっていいと思っているので、自分から人に意見するということはあまりしませんが、言うときは必要があるとき、意味があることと思っています。

 

記者会見というものも、本来は、見る側が聞きたいこと、言ってほしいことを言う場・聞くであり、批判をする場、発散する場ではないはずです。

 

今の時代、色々な情報が入ります。また自分に対しても色々言われることもあるでしょう。

 

そのときに、出処がわからないもの、誰が言っているのかわからないもの、このようなものはさほど気にする必要はないと思います。

 

本当にその人のためを思うなら、本人にわかるように伝えます。言う以上、意味があり、内容を参考にしてもらいたいからです。

 

意見を言う側も、言われる側も、意味のあること、その人のためになることを言う。

 

表に出ないで、簡単に意見が言える今だからこそ、自分の意見は大切にしたいですね。