今日は以前記事にした「辛抱する 夏姫編」から漏れたお話をしてみたいと思います。

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皆様は傾国・傾城(けいせい)という言葉をご存知でしょうか?


これは『漢書(かんじょ)』という書物の「一顧してその人の城を傾け、再顧してその人の国を傾ける」からの言葉で・・・


その色香で城や国を亡ぼすような絶世の美女のことをさす言葉です。



かなり前に読んだ本に、中国の歴史における傾国・傾城について記述のある部分があり・・・


それによると中国四千年史における真の傾国は3人だけ・・・


妲己(だつき)

紂王(ちゅうおう)と共に商(しょう)王朝(殷王朝)を滅ぼす。酒池肉林で有名。紀元前11世紀前後。


褒姒(ほうじ)

幽王(ゆうおう)と共に(西)周(しゅう)王朝を滅ぼす。紀元前771年。


西施(せいし)

夫差(ふさ)と共に呉(ご)を滅ぼす。顰(ひそみ)に倣(なら)うで有名。紀元前473年



であり、その他にも楊貴妃(ようきひ)虞美人(ぐびじん)など皆様が聞いたことがあるであろう美女の名前が挙がっていたのですが、今その本を読み返してみると、そこに夏姫の名前はありません。



前フリが長くなりましたが、これには私自身が納得いかないので(笑)・・・


夏姫は妲己・褒姒・西施・楊貴妃・虞美人らに勝るとも劣らぬ実績を残した傾国(絶世の美女)なのだよ、ということを本日はお話してみたいと思います。


基本情報としてこちらをお読みいただければ幸いです。


辛抱する ―――夏姫1―――

辛抱する ―――夏姫2―――

辛抱する ―――夏姫3―――

辛抱する ―――夏姫4―――

辛抱する ―――夏姫5―――




これは、夏姫が巫臣(ふしん)と共に晋(しん)に亡命してからの事・・・

夏姫5以降の話になります

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夏姫5でも書きましたが、巫臣は楚(そ)の大臣である子反(しはん)に恨みを持たれていました(夏姫を自家に入れようとして阻まれた上に、夏姫を連れて亡命されたため)。


そして、楚にはもう一人、巫臣に恨みを持っている人物がいました。


それは子重(しちょう)という大臣で、彼は荘王(そうおう)の弟になるのですが、以前荘王に申(しん)呂(りょ)という土地の賞与を願い、荘王もこれを許したのですが、巫臣に口をはさまれて取り止めになったことがあり、それ以来巫臣のことを恨んでいたのです。



欲望の盛んな二人は語り合い、巫臣が楚に残していった族人たちを皆殺しし、さらに黒要(こくよう;夏姫の元夫である襄老の息子)まで殺して家産を二分してしまいます。



この風聞はやがて晋に届き・・・


巫臣は激怒し二人に書簡を送ります。


それにはこう書かれていました。


「汝らは邪悪・貪欲な心で楚王に仕え、多くの無実の罪の者を殺した。私は必ず汝らを奔命に疲れさせて殺してやる。」


堂々たる復讐宣言ですね。



そして、それを有言実行します。


巫臣が目を付けたのは呉という国でした。




地図を見て分かるように呉は楚の東、長江(江水)の対岸にある国で、楚にとって晋が頭の上の重しのような存在なら、呉は脇腹に突き付けられた刃のような存在の国です。


その頃の呉の国主は名君の誉れが高い寿夢(じゅぼう)で、その強大さは晋にも聞こえていました。


巫臣は呉に使いすることを晋の景公(けいこう)に願い出て、聴許されると早速息子の狐庸(こよう;屈狐庸)と共に呉に赴きます(ちなみに狐庸は夏姫との間の息子ではありません)。


巫臣は、兵車を持っていなかった呉に兵車を供与し、御法や射術、戦陣のはり方などを教え、息子の狐庸を残して晋に戻ります。


狐庸は行人(こうじん;外交官)に任命され、後に呉の宰相にまでなります。


晋が呉と通交したのは前584年のことなのですが、この年以降呉は楚を頻々と侵し始め、その度に子重と子反は北は晋に備え、東は呉に備え、となり・・・


一年に七回もの奔命に疲れ果てる事になるのです。


そして、子反は前575年に晋との戦の敗戦の責任を取らされて自殺、子重は前570年に呉との戦の敗戦を非難され悩乱して亡くなります。


巫臣の復讐の完成ですね。



そして、時代が流れ・・・


さらに国力を増した呉は楚を滅亡寸前にまで追い詰めることになります。


それは紀元前506年のことになるのですが、その時の楚王である昭王(しょうおう)は一時他国へ亡命することになります。


復讐のために呉と通交したことがこのように中華の勢力図を一変させるとは、さすがの巫臣も想像できなかったかもしれませんね。



そして、これは歴史の皮肉・面白さでもあるのですが、昭王は荘王の玄孫になるのですが、相手の呉の将軍の一人は伍子胥(ごししょ;伍員)といい、荘王を「3年鳴かず飛ばず」 で諌言した伍挙(ごきょ)の孫なのです。

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話がちょっとそれましたが(-^□^-)・・・


すでに、辛抱する夏姫編で述べたように、夏姫の存在により陳(ちん)は滅亡しています(その後復国)。


さらにここで述べましたように楚も傾かせています。


?という方もいるでしょうが、夏姫がいなければ巫臣が晋に亡命することはなかったのですから、結果としては夏姫がしたのと同じことでしょう。


そう考えると前述の美女たちに勝るとも劣らぬ業績?を上げていると思うのですが・・・・


あ、そうそうもうひとつ・・・


夏姫の存在が影響を与えたと考えられる国があります。


それは夏姫の生国である鄭(てい)で・・・


夏姫と通じたとされる実の兄である夷(い)が暗殺され、その後夏姫の庶兄(あるいは庶弟)である襄公(じょうこう;名は堅)が即位したことは述べましたが、この3人の父親である穆公(ぼくこう)には子が多く、後に色々ないきさつがあるものの、鄭の大臣は穆公の血筋だけからでるようになっていきます。


彼らは鄭の七穆(穆公の子孫である七家のこと)と呼ばれ権門を築くようになるのですが・・・


その七穆の中から孔子(こうし)に尊敬される子産(しさん;穆公の孫)や絶賛される子皮(しひ;穆公の曾孫)が登場することになります。


彼らが出現しなければ鄭はもっと早く衰亡していたことでしょう(鄭は紀元前375年まで続く)。



それらの事実を踏まえると・・・


ここまで多くの国々に影響を与えた夏姫という女性は超弩級の傾国と言えるのではないでしょうか。





それではまた( ̄▽+ ̄*)。