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原作をザンブロッタ赤沢氏に薦められて読んだ時は、そりゃもう感激したもんです。当時、僕の周りには何だか手の付けようのない事柄が積もりに積もっていて、鬱蒼としたもやもやな毎日を過ごしていました。やる事はやっているつもりだったけど、果たしてそれを誰のために、何のためにやっているのかが分からなくて、惰性で毎日の螺旋をキリキリと巻いて無理やり進めていた様な気がします。

そんな中でも、バンドをやっている時っていうのは純粋に楽しくて、あー今自分のために好きな事やれてるなぁっていう確かな実感があったのでした。音楽っていいなぁって。



「ソラニン」はそんな頃に読んだ作品で、読み終わってから物凄く強い衝動に駆られた記憶があります。バンドって熱いじゃないか!もっと頑張るよ俺!みたいな(?)。
とにかく、すっごく好きな作品だった訳だけど、実写映画化って聞いた時は正直ちょっと不安でした。その昔、赤沢氏とソラニンについて話していた時、「実写化するなら芽依子さんは宮崎あおい以外考えられないよなー」みたいな話をしていて、数年後にまさか本当にそれが実現するとは思いませんでした。

最近はアニメや漫画の実写化が珍しくなくなってきていて、その当たり外れも様々な中、素人の僕等が考えつくくらい安易なキャスティングで、本当に大丈夫なんだろうか…なんて不安を抱いたものです。余計なお世話ですが。


んで、今朝のニュース。
「ソラニン」の映画の音楽、主題歌をアジカンが担当するとの事。

…いやぁもう、感激の一言。製作会社の方々(どこか知らないけど)、ありがとうございます。最低でも二回は観ます。DVDも買います、多分。

もうこれで、実際に宮崎あおいが仮に歌が…な感じであったとしても構いません。あんまりひどかったらちょこっとだけ悲しいけど。

でもいいんです。評価はきっと人それぞれだろうけれども、そんなもの気にならないくらい、僕にとっては思い入れのある作品なんです。当時話していた通りに、本当に宮崎あおいが主演する事になったし、大好きなアジカンが音楽を担当しちゃうし。個人的にはもう万々歳です。

思い入れのある作品がそうやって形を変えて、時を経てまた僕の前に現れてくれるというだけで、何だか無性に嬉しい。僕は映画で泣いた事が残念ながらほとんどないのだけれど、「ソラニン」は泣いてしまうかもしれない。内容云々じゃなく、「ソラニン」に纏わる全ての出来事が甦る様で、それに感極まって。それぐらい素敵な作品。


ちなみに、唯一不覚にも泣いてしまった映画が、「さよなら、クロ」という映画。主役(?)に犬を使うという、今じゃコテコテの」泣かせ演出」な訳ですが、犬が好きなんだから仕方がないじゃないか、というのは、どうでもいい話。
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いつでも誰でも、どんな事に対しても色んな意見が言える様になった。クリック一つで色んな事が分かる様になったし、ちょっと調べるだけでそれなりの話ができる位の知識が手に入る様になった。

誰でも意見ができる様になった事で、意見を言う事そのものよりも、意見の中身、質が重視される様になった。数多の意見の中には、倫理観を欠いたものや、根拠の無いデマが必ずといっていい程存在しているから、選んで使う側も何を選ぶかにより一層、気を使わなくちゃならない。

こうして誰もが気兼ねなく、「それなりにもっともな」意見や主張ができる様になった事は素晴らしい事。

だけど一方で、情報の不確実性や倫理観の欠如の存在はもちろんの事、様々な弊害が生まれているのも事実。

誰でも意見ができるという事、それは言い換えれば、「自分以外の誰かの意見があるから、自分が必ずしも意見をする必要はない」という事にも繋がる。

自分じゃない誰かの意見が、たまたま自分と同じだった時、あるいは、似ていると感じた時。その連帯感や安心感。

いつの間にか、意見を形成する前から、誰かの意見を参考にする様になって、自分の意見は誰かの意見との境目を失っていく。
自分は意見を持たなくても、誰かの意見に合わせればいい。発言や主張をしなくても、孤立感を感じる事はない。目の前にはいつも、自分と同じ意見が溢れていて、その意見の海に漂っているだけで、満たされてしまう。


行き着くところまで行けば結局、意見は生まれなくなる。意見を述べるのに、挙手をして指名を得る必要はなくなったけれど、誰も自分から挙手をしなくなるし、誰も誰かを指名しなくなる。

行き着くところまで行くかどうかは分からないけれど、一つだけ確かなのは、僕等はズルくなってきたという事。

意見が求められる場では、それが美徳とされる場面ならば、我先にと意見を形成する。仮にそれが誰かの借り物の意見のコピー&ペーストの塊であろうと、お構いなし。大事なのは意見をする事であり、求められているものに応える事だから。

ただ、意見の出回っていない事柄や、テーマが与えられない場面では、皆揃って口を噤む。誰かが口を開くのを、慎重に待っている。だんまりを決め込む。

集団に埋没する事も、突出して孤立する事もどちらも避けたい。いつの間にかこんな使い分け方を、無意識に繰り返している。使い分け方ばかり巧くなって、意見の出し方や話し方を忘れてしまった気がする。

もうもしかしたらそれは行き着くところまで来ているって事、デッドエンドが見えているって事かもしれないけれど、少なくとも今は分からない。目の前にはそれを示す記号やキーワードが散らばっているのかもしれないけれど、その繋ぎ方や伝え方に、今ひとつ自信がないからなのかもしれない。そうやってまた、ただ漂っているだけだ。



何にせよ、こうやって生産性の無い考えをぐるぐると巡らせても、あまり意味は無い。きっと実際は思う程、デッドエンドは近くないし、誰しもがただ漂っているだけではない。

人一人の独り言は、独り言のまま消えてなくなるだけだ。夜道に零れて、雨に流れていくだけだ。きっと。
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どんなに嫌でも、避けては通れないモノってありますよね。例えば小学校のテストとか、予防接種の注射とか、思春期とか、失恋とか。

そういうモノって、確かにその時は嫌で嫌で仕方ないんだけど、後から振り返ってみれば、あの時やっといてよかったなぁみたいにして、往々にしていい経験になってたりするものですね。

ただそれを避けて通れないのは、嫌な思いをしてでもやる価値があるからです。その時は嫌でも、後から考えたら価値があるモノだから。

それを選ぶ権利は若かりし頃の僕等にはあって無い様なもので、言うなれば選択するか否かの議論よりも、ずっと確実に価値があるモノが得られるからこそ、それは避けて通れない訳です。


最近思うのだけれど

選択の余地もなく、選ばされている事、あるいは無意識に選んでしまっている事が、今周りには多すぎる気がする。それによって引き起こされる弊害も容易に想像がつくというのに、どうしてそれを避ける事ができないんだろう。

それを避けたくて、不必要なモノと解っていても、半ば強制的にそれは流れ込んでくる。望んでもいない情報の受信や人との接触は、一人の力ではどうにもならない所で進み、手に取るまで知る事はできない。



世の中便利になったけど、望まないモノまで手に入ってしまうし、それは簡単に一人一人の暮らしの中に入り込んでくる。そういうモノを一つ一つ、選んだり捨てたりできたらいいのに。