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いつでも誰でも、どんな事に対しても色んな意見が言える様になった。クリック一つで色んな事が分かる様になったし、ちょっと調べるだけでそれなりの話ができる位の知識が手に入る様になった。

誰でも意見ができる様になった事で、意見を言う事そのものよりも、意見の中身、質が重視される様になった。数多の意見の中には、倫理観を欠いたものや、根拠の無いデマが必ずといっていい程存在しているから、選んで使う側も何を選ぶかにより一層、気を使わなくちゃならない。

こうして誰もが気兼ねなく、「それなりにもっともな」意見や主張ができる様になった事は素晴らしい事。

だけど一方で、情報の不確実性や倫理観の欠如の存在はもちろんの事、様々な弊害が生まれているのも事実。

誰でも意見ができるという事、それは言い換えれば、「自分以外の誰かの意見があるから、自分が必ずしも意見をする必要はない」という事にも繋がる。

自分じゃない誰かの意見が、たまたま自分と同じだった時、あるいは、似ていると感じた時。その連帯感や安心感。

いつの間にか、意見を形成する前から、誰かの意見を参考にする様になって、自分の意見は誰かの意見との境目を失っていく。
自分は意見を持たなくても、誰かの意見に合わせればいい。発言や主張をしなくても、孤立感を感じる事はない。目の前にはいつも、自分と同じ意見が溢れていて、その意見の海に漂っているだけで、満たされてしまう。


行き着くところまで行けば結局、意見は生まれなくなる。意見を述べるのに、挙手をして指名を得る必要はなくなったけれど、誰も自分から挙手をしなくなるし、誰も誰かを指名しなくなる。

行き着くところまで行くかどうかは分からないけれど、一つだけ確かなのは、僕等はズルくなってきたという事。

意見が求められる場では、それが美徳とされる場面ならば、我先にと意見を形成する。仮にそれが誰かの借り物の意見のコピー&ペーストの塊であろうと、お構いなし。大事なのは意見をする事であり、求められているものに応える事だから。

ただ、意見の出回っていない事柄や、テーマが与えられない場面では、皆揃って口を噤む。誰かが口を開くのを、慎重に待っている。だんまりを決め込む。

集団に埋没する事も、突出して孤立する事もどちらも避けたい。いつの間にかこんな使い分け方を、無意識に繰り返している。使い分け方ばかり巧くなって、意見の出し方や話し方を忘れてしまった気がする。

もうもしかしたらそれは行き着くところまで来ているって事、デッドエンドが見えているって事かもしれないけれど、少なくとも今は分からない。目の前にはそれを示す記号やキーワードが散らばっているのかもしれないけれど、その繋ぎ方や伝え方に、今ひとつ自信がないからなのかもしれない。そうやってまた、ただ漂っているだけだ。



何にせよ、こうやって生産性の無い考えをぐるぐると巡らせても、あまり意味は無い。きっと実際は思う程、デッドエンドは近くないし、誰しもがただ漂っているだけではない。

人一人の独り言は、独り言のまま消えてなくなるだけだ。夜道に零れて、雨に流れていくだけだ。きっと。