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全く、勘弁してくれよ、情けないったらありゃしない。ホームであのザマですか。
 
相手はシティですよ、シティ。ユナイテッドじゃなくて、シティ。ホームとアウェイどっちも負けるなんて、有り得ない。あってはならないですよ。
 
 
確かに、マンチーニの采配は良かった。渦中のブリッジの引っ込め方といい、テベスとベラミーを中心とした徹底したカウンター狙いといい。よくまとまってました。
 
それに比べて、何ですかウチのイタ公の交代策は。ジョーコールに代えてスタリッジって。マルダをサイドバックで使ってベレッチをボランチに使うのは、左利きがマルダしかいないからですか?
 
アシュリーコールとジルコフの離脱、テリーのスキャンダルと、確かに今は難しい時期なのかもしれないけど、そんな時だからこそ、意地を見せてほしかったです。特にテリー。ブリッジに握手拒否されたくらいで、ヘコんでる場合ですか。いい人ぶってちゃ駄目ですよ。もうね、テリーが人間的にちょっとアレな感じの人だって事はみんな知ってるし、それはこれまでの数々の悪行(?)が物語ってます。でも、ファンにとってはどうでもいいんです。それを含めてのテリーだし、それでもテリーの偉大さが変わる事はない訳です。テリーはチェルシーの偉大なキャプテンであり、それ以上でも以下でもないんです。
 
だからこの際、悪者だっていいんですよ。言わせたいヤツには言わせておけばいい。何なら、「俺が代わりに左サイドバックやるから、許してくれよマイフレンド」くらいの事言っちゃえばいいんですよ。握手拒否されたくらいで、プレーに影響する様じゃ駄目です。テリーらしくもない。
 
 
テリーもひどかったし、ミケルやバラックも駄目だったなぁ。まぁ何よりひどかったのは、ジャッジだと思うけど。もしかして、あの審判もテリーに彼女か奥さんを寝取られたんですか?それとも、カードの出方からして、寝取ったのはベレッチかバラックですか?
 
 
 
とにかくひどい試合でした。間違いなく、今シーズンのワーストゲーム。感想は以上。
 
 
 
 
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取るに足らない話も
ほんの些細な出来事も
 
 
意味を見出すのは いつも
忘れない様にと願う時
 
 
小さな星の光と同じ
 
知り得ないだけで
ひとつひとつに 記憶が込められている
 
 
 
光を知るのは
 
遠く離れてからでいい
 
 
 
此処から どれ位
 
 
遠くへ歩いていけるだろう
 
 
足跡を並べていけるだろう
 
 
 
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並木道を抜ける風が
長いマフラーに絡む

振り返る場所はいつも
僕の少し 斜め前


いつしか 終わりが来るんだと
訳知り顔の木々が云う

特別じゃない毎日も
君無しでは笑えないな

手を離す時が いつか
穏やかな日じゃなくても
さよならが 言えなくても




繰り返し 秒針は
変わらずに時をただ刻んでいく

当たり前に 今が在る様に
息を止める時が来る


悲しくも 美しくもないんだと
一人に慣れた 木々が云う

辿り着いた朝も もう
手放しでは喜べないな

星になり 土に還る日が
よく晴れた朝じゃなくても
終わりさえ 約束されなくても



星になれなくても
何処にも還る場所は 無いとしても

終わりから 始めよう
繋がっていなくても

何もかもを 忘れてしまっても




振り返る時はいつも
あの日の風の匂い







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近所にあるスーパー銭湯にて、中高の同級生を目撃。向こうは多分、僕の事を識別出来ていませんが、僕は気付いてしまいました。彼はラグビーをやっていて、当時から身体の大きさはケタ違いでしたが、今日遭遇してびっくり。デカい、さらにデカくなってる。そりゃ気付くわ、っていうか目立つわ。

まさかこんなトコで鉢合わせるとは思ってませんでしたが(っていうか、地元一緒だったんだっけ?それとも下宿先がこの近くなのか、知らないけど)、4年ぶりの遭遇が真っ裸での遭遇になるとは思ってもみなかったです。ほとんど面識ない人だからまだよかったものの、もしこれが気まずい相手とかだったら、と考えると怖いですね。真っ裸での再会は避けたいものです。スーパー銭湯行く時は気を付けようっと。





どーでもいい話。


パターナリズムの危険性を示す具体例として、AV(みんなが知ってるアレです、TSUTAYAの暖簾の奥に並んでるヤツです)の流通に伴う間違った性知識の伝播を例に挙げて説明したら、「分かり易かったけど、キモい」と言われてしまいました。

分かり易かったなら、まぁいいか。




おやすみなさい。
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本棚の隙間や、クローゼットの奥、果ては電球の中まで、身の回りのありとあらゆる箇所に日々目を光らせながら暮らす事は、不可能とは言わないまでも、実践している人間は少ないだろう。いるとすれば、それは相当な機密事項を抱えている立場にある人間か、或いは異常なまでに神経過敏な人間に違いない。

何から何までが筒抜けになっている状態は、一般的には好ましくないとされている。好ましくないのであれば関与しなければ済むのではと考えるのが当然だが、意識し出すとそう簡単にも済まされないのが悩みどころだ。

電車の中で他人のヘッドホンから漏れる音楽は耳障りだし、不快感を覚える。自分の生活音を隣人が壁に耳を傍立てて聞いていると考えるのも寒気がする。自分が利用した事のないウェブサイトやホームページからのダイレクトメールや商品案内は、やや不思議に思いながらもさして深く考える事なく、ゴミ箱に投げ入れる。商業施設や遊戯施設の監視カメラはそれとなく目立たぬ様に設置されていて、そこに映るのは心無しかばつが悪い。人は常に他人の視線を意識しているが、意識している自分に気が付くと、途端に底知れぬ畏怖を感じる。

「他人の視線を意識する事」を「意識」しなければ、こうした感覚に苛まれる恐れはない。「他人の視線」を「意識」の外に置く事で、穏やかで落ち着いた生活を手に入れる事ができる。つまり、他人の視線に気付かずに暮らしている事が、最大にして最小の幸福なのだ。

しかしその安泰は、非常に限定された空間でのみ保たれている事を忘れてはならない。保障されているのは、「気付かない事により得られる安泰」だ。

肝心な事は、いつ何処で「気付く」かという事だ。かの有名な冒険家、ヨハン・フェルトハウゼンはこう言った。「どの様な道程を経たかは重要な事だ。だが、何よりも重要なのは、その道程の初めの一歩を踏み出す瞬間だ」と。

「気付いて」しまった時、或いはそれを誰かに「標榜して」しまった時、その平穏は崩される。安全地帯からはみ出す事で齎されるのは恐怖と、身の危険だ。身に降りかかる火の粉を振り払うには、逃げるしかない。とにかく全力で、逃げる事だ。

思えば、人は生まれ落ちたその日から、胎内という安全地帯を捨て、這い出てきたその時から、既に逃亡を始めている。そこからゆっくりと、長い年月をかけて「調教」され、日常生活という安泰に馴染む様、飼い慣らされてきているだけなのだ。

「何か」から逃げる事は、決して受動的な選択ではない。生まれ落ちたその瞬間から始まってしまった負の受動性を捨て去り、正の方向性へと走り出す、能動的な選択だ。


とにかく、逃げろ。目的地などない。ただ確かな事は、受動性に満ちた憎むべき日常と、まだ誰も知らない「その向こう側」だけだ。