本棚の隙間や、クローゼットの奥、果ては電球の中まで、身の回りのありとあらゆる箇所に日々目を光らせながら暮らす事は、不可能とは言わないまでも、実践している人間は少ないだろう。いるとすれば、それは相当な機密事項を抱えている立場にある人間か、或いは異常なまでに神経過敏な人間に違いない。
何から何までが筒抜けになっている状態は、一般的には好ましくないとされている。好ましくないのであれば関与しなければ済むのではと考えるのが当然だが、意識し出すとそう簡単にも済まされないのが悩みどころだ。
電車の中で他人のヘッドホンから漏れる音楽は耳障りだし、不快感を覚える。自分の生活音を隣人が壁に耳を傍立てて聞いていると考えるのも寒気がする。自分が利用した事のないウェブサイトやホームページからのダイレクトメールや商品案内は、やや不思議に思いながらもさして深く考える事なく、ゴミ箱に投げ入れる。商業施設や遊戯施設の監視カメラはそれとなく目立たぬ様に設置されていて、そこに映るのは心無しかばつが悪い。人は常に他人の視線を意識しているが、意識している自分に気が付くと、途端に底知れぬ畏怖を感じる。
「他人の視線を意識する事」を「意識」しなければ、こうした感覚に苛まれる恐れはない。「他人の視線」を「意識」の外に置く事で、穏やかで落ち着いた生活を手に入れる事ができる。つまり、他人の視線に気付かずに暮らしている事が、最大にして最小の幸福なのだ。
しかしその安泰は、非常に限定された空間でのみ保たれている事を忘れてはならない。保障されているのは、「気付かない事により得られる安泰」だ。
肝心な事は、いつ何処で「気付く」かという事だ。かの有名な冒険家、ヨハン・フェルトハウゼンはこう言った。「どの様な道程を経たかは重要な事だ。だが、何よりも重要なのは、その道程の初めの一歩を踏み出す瞬間だ」と。
「気付いて」しまった時、或いはそれを誰かに「標榜して」しまった時、その平穏は崩される。安全地帯からはみ出す事で齎されるのは恐怖と、身の危険だ。身に降りかかる火の粉を振り払うには、逃げるしかない。とにかく全力で、逃げる事だ。
思えば、人は生まれ落ちたその日から、胎内という安全地帯を捨て、這い出てきたその時から、既に逃亡を始めている。そこからゆっくりと、長い年月をかけて「調教」され、日常生活という安泰に馴染む様、飼い慣らされてきているだけなのだ。
「何か」から逃げる事は、決して受動的な選択ではない。生まれ落ちたその瞬間から始まってしまった負の受動性を捨て去り、正の方向性へと走り出す、能動的な選択だ。
とにかく、逃げろ。目的地などない。ただ確かな事は、受動性に満ちた憎むべき日常と、まだ誰も知らない「その向こう側」だけだ。
