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はんどたおるのブログ

日々感じていることをつらつら書いていきます。今からやっておこう認知症予防!

僕のハンドルネーム(HN)の由来について、みゃあさんからお問い合わせがありましたので、お答えします。

(正直言って、あまりニーズがあるとも思いませんが、汗)

 

ハンカチ(ハンカチーフ)は、家に山ほどあります。

でも自分で買ったことは一度もなく、すべてプレゼントされたものです。

 

よくあるじゃないですか。

こ洒落た箱に、仰々しく入れてあるブランドのハンカチ。

 

スーツのときは、手や汗を拭くために、お尻のポケットに入れていました。

ハンカチは薄いので、お尻のシルエットが悪くなることもないし。

 





引用:http://boribori0225.cocolog-nifty.com/blog/2009/09...

 

いかんせん使い勝手が悪い。

吸水性が悪いので、全く実用的でない。

 

でも、持たないわけにはいかないし、特に夏は汗を拭くものが絶対に必要。

 

というわけで、あるときから、ハンカチを止め、ハンドタオルを持つことにしました。

 

かさばるので、お尻のポケットには入りませんが、バッグに入れればいいわけだし。

 

するとどうでしょう。

 

あらら、もっと早く気づけばよかった。

こりゃ重宝するわ

 

 

スタイリッシュで洗練されたハンカチと違い、実用的だけどもっさりしていて、ときに無骨。

まさに僕にぴったりではありませんか!(笑)

 

汗を拭くという本来の使い方だけでなく、娘が子どものころ持っていたものは、小さくて、門が丸く、おしぼり、お手拭き、またコースター代わりにもできたり。

 

おお!この汎用性の高さ、使い勝手の良さは、まさに僕の目指すところではありませんか!

 

ってなことでハンドタオル、でもカタカナだと“まんま”だし、何となく無機質で冷たい感じがするので、温かさ、優しさ、子どもっぽさを感じるひらがなで、「はんどたおる」としたのでした。

 

さて、まるで創作したかのような良くできた話。

 

信じるかどうかは・・・あなた次第です。(苦笑)

高市総務大臣は「テレビ局が政治的公平性を欠く放送を繰り返した場合、電波停止を命じることができる」と2月の予算委員会で述べました。

 

また安倍総理は、20141118日、ニュース23に出演した際、テレビ局が「景気回復の実感があるか?」を通行人に質問したVTRをスタジオで紹介した際に、「皆さん(テレビ局側が)選んでおられると思いますよ。」とインタビュー映像の取り上げ方に異論を唱え、不快感をあらわにしました。

 

以前も触れましたが、安倍政権はかつてないほどメディアに神経質になっています。

気に入らないメディアに抗議文を送ったり、NHK,テレビ朝日の幹部を自民党本部に呼びつけ事情聴取を行ったりもしています。

 

また安倍総理に近い自民党議員から、「マスコミを懲らしめるには、広告収入がなくなるのが一番だ」などの発言があったことも記憶に新しいところです。

 

彼らは、自分たちに批判的な報道をさせないよう、さまざまな手段を使ってプレッシャーをかけ続けているようです。

 

表立って「批判は止めろ」とは言えないので、政治的公平性を持ち出しているに過ぎないと僕は思っています。

 

 

ニュース23の街頭インタビューでは、5人中4人が「景気回復の実感がない」と答えました。

 

安倍総理が要求する公平とは何でしょう?

 

実感がないとする映像が4つなら、実感があるというものも4つ用意しろと言うことでしょうか?

 

でも、実際の街頭インタビューで、100人に聞いて「実感がない」が80人であった場合、同数の映像を流すのは、数では「公平」ですが、実態を反映していないので「公正」ではありません。

 

「実感がない」が8割を占めているのだから、4つと1つを流すことに妥当性があるわけです。

 

 

例えば、他のテレビ局が同様の調査を行い、「実感がない」と言う通行人の映像を1つ、「実感がある」とする人を4つ流した場合、安倍総理はどうするでしょう?

 

「公平でない」と主張するでしょうか?

 

するわけがありません。(笑)

 

 

 

違う観点から政治報道を考えてみましょう。

 

メディアやジャーナリズムの重要な役割に、「権力、権威の監視」があります。

 

メディアは、ロッキード事件など、これまでさまざまな不正、汚職を暴いてきました。

最近では、甘利前大臣の口利き疑惑がありましたね。(これは今絶好調のセンテンス・スプリングによる記事でした。笑)

 

「田中角栄は、総理大臣だから」との理由で、手心を加えるようなことは決してしてこなかった。

 

 

 

先のニュース23の話ですが、もし「景気回復を実感している」と言うインタビューを5つ流し、「していない」を放映しなかったとしたらどうでしょう。

 

安倍総理はご満悦でしょうが、僕はこんなメディアは要らないと思います。

要らないというより害にしかなりません。

 

せっかく総理大臣が来ているのに、疑問、不満をぶつけないで、ご機嫌取りに終始するようなテレビなど存在する価値がない。

 

「安倍さん大好き♪」

「安倍総理はすばらしい」

「偉大なる安倍同志」

 

などのヨイショ意見ばかり流し始めたら、これはもう北朝鮮のような独裁国家ですよ。(笑)

 

政権は、「政治権力」です。

権力の座にある者は、恫喝とも取れかねないような発言は控えるべきだし、圧力をかけるような行為は恥ずべきものだと自覚すべきです。

 

山崎拓、野中広務、青木幹雄、古賀誠など、かつての自民リベラルの重鎮たちは、暴走する安倍政治を痛烈に批判していますが、彼らは引退したからできるのであって、現役議員から安倍さんの批判は全く聞こえて来ません。

 

現在の小選挙区比例代表並立制では、一つの選挙区で一人しか当選できませんから、官邸に逆らって、公認をもらえなかったらえらいことです。

 

ですから、安全保障、原子力政策、TTPなどで、安倍総理とは異なる意見を持っていても誰も何も言いません。

 

以前も触れましたが、多様性を認めることは、民主主義の基本です。

自分たちだけが正義で、反対するもの対しては、どんな手段を使っても、封じ込める、無力化するというのは、絶対にあってはならないと思います。

 

 

一方で、メディア報道の質の劣化も指摘しておきたいと思います。

 

清原容疑者が乗った車を必死に追い掛け回し、ヘリまで飛ばして生中継することにどんな意味があるのでしょう。

 

また、安倍総理が国会答弁で、保育所を保健所と言い間違えた映像をこれでもかと執拗に流す。

 

単なる言い間違いと言うか、読み間違いですよ。

 

総理を批判したいなら、真正面から正々堂々とやるべきであって、単純なミスをしつこく指摘して恥ずかしくないのでしょうか。

 

総理大臣に対して失礼です。

 

メディアは絶大な権力を持っています。

それをしっかりと自覚して、襟を正した報道を心がけてほしいものです。

よく耳にする言葉ですが、今回はこの「中立」について考えてみたいと思います。

 

Goo辞書によると「中立」とは、

 

対立するどちらの側にも味方しないこと。また、特定の思想や立場をとらず中間に立つこと。

 

とあります。

 

「中立」とは理念です。

そんな立場を本当に取ることができるかと言うと、僕は絶対に不可能であると考えます。

 

 

対立する二つの考え方があるとします。

 

●マンションの建て替えをするべきだとする住民

●建て替えなど必要なしと主張する住民

 

僕がこのマンションの住民だった場合、僕の取る中立とは何でしょう?

 

そう。

 

「建て替えに賛成でも反対でもない」立場を取ることです。

 

「分からない」から、どちらの側にも味方しないのではありません。

 

「はんどたおるさんは、どうですか?」

と聞かれ、

「よく分かりません」

だと、まあこんな人もいるか、と許容してもらえるでしょうが、

 

「僕は中立なので、どちらの立場にも与しません」

 

なんて言ったら、バカにされて、もう挨拶さえしてもらえないでしょう。(笑)

 

考えることを放棄すると言っているからです。

 

 

さらに言うと、中立の定義にある「中間に立つ」なんて、さらにバカバカしいです。

 

自分は真ん中に立っているつもりでも、Aという立場から見たら、「あいつは

中間だと言っているが、完全にBよりではないか!」みたいなことになるのは容易に想像できますよね。

 

物差しで、対立する考え方の距離を測ることができれば、中間地点を定めることも可能でしょうが、こんなものは、完全にナンセンスです。

 

 

日本で中立ブームが起きたら、これはもう大変なことになりますよ。

 

誰も本質的なことは言わないから、何も決まらず、企業活動は完全にストップ、国会は開催しているだけで議論はなし。

教師は、教科書を一字一句間違えずに読むだけで教育は崩壊。

 

何か言うたび、「君は中立ではない」と責められます。

って言うか、人を責めること自体が中立ではないことにもなりますが。(笑)

 

自分の考えを述べられないとなると、人は考えることを止めます。

他人に対する干渉だ、と言われると困るので、余計な行動も起こさなくなるでしょう。

 

 

 

一方、スイスなど、国家としての「永世中立国」はありえます。

 

A国とB国が対立していて、

 

「おい!スイス君!君も我が国のために参戦してくれないか?」

 

と言われても、

 

「いや、僕はアンタたちの争いには、全く興味がありません。どうぞ勝手におやりください。でも言っておきますが、私たちを攻撃してきたら、中立を乱すものとして攻撃に出ますからそのつもりで。」

 

というのが国家としての中立ですから。

 

 

さて、個人が中立であることなど不可能だと述べてきました。

では、集団、組織、会社ではどうでしょう?

中立な組織はあり得るでしょうか?

例えば、テレビ局が「中立」な報道を“目指せばできる”のかどうか。

 

世界中でいろんなことが起きています。

アメリカ大統領選、シリア問題、国会、清原容疑者を乗せた車をヘリで追う…などなど。

 

どれをニュースとして採り上げるか?

どのように優先順位をつけるか?

 

そのためには「判断」「決断」が必要です。

重要性、緊急性、独自性、視聴者のニーズ、経験などを元に決める。

 

例えば、国会で山ほどある議員の質問、答弁のどこを切り取り報道するか?

 

そこには、「これを伝えたい」という明確な意志が存在しますから、中立でいることはありえません。

 

公平、公正であろうとすることはできますが、中立であること自体が不可能なのです。

 

次回は、報道における公平、公正とは何かを考えてみたいと思います。