あんまり、効率的に動こうとか考えないで
その時の気分を大切に動く。
 
わたしはそういう人らしいです。
 
 
やらなきゃいけないタスクは
たくさんあると知ってるけど
でもいいや。
 
 
疲れたから寝る。
 
いのちを大事に。
 
 
 
 
ちょーっと部屋とか散らかってるけど
 
ちょーっとお掃除できてないけど
 
 
うん。
いのちを大事に。
 
 
 
2人目の子どもが生まれてから
本当にもう、「ちゃんとする」ができない。
あらゆることのハードルが下がった結果
ほんとうにもう
 
生きてればよし。
 
生きてればよし!
 
 
 
 
なんて。
自分に言い聞かせてるところは、ある。
すっごく、ある。
 
 
 
でも。
最近は、エネルギーの量って
その人の中で決まってるような気がするなぁ。
 
 
頑張るぞ!って部屋を片付けたり
タスクをパズルみたいに詰め込んで
どんどんこなしても
 
それって エネルギーの「前借り」のようで
その後、すっごく疲れて
動けなくなって、のっそりしてしまう。
 
 
なので、
無理してキビキビ動こうとしなくても
 
一日の中で、最低限
やらなきゃいけないことが終わってて
エネルギーが枯渇しなければ
いいんじゃないかな。
 
 
いのちを大事に。
 
 
ここ数年はそんな感じです。
 
 
 
サクサク動ける。
ガンガンいこうぜ。
 
…な人に憧れますが
無理せずいこうと思います。
 
 
イソギンチャクなので。
 
 
 
ちなみに、わたしの資質34は
こちらになります。
 
 
 
 
お越しくださり、
ありがとうございました。
 
明日もあなたが笑顔でありますように。
 
先日、鬼について考えていたので
記憶の底からふわふわっと
浮かび上がってきた作品がある。

坂口安吾の「文学のふるさと」
という、評論文。

高校の時の
現代文の教科書に載っていたので
知っている。

いったい何を思って教科書に採用したのか
わからないけれど

わたしを、最も惹きつけてやまない
文章のひとつだと思っている。



おそらくオリジナルの、残酷な方の
「赤ずきん」の童話を取り上げて
言う。

狼が、可憐で愛くるしい少女を
ただ、ムシャムシャと食べてしまう。
まったくモラルのない、
読者を突き放したような、
約束が違ったような物語。

しかし

『プツンとちよん切られた
 空しい余白に、
 非常に静かな、しかも透明な、
 ひとつの切ない
 「ふるさと」を見ないでせうか。』

 それが私の心を打つ打ち方は、

『何か、氷を抱きしめたやうな、
 切ない悲しさ、美しさ、であります。』




『氷を抱きしめたような切なさ』。

評論文のタイトルは忘れてしまっても
この表現を、
わたしはずっと忘れずに覚えていた。


あるいは伊勢物語の、
ようやく恋が成就して駆け落ちしたその女を
嵐の間に鬼に食べられてしまう
惨たらしさ、理不尽さ。



年を重ねるほどに
心を引き裂かれるような
体験に出会い、見聞きすることも増えて。

とても、直視することがかなわない
言葉を失って、色彩も失って
ぎゅっと目をつぶってしまいたくなる。



それを「美しさ」「切なさ」と
表現できるものなのかは、わからない。
ただ、確かに そこには
「透明な静けさ」は
横たわっているように思える。

絶望の淵、と
呼ばれる場所だろうか。



『それならば、生存の孤独とか、
 我々のふるさとゝいふものは、
 このやうにむごたらしく、
 救ひのないものでありませうか。

 私は、いかにも、そのやうに、
 むごたらしく、
 救ひのないものだと思ひます。』


『むごたらしいこと、
 救ひがないといふこと、
 それだけが、唯一の救ひなのであります。

 モラルがないといふこと自体が
 モラルであると同じやうに、
 救ひがないといふこと自体が
 救ひであります。』




文学のふるさとに
横たわるものは

「喪失の体験」なのだろうか。


とても、直視することがかなわない
いっそ絶望してしまいたくなる類の。
モラルのないこと、
救いのないことは
確かに
この世界の有象無象で存在しているから。


救いがないからこそ
誰にとっての「喪失」にも
さらさらと沁み入ることが
できるのだろうか。


この世における無数の
理不尽なやりきれないことに遭遇して

諦めを、
諦められるようになるための
昇華するための
祈りにも似た
切なる 創作活動。



それを「美しさ」「切なさ」と
表現してよいものかは、
わたしには わからない。

わからないけれど。





* * * * * * * * *


「文学のふるさと」をはじめ
坂口安吾の著作は
青空文庫で読むことができます。

坂口安吾自体は、
おクスリだったりお酒だったり
かなり無茶苦茶やってた豪胆な人。

けれど「桜の下の満開の下」だったり
今回の「文学のふるさと」だったり
びっくりするような、繊細で
郷愁を誘うような文章を書き残した人。


言い回しが独特で、
大人になっても読み返しても
掴みきれない、わからない。
ただ、言葉の選び方が美しくて
うん。
美しいなと思う。


語彙力がほしいね。


そんなイメージです。
日本文学に詳しい人がいたら
いつか解説してほしい。
わたしの好きな作家の一人です。




最後までお付き合いくださり
ありがとうございました。

またどうぞ、お越しくださいませ。
4歳の息子が、
最近 思いがけないタイミングで
「ありがとう」を
言ってくれるようになった。
 
 
仕上げの歯磨きをした後。
 
新しいズボンにお名前書いておくね、
と言った時。
 
プラレールの青いレール、
飲み物をこぼしちゃったから
洗っておくね。大丈夫だよ。
と言った時。
 
 
「どうもありがとう」。
まっすぐな目を向けて、息子は言う。
 
 
わたしは、なんでか
虚を突かれたような気になって、
 
あぁ、うん。そうか。
ものすごく嬉しかったんだと思う。
 
 
 
 
思えば、
彼が「ありがとう」を言う場面は
いくつもあった。
今にはじまった言葉ではないはず。
 
なんだろう?
 
 
 
 
母親であるわたしからは
一方的に
子供である彼に、
何かをしてあげる行為の方が多い。
 
圧倒的に多い。
 
 
それを、何年も
あたりまえのこととして、
あたりまえのように
毎日くり返してきたのだけど
 
突然それに、
レスポンスが返ってきたのだ。
 
 
「どうもありがとう」。
 
 
 
 
 
彼の大好物のウィンナーを焼いてあげた時。
 
いつもより早くお迎えに行けた時。
 
彼の大事な 塗り絵を見つけ出した時。
 
 
 
 
それが本当に嬉しかったから、
自然に出た言葉なのか
 
歯磨きみたいな何気ないタスクにも、
ただなんとなく、言ってみたのか
 
ほんとうのところはわからないけれど。
 
 
わたしは、虚を突かれたように
 
ただ、嬉しくて
 
 
「ありがとうって
 言ってくれてありがとう。」
 
を言いたくなる。
 
 
 
ずっと淡々と、
心を無にしてやってきた行為に
突然レスポンスが返ってきた。
「ありがとう」。
 
何年ぶんもの自分に
染み渡るような、
きらきらとした
透明な優しさに満ちた言葉だった。
 
 
 
なんてことない会話なのだけれど
 
なんだか、やけに大切で
覚えていたくて
今日はこの文章を書いています。
 
 
 
 
お読みくださり、ありがとうございました。
またどうぞ、お越しくださいませ。