何かを「教える」という言葉は、どこか
「教える」側と、
「教わる」側に
上下関係があるイメージだった。
水差しを持つ人が、水を注いで分け与える。
上から下へ、流れてゆくもの。
だからやっぱり、教える側としては
「ちゃんとわかってなきゃ!」とか
「つっこまれても大丈夫なようにしなきゃ!」とか
どことなく、装備を固めて臨まなきゃいけないような
ガチガチした感じだったり
その前の時点で
「いやいや、わたしに教えられることなんて何もないから」…って
自分の可能性を過小評価して
抑え込んだりしてしまう。
なんとなくそんなイメージが
付き纏っていたような気がする。
「教える」と
「教わる」の
「能動」と「受動」の関係じゃなく
上下関係でもなく
もっとフラットで、気さくで、
ありふれた関係だったらどうだろう?
たとえば
「伝える」とか、
「分かちあう」みたいなもの。
イメージは、どこまでも広がってゆく、さざなみのように。
真ん中に自分がいて、雫をぽつりと落としたら
波紋のように広がって、その結果
ほかの誰かに影響を及ぼしていく。
「正しく受け取ってもらえたか」
「しっかり伝えられたか」
それはもう、自分の範囲を超えている。
そう思って、
手放す。
相手に、
委ねる。
ひょっとしたら
自分では、教えようと思ってすらいないのに
相手から見たら
「いつの間にか教わっていた」
「言われなくても自然と受けとっていた」
そんなことさえも、起こる。
何かを、きっちりと「教えよう」
ではなくて
すでに自分が持っている何かを
大好きな人たちへ。
「伝えよう」
「分かちあおう」
もしも、そう思ったとしたなら
わたしが伝えたいのは
あなたが伝えたいのは
一体どんなことだろう。
面白い本の選び方。
これまで出会った、素敵な人がくれた言葉。
一日を快く過ごすための習慣。
何気ない日常を切り取ったストーリー。
自分の感情を丁寧に見つめて、向き合った軌跡。
自分にとってはなんでもないこと。
他の誰かにとっては
知れば、少しだけ世界が豊かになるかもしれないこと。
誰もが臆さず、気負わず
分かちあって
伝えあって
わたしや、誰かの視点を
ほんの少しずつ共有しあって
そうやって循環していったら
世界はどんなふうに見えるだろう。
世界の感じ方は、
どんなふうに変わるだろう。
少しだけ、想像してみる。
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お越しくださり、ありがとうございました。
明日もいい日でありますように。
山本 麻莉









