「BLUE GIANT」を観る 注━ネタバレ有り━注 | はやてのブログ

はやてのブログ

しがないオッサンのしがないたわ言

 

 

今年の個人的注目作品、「BLUE GAINT」を観に行きました。

原作は連載開始当初から追っかけてましたが、今回アニメ映画化ということで大変うれしい。

 

原作のスタイルからすると、てっきり実写映画化か?と思ってましたが、アニメ化とは意外、というのが正直な感想。

 

原作は著者の前作「岳」と同じく涙なしでは読めない作品。雪祈の事故の時は大人気もなく号泣してしまった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

さて、早々に観た感想の結論を言えば

 「原作は、やっぱり、超えられない」

 

 

アニメ化になって原作にはない「音」、それも名だたるアーティストによって手掛けられた楽曲がつくことによって原作にはない表現があるのは間違いない。

 

漫画と音の共存というのは物理的に無理がある。どんなに素晴らしい音楽、楽曲、声と言っても紙から音が出るわけではなく、読み手にその音が委ねられることになる。

そこを逆手にとった漫画上での表現ももちろんあるが、ゆえにそんな作品に音を付けるとなると、上げてしまったハードルで厳しくなるのは仕方ないだろう。

 

昔、「TO-Y」という上条淳原作の漫画がアニメ化された時、主人公TO-Yの歌声は結局作られなかった。最近では「響」では、私の記憶が正しければ、響の書いた文章の一端でも描かれたことはなかったと思う。

凄いとか素晴らしいとか作中での表現はできても、実際にそれを作り出すことは困難を極める。それができるなら、その音や作品を直接的に表現する方が素晴らしい。

 

そんな中、「BLUE GAINT」ではSO BLUEでのライブを大と玉田の2人だけ、サックスとドラムだけのライブが成り立つのかどうか?という点は非常に興味があった。

 

この点に関しては、「成り立ってた」と思う。

 

劇場で観ていたという点を含んでいるとはいえ、十分にライブは成立していたと思えた。

素晴らしい。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

では、どこが「原作を超えられない」のか?

 

今回アニメ化されたのは原作「BLUE GAINT」の10巻のうち4巻で大が上京した以降がメインだ。

 

上映時間を考えると、どうしてもストーリー上に端折る箇所が出てくるのはしょうがないし、むしろ大の初恋や同級生、スタンドの店長、兄弟のエピソードをさっぱりと切ってしまって、東京でのエピソードも厳選してうまく作り上げられていると思う。

 

原作を読んでなくても、楽しめる映画だと思う。

職場の若い子にも勧めておいた。

 

映画のパンフレット。その大きさは、昔風にいえばLP盤の大きさ。デカい!

裏面もあってレコードのジャケット風である。

その中に冊子があり、その拍子はまさにレコード。手が込んだパンフレットになっている。お値段は1100円。高い気もするが、他のパンフレットが冊子だけで同価格であるので、価値はあると思う。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ではどこがアニメとしてイマイチだったのか?

 

まずは演奏シーン。

 

アニメにおいての演奏シーンの制作には困難がつきまとうし、時間もコストもかかるものだ。とくに指先の描写は難しいと思う。

 

「BLUE GAINT」ではその演奏シーンが物語の1/4を占める。

 

最近ではモーションキャプチャーによって実際の演奏シーンからCGであーしてこーしてアニメ化なんて普通だが、今作においてはその「出来」がかなり微妙であると言っておく。

それが制作陣の意図なら申し訳ないのだが、手書きアニメパートとCGパートの差があまりに大きい。

CGであることが分かってしまうのが悪いのではなく、CGの出来がイマイチだ。

 

「ぼっち・ざ・ろっく」の演奏シーンも実写からのアニメ起こしみたいだが、こちらはキャラクターがデフォルメされているので単純に比較はできないが、それよりも違和感というか昔のCGを観ているような気分にになる。

 

前述したが、演奏シーンが作中の1/4を占める今作では、当然だが曲が長い。

ライブシーンも当然長くなるのだが、そこでの表現についても、個人的には、違和感があった。

これは原作なら数ページで終わるライブシーンも、アニメ化では数分になり、その間をただライブビデオのようにカメラのカット割りやアングル切り替えだけでは、「もたない」。

そのシーンをここでどのように書けばいいのか私自身もわからないのだが、例えるならアムロとララァの邂逅シーンでいきなり海が出てきてなんで?と思うのに似ているだろうか?

 

ここは難しい所なのだが、では他にどのような描き方があったのか?と問われると答えは出ないのだが、それはきっと私がその時の音楽に没頭出来てなかったのが原因ではなかったせいではないだろうか?

そこは制作陣も熟慮の上での表現だろうから。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

そして一番何より今作でがっくり来た、醒めた、どっちゃらけーとなったのが、

 

超ネタバレ注意

 

SO BLUEでのライブ、アンコールの時に事故で重体だった雪祈が登場して演奏してしまうところ。

 

その前の雪祈が助っ人でライブに出るの時に原作ではSO BLUEだったのが、別の店舗になっていたので、「うん?これは雪祈は事故に合わないのか??」と思っていたら、しっかり事故にあったのでおかしいな~と思っていたら、これだ。

 

そもそもSO BLUEの客席には豆腐屋の親父や初ライブのサラリーマンは良いとして、兄ちゃんもいれば仙台での先生由井も来てるし、雪祈の幼馴染のアオイちゃんも来ているしと映画でのエピソードを全部ここで回収します!的な、雪祈の強制退院も含めて「フジテレビのドラマ」的な大団円でハッピー!!なご都合主義には、それが単発の映画ではエンターテイメントとして求められているのだが、うんざりした。

 

「ジャズ」が同じメンバーで続けるべき音楽ではないように、人の人生も一期一会、出会いと別れの繰り返しであろうはずで、原作でも先生である由井は自分から大に会いに行くことはせず、動画サイトで確認する程度だし、実兄も原作では身元引受人として上京するぐらいだ。雪祈のアオイちゃんも普通のライブに見に来ていたのを、雪祈から「気づく」ことに意味があるはずだ。

 

映画という枠組みの中、2時間のエンターテイメントとしては正解かもしれないが、映画を観た後に原作を読むとやはり原作の方が「面白い」となる。

 

映画としての出来は素晴らしいが、原作は超えていない、というのが私の感想で、この映画を勧めた若い子にも出来たら映画の後に原作を読んで欲しいと言っておいた。

 

「BLUE GIANT」サウンドトラックを聴きながら

 

https://amzn.asia/d/bmZP8gc

もうすぐスピンオフの小説も出るようだ。高いけど買ってしまうわな。