12月30日 (つづき)
次に音調。
一つ目は、漂着した裸のオデュッセウスが娘達の声を聞きつけ、「隠し所」を蔽うべく枝を折ることを叙した詩行だ。
ἐκ πυκινῆς δ᾽ ὕλης πτόρθον κλάσε χειρὶ παχείῃ (6-128)
[ek pyukinês d’yulês ptorthon klase kheiri pakheiê]
一杯に茂った木立から枝を頑丈な手で折った
枝の折れる音が聞こえてくるような気がするのは、[p] 音や [k] 音が響いていることと無縁ではあるまい。
二つ目は、オデュッセウスがナウシカアーの美しさを賞める詩行だ。
Δήλῳ δή ποτε τοῖον Ἀπόλλωνος παρὰ βωμῷ
φοίνικος νέον ἔρνος ἀνερχόμενον ἐνόησα: (6-162,3)
かつてデロス島のアポローン祭壇の脇で、あなたのような
棕櫚の若木が生い出ているのを見たことがあります
163行目の
φοίνικος νέον ἔρνος ἀνερχόμενον ἐνόησα
[phoinîkos neon ernos anerkhomenon enoêsa]
ではリズムよく繰り返される [n] 音がしなやかな音調を奏で、伸びゆく若木を思わせるものがある。
三つ目。予言者テオクリュメノスが、来るべき惨劇を予見して言う言葉の中に次の詩行がある。
εἰδώλων δὲ πλέον πρόθυρον, πλείη δὲ καὶ αὐλή, (20-355)
[ eidôlôn de pleon prothyuron, pleiê de kai aulê ]
亡霊共で戸口は溢れ、前庭も溢れている
行前半の [ôn~ on~on] と行後半の [ê~ê]、詩行全体に亡霊共がさまよい歩いているようだ。
昨日シャルダンを見た後、帰りがけに東京駅の駅前で靴磨屋を見つけた。最近は靴磨屋のお世話になることはないのだが、思うことあって磨いてもらった。
思うことというのは、こういうことだ。昔、もう三十年ほど前のことになるが日本橋高島屋の裏手に靴磨屋がいて何回か磨いてもらった。その爺さんはいつもカントの『純粋理性批判』を読んでいた。一言も言葉を交わしたことがないままそれっきりになったのだが、ひょっとしてこの東京駅前のオヤジがその爺さんの消息を知っていないかと思ったのだった。
氷雨のもと、オヤジは靴磨きしながら、私は相合い傘ではないが一本の傘を差しながら言葉を交わす。このオヤジも三十年位この辺りで靴磨き稼業をやっているとのことだが、残念ながらその爺さんのことは心当たりがないと言う。年代は違うし場所も少し離れている、無理もないかと思いつつ、話題を変えて、今日は三菱美術館に来たことを話した。するとそのオヤジ、なんと「私も絵描きです」という。画廊などにも自分の絵を出しているが、靴磨きと兼業なのだそうだ。絵筆取る手で一心に磨いてくれる。絵を描くことと靴を磨くこと、絵筆と布きれ、いずれもオヤジにとっては一つのことなのだろう。改めて心を洗われた。心も洗われたし靴もピカピカとなった丸の内行だった。