うわっデッカ。あれ!何ィ?
あれは東京タワーって言うねんで。
上に行ける?
あー今から行くで。
ボクはおトンボの三男。三男やのにツギオ。ぇーかげんに付けよったなボクの名前。写真も数枚しかないしぃ。
おトンボは、写真も少ないのです。
1969年夏の甲子園決勝。太田幸司をエースとする青森県三沢高校VS四国は松山商業高校との歴史に残る2日間に渡る決勝試合。このような試合は二度と出来ません。出来ないようにルールが変更されました。
延長18回、試合時間4時間16分。0 - 0の引き分け試合。翌日の決勝戦も全て太田幸司が1人で投げ切った。三沢高校、太田幸司は結果、準優勝になるのだが。記憶に残った国民は現在でも3000万人はいるでしょ。
聖母学院小学校最後の年の夏休み、ボクは兄達2人と父の4人で丸の内駅構内のドームの屋根の下にある待合室の中でうだった空気、息も苦しい暑さの中、他の群衆とともに構内上部の小さい画面に釘づけになっていた。
この年、父は52歳で大阪高等裁判所判事を退官したのであった。多分、退職金が出たのであろう。その恩恵を受けた男のみの最初で最後の記念すべきお登りさん旅行となった。
父はボクに言った。
ツギオ!コレは歴史に残る試合を見たんやで!よぉ覚えておきやっ。
ボクはそんなんどーでもいいし、はやくなんか、チベタイもん飲みたいんやけども、興奮している群衆を敵に回す事を言えるほどの勇気はまだ育っていないのであリます。
兄達は虎ノ門ホテルの病室見たいな4人部屋。薄暗い部屋の灯り。壁が薄汚れている小汚いホテルの部屋で父と深夜まで盛り上がっていた。翌日、まだ未完成の霞ヶ関ビルを見物。
その夜、周りがざわめく丸の内構内。
大きな人間達の集団がこちらに向かってザワっザワっとのし歩いてくるではないか。
1番先頭を歩く巨人?ドデカイ人間。
うわ〜、お父ちゃん!馬場や!馬場やわ〜。
ジャイアント馬場は手に赤い網に入ったキンカン5つをぶら下げている。
ボクの前を通過っ。
うわ〜デカイ、馬場デカイがなー。
丸の内駅構内のドーム状の天井にあたりそう。げっ?キンカン違うやん。ミミみかんやがなぁ!
余りににも馬場が大きくみかんがキンカンに見えたのです。
横に付き添っている覆面の男は!
お兄ちゃん!デストロイヤーや!その後ろを歩くのは、ジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノ。フリッツフォンエリック。
みーんな、プロレスラー。レフリーのいつも彼等に投げ飛ばされて試合終了のゴングを鳴らせるトルコ人のユセフトルコがいる。
ボクの前を集団が通り過ぎ丸の内構内、皇居前出口に沢山並んでいるタクシーに乗り込もうとしている。ジャイアント馬場が先にタクシーに乗り込もうとしている。
タクシー乗れる?乗れるか?馬場っやめとけ、乗るな、タクシーが壊れると思いました。馬場が乗り込もうとした時、取り巻きの外人レスラー達全員が馬場に向かって最敬礼。
あれっ?どないしたん?なんで?馬場と毎週金曜日戦っている敵の外人レスラーが最敬礼するん?お父ちゃん!見たか?なんでなん?なんで馬場に頭下げてるん?
えーか、ツギオ、お父ちゃんがなんでプロレスみぃ〜ひんのか、分かったか?なんでジャイアント馬場しか知らん理由が今ツギオが見たとおりやしや。
どーゆう事なん?
あんな、プロレスの試合はみ〜んな八百長なんや〜。この世は全て八百長っ〜。
お兄ちゃん、八百長って何?
例の小汚い部屋でコンコンと八百長の説明を大好きなお兄ちゃんから受けた時、ボクはもう二度とプロレスを見ないと誓いました。
12歳の夏、東京にてプロレス卒業。サンキュー