犠牲を払うこと | タケシのありのまま日記

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旧名から変更しました。

先日、身の回りで、

こんなに色々やってあげてるのに、

感謝ぐらいしたらどうなの!?

・・・みたいなやり取りがありまして。

いや、私は当事者じゃないんですけどね。

でも、自分の周りは、

自分の鏡ですから、

それは、自分とは関係ない、ということは無いのですね。

相手に期待してはいけないとか、

見返を要求してはいけないとか、

よく言われます。

それは確かにその通りなのですが、

もう一つの視点として、

「色々やってあげてる」という言葉の裏には、

私は犠牲を払っている

という意味が込められていると思うのです。

この世の常として、ギブアンドテイクという言葉がありますが、

これは、

私がこれだけ犠牲を払うから、

あなたも同じだけ犠牲を払ってください。

ということでもあると思います。

そもそも、この犠牲を払っている、という意識が無くならない限り、

相手に期待しないのは、無理なんじゃないかなと。

もし、相手に期待しないことが出来たとしても、

この犠牲を払っているという自分の心は消滅しません。

どこかにそれは沈殿し、いつの日か爆発するかも。。。


だから、私は、犠牲を払うことを極力やめようとしています。

確かになかなか難しいことですけど。

行動は同じだとしても、犠牲を払っているという意識があるかないかは大きな違いです。

嫌と言えればそれでいいし、

やっぱり怖くて嫌と言えなくても、

犠牲を払わされているのではなく、主体的に選択しているんだ・・・みたいな?

犠牲を払わない、ということが、つまり、

自由ということでもあると思うんですよね。