詞書の冒頭部分をどう読むか | 蒙古襲来絵詞と文永の役

蒙古襲来絵詞と文永の役

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蒙古襲来絵詞の詞書(ことばがき)の冒頭部分、竹崎季長が息の浜で一門の人々と別れて大将の少弐景資と会い、赤坂に向かって出発するまでの記事は非常にわかりづらい。著者(竹崎季長)の文章が独特である上に叙述の錯綜しているところがあって、いろいろな解釈を生む原因になっている。

 

そうは言っても、しょせんは人間が書いたものだ。竹崎季長がこれを書いた気持になって読めば、おのずから妥当な解釈に行きつくのではないか? そう思って、挑戦してみよう。

 

 

上の画像は蒙古襲来絵詞の冒頭、一般に「詞一」と呼ばれる部分である。絵と同様に、国立国会図書館所蔵の摸本から取った。漢字まじり仮名書きなのだが、この時代の仮名文字は現代とはずいぶん違うから、正直言って半分も読めない。

 

そこで出版されている解説書を参考にした。次の二冊である。

『「蒙古襲来絵詞」を読む』大倉隆二・著 海鳥社 (以下文献1)

「絵巻 蒙古襲来絵詞」太田彩・著 至文堂 (以下文献2)

 

まず原文の仮名を現代仮名に置き換える。原文の通りに、句読点や濁点は用いない。また、折り返しも原文通りである。ただし、「く」を引き延ばした形の字で繰り返しを表すところは横書きにできないので、止むを得ず文字の繰り返しとした。

 

「おきのはまにくんひやうそのかすをしらすう

ちたつすえなかゝ一もんの人々あまたあるなかに

えたの又太郎ひていえことに申うけ給はる

によりてかふとをきかへてこれをしるしにてあ

ひたかひにみつくへきよしを申すところに

いそくあかさかにちんをとるにつきて一もんの人々

あひむかふにたいしやうくんたさいのせうに三郎さへ

もんかけすけのたの三郎次郎すけしけをもて

えたの又太郎ひていえのもとにけんさんにいり候

し時一しよにてかせん候へきよし申候きあかさか

はむまのあしたちわろく候これにひかへ候はゝさ

ためてよせきたり候はんすらん一とうにかけて

をものいにいるへきよし申さるゝにつきてけん

しちのやくそくをたかへしとてをのをのひかへしあひた

たいしやうをあひまたはいくさをそかるへきほとに

一もんのなかにてすえなかひこのくにのさきをかけ

候はんと申てうちいつ」

 

これでは現代の我々にはいかにも読みづらい。そこで漢字を増やし、仮名遣いを現代風にし、句読点・濁点を入れて読みやすくしてみる(折り返しはせず一続きの文章とする)。このようにすることは既に解釈を含むから、意見が分かれるところが生じる。また原文自体も問題を含んでいる。そのようなところは青字にして目立たせ、後で検討することにする。

 

「息の浜に軍兵その数を知らず打ち立つ。季長が一門の人々数多ある中に、江田の又太郎秀家、殊に申し受け給わるによりて、兜を着換えて、これを標にて相互いに見付くべきよしを申すところに、異賊赤坂に陣を取るにつきて、一門の人々赤坂に相向かうに、大将軍太宰の少弐景資、野田の三郎次郎資重を以て江田の又太郎秀家に見参に入り候いし時、一緒にて合戦候べき由、申し候いき。赤坂は馬の足立ち悪く候、これにて控え候わば、定めて寄せ来たり候わんずらん。一同に駆けて、追物射に射るべき由、申さるるにつきて、兼日の約束を違えじとて、各々控えし間、大将を相待たば戦遅かるべきほどに、一門の中にて季長、肥後の国の先を駆け候わんと申して打ち出づ。」

 

このようにすると、文章そのものはかなり読みやすくなるが、それでも状況がよくわからない所がある。上から順を追って見て行こう。

 

まずトップの青字、「息の浜に軍兵その数を知らず打ち立つ」のなかの「軍兵」が元軍であるとする意見がかなり根強い。上記文献1の著者、大倉隆二氏もその意見である(文献1、p117, p159参照)。

 

しかしそれはあり得ない。以前のページで考察したように、季長は息の浜で兜を交換し、その後大将の少弐景資に会ったのだから、景資は息の浜に陣を構えている。その景資が、同じ息の浜に上陸した元軍に対して何の措置もせず、ただ息の浜に待機せよと命令することがあるだろうか。「軍兵」はどう見ても日本軍である。

 

その次の、江田秀家と季長が兜を交換する話はとくに引っかかるところはない。「一門の人々数多ある中に~ことに申し受け給わる」というのは、一門の中の多くの武士の中から特に自分(季長)に声をかけて下さったという、かたじけない気持ちを表したのだろう。

 

その次に、赤坂に敵が来たというので、一門の人々が気負い立って、赤坂へ出発しようという機運になった後の青字、「大将軍~申し候いき」が難物である。一見、息の浜にいる景資が、同じ息の浜に到着した江田秀家のところに使いをよこして、指示を伝えたのかと思う。

 

しかしよく考えるとそうではない。「候いし時」「申し候いき}と過去形になっているのがポイントである。地の文が現在形で過去を表しているなかの過去形だから、時制が一つ遡っている。英語で言えば過去完了である。これは少し以前に、景資が各地の武士のもとに使いをやって蒙古合戦のための動員令を伝えた、その時の話なのだ。

 

その時に、動員令を伝えると同時に、「一緒にて合戦候べし」とあるように、抜け駆けなどの個人行動に走らず、一体となって戦うように、という抜け駆け禁止の注意を伝えたのだろう。

 

その話を、赤坂に出発しようとはやる一門の人々を押し止めるために、誰かがここで話しているのである。その誰かとは、江田秀家、またはその周辺の人だろう。その誰かの話を、筆者の竹崎季長が引用しているのである。文の構造としては、この引用はずっと終わりの方の「とて」まで続いていると見られる。

 

過去の抜け駆け禁止の話は、次に景資つながりで、現在の景資が触れ回っている指示の話になる。「赤坂は馬の足立ち悪く~」に始まる、息の浜待機の指示である。過去と現在、二つの指示を重ねて、最後の「兼日の約束を違えじ」、つまり「(抜け駆けはやらないという)先日の約束を守ろう」という呼びかけを強めているのである。

 

「けんじち」に「兼日」の漢字をあてたのはもう一つの文献、

「蒙古襲来」服部英雄・著 山川出版社 (以下文献3)

に倣ったものである。この「兼日」は服部氏の卓見であると思う。文献1、文献2ともに、これに「言質」をあてているが、「言質の約束」ではピンと来ない。「兼日」すなわち兼ねての日、先日、と取ることによって、「見参に入り候いし時」という過去の話とのつながりが出るのである。

 

「兼日」は「けんじつ」の音で辞書にも載っている。当時は「けんじち」という音も行われたのだろう。「ち」も「つ」も、漢字の中国音の末尾子音tを仮名文字で表したもので、互換性がある。

 

「約束」とは、恐らく江田秀家が一門の代表として受けた、少弐景資からの指示を一門の人々に伝えた時に、「抜け駆けはやるまいぞ」という約束を交わしたのだろう。

 

この制止によって一門の人々が落ち着いたのに逆らって、竹崎季長は「大将を相待たば戦遅かるべし」「肥後の国の先を駆け候わん」と言って赤坂へ出発した。それが許されたのは、季長が領地を失って手勢五騎しかいないという、気の毒な事情に皆が同情したからだろう。その一方で、後に季長が戦功の主張のために鎌倉へ出発するときに、周囲の人たちが冷たかったという理由もまた、ここに発していると思われる。

 

最後に、詞一の部分を自由な現代文で意訳して見る。

意訳:

息の浜に来てみると、数え切れぬほどの軍勢が浜に集結していた。江田の又太郎秀家が、一門の人々が多くいる中から特に季長を名指して、兜の交換を所望されたので、お受けして、手柄を立てた時はこれを目印にして互いに見分けて証人になろう、と話していたところ、元軍が赤坂に陣地を構えたというので、一門の人々は赤坂に向かって出発しようと気負い立った。ところが、「大将・太宰の少弐景資が、野田の三郎次郎資重を使者として、江田の又太郎秀家に面会された時に、来るべき蒙古合戦には抜け駆けなどをせず、一体となって戦うように、と申しておられた。その大将・少弐景資が今、『赤坂は馬の足場が悪いから行くな。ここで待っておれば、敵はきっと攻め寄せて来るだろう。その時は一斉に馬を駆って、追物射に射てやろう』と触れておられるのだから、先日の抜け駆け無用の約束を守ろうではないか」と言う話になり、皆は出発を取りやめて息の浜に留まった。そのなかにあって季長は、「大将の指示を待っていたのでは戦が遅くなってしまいますので、この季長が肥後の国の先駆けをいたします」と言い残して、赤坂に向けて出発した。

 

この次は「絵詞の冒頭部分をどう読むかーその2」として、季長が大将・少弐景資に会って先駆けの許可を得、いよいよ赤坂に向かって進発するまでを扱うつもりである。