竹崎季長はどこで兜を交換したか | 蒙古襲来絵詞と文永の役

蒙古襲来絵詞と文永の役

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蒙古襲来絵詞の詞書を見ると、冒頭に近いところに:
原文:「えたの又太郎ひていえことに申うけ給はるによりてかふとをきかへてこれをしるしにてあいたかひにみつくへきよしを申すところに」
現代表記:「江田の又太郎秀家、殊に申し受け給わるによりて、兜を着替えて、これを標にて相互いに見付くべき由を申すところに」
という文章がある。

互いに戦功の証人になる約束をしても、乱戦の中で、また遠方からでも互いに見分けられなければ心もとない。それで、ふつうは鎧と一揃いの色であるべき兜を交換して、鎧と冑の色が違う異様ないでたちになって、視認しやすいようにしようとしたのである。

それでは季長はどこで秀家と兜を交換したのだろうか。箱崎で待機している時か、それとも息の浜に移動してからか。それを絵詞の絵によって確認して見よう。第1図~第6図の絵は、国立国会図書館所蔵の「蒙古襲来合戦絵巻」という、蒙古襲来絵詞の摸本から取ったものである。この摸本の由来は今のところ見つけていないが、絵、文字ともに非常に達筆でありながら、出版物にある原本と較べると、かなり原本に忠実である。現在の原本は劣化が進んでいるから、色を見るにはこのような摸本のほうがよい。



第1図

さて、第1図は蒙古襲来絵詞の最初の絵である。背景は砂浜の海岸である。手前には柵が描かれている。この柵は第2図の鳥居に続いており、筥崎宮の境内を示している。ここは箱崎の海岸なのだ。数人の武士のグループが移動している。この武士たちは季長とともに箱崎から息の浜に移動した「一もんの人々」と見られる。蒙古襲来絵詞は物語に関係のない人物は描かないからだ。

 


第2図
 

第2図にその鳥居が描かれている。「はこさきの宮のとりゐ」と添え書きしてあり、筥崎宮の鳥居であることがわかる。蒙古襲来絵詞はこのようなランドマークを律義に描き添えて、場面の場所がどこなのか、見る人にわかるように工夫している。鳥居のまわりには松林がある。

 


第3図


少し先に行くと、第3図に見えるように、別のグループの武士たちが進んでいる。手前の柵は先ほどの鳥居から続いており、筥崎宮の境内はここで終わっている。松林が続いている。



第4図


さらに先に行くと、第4図に見えるように、竹崎季長の一行が松林の中を進んでいる。季長の兜のしころは鎧と同じ緑色である。この場所が箱崎であることは、第2図に見えた松林がここまで連続していることでわかる。箱崎を出発したとき、季長はまだ兜を交換していなかったのだ。

 


第5図


第5図は、息の浜で少弐景資の出撃許可を得た季長が総勢五騎で赤坂に向かうところである。勇気りんりんとした様子が伝わって来る。この場面の季長を見ると、すでに兜のしころの色は赤色である。季長は息の浜で江田秀家と兜を交換したのだ。そして江田秀家の兜の色、したがって鎧の色はもともとは赤色であったことがわかる。

では見て来た武士たちの中で江田秀家はどの人か。赤い鎧兜をつけた武士は第1図に二人、第3図に一人、都合三人いる。第1図の二人の武士のうち、グループの先頭にいる武士は旗を持っていて、旗差しであるから高位の武士ではないので、はずれる。江田秀家は残りの二
人のうちのどちらかと思われるが、添え書きがないのでわからない。

 


第6図


第6図は有名な竹崎季長突撃の図である。もちろんここでも季長は交換した赤色の兜をかぶっている。

以上に見て来たことから、冒頭に示した原文(兜の交換)は、息の浜でのできごとを述べていることがわかる。そうであれば、そのすぐ前に接する文章、「おきのはまにくんひやうそのかすをしらすうちたつ」現代表記「息の浜に軍兵その数を知らず打ち立つ」もまた、息の浜の情景である。箱崎からの遠望ではない。息の浜にやって来た季長と秀家は、そこに集結した味方の軍兵の数を見て、肝をつぶした。この中で手柄をたてたとしても、果たしてそれを互いに視認できるだろうか。その心配から、兜の交換に至ったのだ。文章の流れはそのようになっていると思う。

もうひとつ、上記「おきのはまにくんひやうそのかすをしらすうちたつ」の文章は蒙古襲来絵詞の詞書の書き出しである。書き出しが息の浜の場面であれば、上に見て来た、箱崎から博多に向かって移動する場面の詞書がない。この部分の詞書は欠損していると思われる。蒙古襲来絵詞は律義な絵巻で、絵と詞書は必ず対応しているはずだからである。