はじめに/竹崎季長の戦闘時間はどのくらいか | 蒙古襲来絵詞と文永の役

蒙古襲来絵詞と文永の役

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はじめに
 

 「蒙古襲来絵詞」は中世の対外防衛戦争に参加した、竹崎季長という一個人によるイラスト入り記録という、世界にも類を見ない貴重な史料である。特に、諸説の多い文永の役において、戦闘の実相をまざまざと見せてくれるのはまことにありがたい。


しかしながら竹崎季長が自ら「先駆け」と称しているように、10月20日の彼の戦闘はその日の最も早い時期に起こったのである。また彼は敵と交戦するや、あっという間に負傷してしまい、その日は以後戦うことはなかった。だから、彼が記述する文永の役戦闘の時間的な範囲はかなり狭く、かつ片寄っている。したがって蒙古襲来絵詞の記述を、その日の戦闘経過の全体像に拡大することは、厳につつしむべきである。


とは言え、蒙古襲来絵詞をつぶさに検討し、併せて内外の史料と比較するならば、文永の役の博多戦の全体像が、ぼんやりとでも浮かび上がることが期待される。本ブログでは、蒙古襲来絵詞の文永の役部分に含まれるいろいろな問題を、一つづつ順不同に取り上げて、掘り下げて見たいと思う。また関連する内外の史料も同様に検討する。これらは順不同でばらばらだが、最後にはそれらをつなげて、一つの戦闘経過を浮かび上がらせるつもりである。

 

竹崎季長の戦闘時間はどのくらいか

 

蒙古襲来絵詞に記述される竹崎季長の戦闘時間は短いと言ったが、それでは具体的にどのくらいだろうか。それを推定して見よう。世の中にはそれを長く見たい人が多いので、はっきりしないときは長い方に安全を見ることにする。


文永11年10月20日の朝、竹崎季長は箱崎の陣にいたが、敵が赤坂に侵入したという情報があったので、一門の人々と共に博多の息の浜(沖の浜)に移動した。行って見ると大将の少弐景資が、赤坂に行かず息の浜で待機せよ、とふれまわっていたのでここで待機した。季長は待ちきれずに一門の人々と別れ、大将に先駆けの許可を得て、総勢わずか五騎で赤坂へ向かった。


季長が息の浜を出発して住吉神社の前まで行くと、菊池武房の手勢約百騎が赤坂の敵を追い落として引き上げて来るのに出会ったので、互いに挨拶を交わした。季長が菊池と分かれて赤坂まで行ってみると、菊池勢に追い落とされて赤坂を退却中の敵兵が、干潮の鳥飼潟を渉って麁原山(祖原山)方向へ退却しているところだったので、これを追いかけたが、馬が泥に足を取られて倒れたので、敵を取り逃がした。

 

そこで季長は目標を変更、こんどは麁原山に向かって突撃を開始した。麁原山の麓の塩屋の松まで行くと、麁原山を降りて来た敵の邀撃部隊と衝突し、矢戦となった。季長はたちまち矢を受けて馬が倒れ、自身も負傷して危機となった。そこへ白石勢約百騎が救援に駆け付けたので敵は退却し、季長は命拾いした。


以上が文永の役における竹崎季長の戦闘の概略である。この説明の中の竹崎勢、菊池勢、および敵兵の動き(註1)を、付図にそれぞれ赤線、青線、黒線で示した。


そこで本題、この戦闘にどれだけの時間がかかったかを推定して見よう。まず戦闘時間の起点を、季長が息の浜を出発して赤坂へ向かった時点とする。なぜならばこれは単なる移動ではなく、赤坂攻撃を目的とする戦闘行動だからである。


季長が息の浜を出発しのとほぼ同じ時刻に、菊池が戦場を後にして赤坂(註2)を出発した。なぜならば両者が出会った住吉神社は、息の浜と赤坂のほぼ中間にあるからである(付図参照)。
 

またこれとほぼ同じ時刻に、菊池に敗れた敵兵が赤坂の陣地を捨てて麁原山に向かって撤退を始めた。実際は敵兵の撤収はそれより少し早いのだが、戦闘時間が長くなる方向に安全を見て同じ時刻とする(季長の行動時間との重なりが減るので全体の時間が伸びる)。


さて上に述べたように、赤坂から干潟を通って敵兵を追撃した季長は、馬の転倒事故のために敵兵を取り逃がした。取り逃がしたと言うことは、馬の準備ができて追撃を再開しようとしたときに、敵兵がすでに馬でも追いつけない、麁原山の麓の安全圏に達していたということだろう。


上述の時間的起点から、この時点までの時間は約45分である。なぜならばグーグルアース上で測ると、赤坂から麁原山までの距離は約3kmであり、蒙古襲来絵詞を見ると敵兵は徒歩で退却しているからである。徒歩の速度は一般に時速4kmとされるから、約3kmを歩ききる時間は約45分である。上述したように、季長の息の浜出発と敵兵の赤坂出発を同一時点としているいるから、敵兵の麁原山到達が起点から約45分後となるのである。


季長はこの時点から、こんどは麁原山に向かって突撃を開始した。その前に季長の馬が倒れたのはある程度干潟に入ってからだから、突撃の出発点を塩屋の松から約2km手前の地点としよう。馬の駆け足の速度を分速約300mとすれば、2kmは約7分でカバーする。塩屋の松に達した時刻は起点から約52分となる。


ここで季長は麁原山から降りて来た新手の敵兵と衝突し、たちまち矢を受けて突撃は頓挫した。馬を失って歩兵と化した季長が、白石勢が駆け付けるまで何分戦ったか分からないが、5分ぐらい持ちこたえるのがせいぜいであろう。5分と見れば、時間的起点から白石勢来着までの時間が約57分となる。結論として、蒙古襲来絵詞に記述される竹崎季長の戦闘時間は1時間未満である。


ところで、日蓮の説法や著述を弟子たちがまとめた「金綱集」と言う史料は、文永の役の戦が始まった時刻を辰刻、すなわち午前8時ごろとしている。上述した菊池勢の赤坂攻めがその日の最初の戦闘と見なされるから、それより少し遅れて息の浜を出発した竹崎季長が戦った時間帯は、午前8時過ぎから午前9時ごろまでと見ることができる。


また「金綱集」は、同日酉刻すなわち午後6時ごろに大宰府軍が撤退したと言っている。戦闘は約10時間続いたのである。蒙古襲来絵詞は時間的にはその日の戦闘の十分の一しか記述していない。しかもその時間帯は早い時間に片寄っている。蒙古襲来絵詞が述べる戦況を、その日一日の戦闘経過に拡大してはならない、という所以である。

 

(註1)蒙古襲来絵詞によれば、赤坂から追い落とされた敵兵は、大勢と小勢の二手に分かれており、大勢は鳥飼潟を通り、小勢は潟の南岸を通って祖原山方向に撤退中であった。その小勢のほうが大勢に合流しようとして鳥飼潟に入ったので、季長も鳥飼潟に入って追いかけたところ、馬が泥に倒れて取り逃がした。その後小勢は合流に成功したと思われるので、時間的には大勢の方の時間に吸収される。その意味で、敵兵の動きは鳥飼潟を通る一本の線のみで表した。

 

(註2)赤坂と言っても山塊に覆われた半島ぜんたいが赤坂であるから広い。山塊は半島の先端に行くほど険しく、南の方はなだらかである。この中のどこに元軍の陣地があったのかは定かでないが、菊池が騎馬部隊で攻撃できたこと、敵兵の一部が鳥飼潟の南岸を通って逃げたことから、半島の基部に近いところにあったのであろうと推定した。