詞書の冒頭部分をどう読むか その2 | 蒙古襲来絵詞と文永の役

蒙古襲来絵詞と文永の役

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文永11年10月20日の朝、竹崎季長は箱崎の陣にいたが、敵が博多に来たというので一門の人々とともに博多の息の浜に移動、ここで一門の江田秀家と兜を交換して功名を誓い合った。一門の人々は赤坂の敵陣に向かおうとしたが、大将・少弐景資の指示に従って息の浜に留まった。そのなかで季長のみが先駆けの功を求めて、主従わずかの五騎で赤坂に向かった。以上が前ページで見た、「詞一」に書かれている経過のあらましである。

 

その後、季長は大将・少弐景資の前に出て先駆けの許可を得る。そのいきさつを述べているのが「詞二」である。その詞二を見てみよう。詞一と同様に、国立国会図書館所蔵の摸本から取ったものである。

 

第1図 詞二

 

詞二はこのように欠落が多い。江戸時代に絵巻が水没事故に遭った結果である。しかしその割に、その内容はよくわかっている。なぜかというと、ずっと後の詞七に、季長が鎌倉に行って幕府の役人に直訴したときの口上で、特に景資とのやりとりについてはほとんど同じことを繰り返して書いているからである。だから大体は詞七を見ればよいので、ここでは詞七に出てこないところや、問題があるところを取り上げて、見ることにする。

 

①の傍線をした一行目に、「日のたいしゃうせうに三郎(日の大将少弐三郎)」、二行目に「はま」の文字がある。これはその次の行の「ちん(陣)をかためられしところに」につながって、少弐景資が沖の浜にいることを示していると思われるが、欠落が多くて断定できない。

 

②の傍線をしたところに「おほたさゑもんおりられ候へ」とある。これは太田左衛門という少弐景資の家来が、主人の前に現れた季長に対して「御前ですから馬をお降りください」と声をかけているのである。それでは季長は馬を降りたのかというと、

 

③の傍線のところで季長が「おそれ入り候へとものりなから申候(恐れ入りますが乗りながら申し上げました)」と言っているから、結局降りなかったのである。それに対して景資も「たゝめされ候へ(ただ召され候らえ=そのままでどうぞ)」といちおう鷹揚に答えてはいるが、心中は穏やかでないだろう。

 

④の傍線のところが重大である。「はこさきのちんをうちいてはかたにはせむかふ(箱崎の陣を打ち出で博多に馳せ向かう)」とあるからだ。え?今まで博多の息の浜にいたんではないの?」ということになる。

 

季長が箱崎の陣から先駆けに出発したという説(註1)は世に根強いが、このような考え方は詞二のこの一行の文から出ていると思われる。しかしこれまでのいきさつから見て、また後で詞七に見るように、季長の箱崎出陣は成り立たないのである。

 

それではその詞七を見てみよう。下は詞七の一部である。季長の移動経路に関係するところを抜き出した。

 

第2図 詞七の一部

 

例によって、まず現代仮名に置き換える。

 

「申あけ候きょねん十月二十日もうこかせんの時はこさき

のつにあひむかひ候しところにそくとはかたにせめ

いり候とうけ給はり候しをもてはかたにはせむかひ候

しに日のたいしやうたさいのせうに三らうさえもん

かけすけはかたのおきのはまをあひかためて一とうに

かせん候へしとしきりにあひふれられ候しによて

すえなかか一もんそのほかたいりやくちんをかため候なか

をいて候てかけすけのまへにうちむかひてほんそにたつ

し候はぬあひたわかたうあひそひ候はすわつかに

五き候これをもて御まへのかせんかたきをおとして

けんさんにいるへきふんに候はすすすんてけさんにいるより

ほかはこするところなきものに候さきをかけ候よし

君のけんさんに御いれ候へきむね申候しにかけすけも

そんめいすへしとはあひそんし候はねとももしそんめい

つかまつり候ははけんさんにいれ申すへく候と候しをうけ

給てはかたのちんをうちいてとりかひのしほひかたに

はせむかひ候てさきをし候てかせんをいたしはたさし」

 

これを現代表記に置き換える。季長の移動経路を示す地名を青字で示した。

 

「・・申し上げ候。去年十月廿日、蒙古合戦の時、箱崎の津に相向かい候いしところに、賊徒、博多に攻め入り候と承り候いしを以て、博多に馳せ向かい候いしに、日の大将太宰の少弐三郎左衛門景資、『博多の息の浜を相固めて、一同に合戦候べし』と、頻りに相触れられ候いしによって、季長が一門その他、大略陣を固め候中を出で候いて、景資の前に打ち向かいて、『本訴に達し候わぬ間、若党相添い候わず、僅かに五騎候。これを以て御前の合戦、敵を落として見参に入るべき分に候わず。進んで見参に入るより他に伍するところなき者に候。先を駆け候由、君の見参に御入れ候べき』旨申し候いしに、『景資も存命すべしとは相存じ候わねども、もし存命仕り候わば、見参に入れ申すべく候』と候いしを承りて、博多の陣を打ち出で、鳥飼の潮干潟に打ち向かい候いて、先をし候いて合戦を致し、旗差し・・」

 

平明な文章なので逐条の説明は省くが、重要な言葉だけ取り上げる。「見参に入れる、見参に入る」というのが頻出する。いろいろな解説を見ると見参とは面接のことだが、これが主従儀礼を意味するようになった、と書いてある。それでもピンと来ないが、ここで用いられている意味は結局、「(鎌倉に戦功を)報告する、報告してもらう」ことだと考えれば落ち着く。いくら先駆けで戦功を立てても、鎌倉に報告してもらえなければ恩賞はもらえない。そこで、戦功の記録と報告を一手に握る大将の少弐景資に、先駆けの許可を得ると同時に、鎌倉への報告を約束させている、というのが詞二、詞七の中心である。

 

ちなみに、景資は戦功記録の筆頭に季長の戦功を書き付けたが、結局鎌倉には報告しなかった。今回の恩賞には先駆けを含まない、という鎌倉の方針を忖度したのである。それに不満の季長は自ら鎌倉に出かけて直訴に及んだ。詞七はそのときの口上の一部である。

 

また、「本訴に達し候わぬ間」というのは「裁判に負けたので」という意味であるらしい。季長は領地のことで裁判に負けたので、現在は領地を持っていない、それで「若党相添い候わず」、つまり郎党を大勢集められなかった、と言っている。

 

ここで全文を現代語訳して見よう。

「・・申し上げます。去年十月二十日の蒙古合戦の時、箱崎の津に向かいましたところ、賊徒が博多に攻め入ったと聞きましたので、博多に馳せ向かいましたところ、その日の大将の太宰の少弐三郎左衛門景資が、『博多の沖の浜を防備して、敵が来たら一斉に戦うように』と、頻りに触れておられましたので、季長の一門やその他の人々のほぼ全員が、息の浜の陣に留まっておりました中を出発しまして、景資の前に出まして、『裁判に負けておりますので郎党を集められず、僅かに五騎でございます。この人数で、まともな合戦で敵の首を取って、それを報告して頂くような力はございません。先駆けをしてそれを報告して頂く以外は、仲間と競争する手段がない身分でございます。先駆けをしたことを将軍に報告して頂きますように』と申し上げたところ、『この景資も今日の戦いに生き延びるかどうかわかりませんが、生き延びたら将軍に報告して差し上げましょう』と答えたのを聞いた上で、博多の陣を出発して鳥飼の潮干潟に向かいまして、先駆けをして戦いまして、旗差し・・」

 

さて移動経路の話に戻って、青字の地名を連ねて見れば箱崎の津~博多~博多の息の浜~博多の陣~鳥飼の潮干潟となり、季長が箱崎から博多の息の浜に移動した後、そこから出陣したことを如実に示している。目的地を鳥飼の潮干潟と言っていて、詞一の赤坂とは異なるが、目指した赤坂を菊池勢に先取りされて、結果的に鳥飼潟で戦ったのだから、おかしくはない。

 

また、始めの方で「賊徒、博多に攻め入り候と承り候いしを以て」と言っている。この文章が、元軍が息の浜に上陸した、という説の根拠になっているかもしれないが、この説は大将の景資が息の浜に陣を構えていたことによって否定される。その景資の息の浜の陣の図が蒙古襲来絵詞にあるので下に載せる。同じ息の浜に敵の大軍が上陸している雰囲気は全く窺えない。「博多に攻め入った」というのは、季長が箱崎で聞いた誤報かもしれないし、赤坂のことを言っているのかもしれない。赤坂も「博多地区」だから箱崎から見れば博多である。

 

第3図 息の浜の少弐景資の陣

 

詞七で、季長が箱崎を出て博多の息の浜に向かい、そこで景資に会ったのち、息の浜を出て赤坂へ馳せ向かったことを見た。それでは詞二の末尾の、「箱崎の陣を打ち出で博多に馳せ向かう」は何なのか。前述のように、詞二は詞七と同じいきさつを述べたものだから、その中にこの一文があるのは謎と言う他はない。健全な紙に書かれた詞七が、地名のセットとして、季長の順当な移動経路を示しているのだから、大修復された紙に書かれた謎の一文を、受け入れるわけにはいかない。謎は謎として置いておくしかないのである。

 

(註1)箱崎出陣説の例を挙げれば、私が参考にしている「『蒙古襲来絵詞』を読む」(海鳥社2007年、著者:大倉隆二氏)の51ページにある「詞一」および「詞二」の要約を、時系列風にまとめれば次のようになる。

博多息の浜に蒙古軍が上陸 → 竹崎季長、江田又太郎秀家らは箱崎に待機 → 秀家と季長が兜を交換 → 季長が大将・少弐景資の命令を待たず箱崎を出発 → 景資に会って「先駆け」の見参入れを約束 → 蒙古軍の陣に向かう

しかし箱崎での兜交換は、季長が筥崎宮を通過して博多に向かうところを描いた絵一・第七紙において、まだ兜を交換しておらず、緑色の兜をかぶっていることによって否定される。つまり絵と見比べれば上記の時系列は成り立たない。

 

季長と景資のやりとりから思うこと

 

詞一、詞二に現れる、季長と景資の会話を見てわかるのは、二人の言葉遣いが平等だということである。季長が「恐れ入り候えども乗りながら申し上げ候」と敬語を使えば、大将の景資も「ただ召され候え」と敬語で答える。これを「苦しゅうない、そのまま通れ」などと訳したら間違いなのだ。言葉遣いがこのように平等なのは、職責の違いはあれ、御家人として将軍の前に平等、という意識の表れなのだろうか?ちなみにこの時、季長と景資はいずれも29歳の同年である。なんと若い!

 

また、蒙古襲来絵詞に見るかぎり、竹崎季長は相当に強引で自己中心的な人である。まず息の浜を守って赤坂へ行くな、という大将の指示に正面から違反して、先駆けを行った。そのためには一門の人々との間の、先駆け無用の約束も破った。大将に面接して先駆けの許可を貰った、と上に書いたが、実は許可を願い出てもいない。彼の言葉をよく見れば、先駆けをするから鎌倉に報告をよろしく、と言っているだけであって、大将の指示に違反する赤坂行きはすでに前提になっている。そればかりか、大将に向かって馬上から見下ろして物を言う無礼をあえてしている。あげくに、そのいきさつを誇らしげに手記に書いて公開する。現代にこんな人がいたら鼻つまみ者だろう。当時はこのような人が、頼もしい武士としてもてはやされたのか?それとも当時も鼻つまみ者だったのか?とは言え、季長がこんな性格の人だったおかげで、蒙古襲来絵詞という貴重な記録が、今我々の前にある。

 

一方、大将の少弐景資は優柔不断の人のように見える。自分がさっき出したばかりの指示を、目の前で違反されても一言も咎めないばかりか、請われるままに鎌倉への戦功報告を約束している。季長が言う自らの不遇に同情してのことならば、彼は情の人でもある。軍隊の司令官としては失格であろう。

 

また、たった5人の兵力の長である季長が、数千人の軍隊の総司令官に対して直接に話をしているということは、近代的な軍隊組織ならばあり得ないだろう。当時の日本軍は、季長が蒙古襲来絵詞のなかで記述しているような、五騎(竹崎勢)、百騎(菊池勢、白石勢)、五百騎(少弐勢)などの不揃いな人数の家単位の集団が、それぞれ総司令官に直結するという原始的な組織であった。十人、百人、千人、一万人を単位とするピラミッド状の組織を持つ元軍と対照的である。