伸びきったゴムひも | ピグ充日記〜発達障害のある大人がリア充を目指すページ〜

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実はピグはずいぶんご無沙汰。ここは発達障害のある大人がリア充を目指すページに生まれ変わりました!

ここのところずっと追いつめられた気分でいます。追いつめられた時にはそれに対処するということを前に書いていました。そして自分の場合、それは文章を書く、それもネット上に公開してということも書きました。

 

けれどその事実を書くこと自体がつらい、しんどいということもあります。

 

じゃあ、ちょっとそんな事実より「マシ」な、それでもつらいことを書いてみることにします。

この春から人から気になる言葉を受けることが何度かありました。それは平日の昼間に外に出ていると

 

「今日はお休みですか?」とか、もうそのままストレートに「あれ、平日の昼間なのにいらっしゃる?」とか言われたのです。

 

あかんのか!平日の昼間に成人男性が仕事場以外の場所にいたら!

 

確かにお金になるようなことはしていません。でもそれがなんだというのでしょうか。相手に迷惑をかけることになるのか。そんなことはまったくありません。どちらも体調不安定な父親のそばにいただけです。生産的ではないかも知れないけれど、健康不安のある親のそばでその様子や行動に注意もしている状態なわけです。それがさも不思議そうに言われる。

 

たとえば今、父親が身体的に大きな不具合を負っていて車いすで行動しているとします。そしてそれを介助しないとなかなかやりたいことができないということが周囲にもよくわかるような場合なら、

 

「ああ、この人は親の介助のために仕方なく仕事を休んでそれに付き添っているんだな」

 

と、理解される可能性はある。でも見かけ上親の行動に不具合はなさそうだ。話すこともできる。なのになんで昼間から息子がそばにいるんだ・・・とそんなところなのでしょう。

 

これは精神障害者や発達障害者のおかれている状況とも似ている気がします。

見かけ上は不具合はないように思える。じゃあ、働いていて当たり前だろう!と言いたいわけです。

 

これを僕らは小さな頃からやられてきたわけです。今のように療育が発達してきている時代では到底ありませんでした。周りと違う行動をとると怒られたり奇異な目で見られる、なじられる、軽蔑される、いじめられる、そんな時代でした。僕がPDD-NOSという診断名をもらったのはようやく40も半ばになってからのことでした。もうその時点で相当くたびれていたのです。からだもこころも。

 

ゴムのひもは伸びきっていた。

 

小さな頃から「どうしてこんなに悲しいのだろう」「どうしてこんなに後悔するんだろう」「どうして人から軽蔑されるんだろう」「どうして人と同じ力が発揮できないんだろう」

どうして、どうして・・・を繰り返して来て、

 

大人になっても普通に職につけない。やっと(!)精神障害者という名称を与えられて、それをフォローするための試し仕事みたいないものに就いたり、けれども継続的なフォローというものはなく、あとは医者任せだったりしたので、満足な職業生活というものを送れた時期はこれまで本当に短い期間しかありませんでした。なんで若い頃の一時期だけフォローして、あとはその人間を放ってしまうんでしょうね、行政は。

 

家に金があり、一般の事業所へなど行く必要もなく、それでもぶつくさいつも言って来る人間はずっと相手をするのに、フォローから外されても文句を言わずになんとか自分の道を探り探りやってきた人間は相手にされず忘れ去られる。

「あの人ならあの人にふさわしいところに行けるでしょう」

と放られる。

 

決してそんなことはないんです。たどり着くところすべて、福利厚生などもなく賃金も低く、将来の保証もないような場所でなんとかその場しのぎに生きて来た。そうして年齢を重ねてから、どうしてそうなのかという本当の原因がわかる。けれどもその時にはもう自分のこころのゴムは伸びきっているのです。生きることに疲れている。

 

そして親は高齢になってきます。からだのあちこちに不具合が出て来る。病院にも付き添わないといけない。診療所に連れて行かないといけない。時に入院する必要も出て来たりする。ただでさえ疲れやすいのに、からだも気持ちも疲れることが多くなり、しかもその内容は深刻になってくる。

 

自分の先行きも心配だけれど、ともかくも目の前の親の健康にも気を配らないといけなくなる。年齢的に障害に配慮のあるような事業所を見つけることもむつかしくなっている。じゃあ、家にいて自分を休ませておくことと、親のからだに気を遣うことぐらいしか、もう一人では考える限界になるのは、ふつうではないか。

 

それを子供の頃からのうのう、のほほん、まっすぐに生きてきて、経済で困ることもなくいい環境を与えられ、友達にも恵まれ、気持ちよく学校生活を過ごし、本人が思っているところのまともな職業生活を送っているらしい人間から、なんで「平日なのに・・・」などと説教調に指摘されないといけないのか。

 

俺とからだとこころを入れ替えてみよ、などと傲慢なことは言うつもりはありません。でも人はそれぞれだと思うのです。様々な背景が人にはあって、でも、お金や仕事というキーワードはそんなことを吹き飛ばす威力をもっているようです。「平日には仕事場にいなければいけない」という制度を、人は今大切に思っているわけですね。そうしないと生活ができない、家族を支えられない、将来が保証されない・・・

 

できればそんな風潮にのってみたい。そう思うくらいです。けれどそれができないゴムの伸びきった人間は、平日の昼間、家にこもってしまうか、いっとき犬の散歩をするか、親の様子をみているか、「ぐらい」しかできないのです。そしてそれは小さな頃から周りの風潮になじめなかっった自分をずっとこれまで引きずって来た結果なのです。小さな頃から疲れてきた果てに、やっていることなのです。