どのような原作、脚色、脚本であっても血の通った芝居で温かなドラマを構築できる月組。
その「カンパニー」らしさ=チームワークを原作を通して表現した作品だと思います。
建前に捉われず肩肘張らない人間味を押し出した笑いあり、切なさありの石田先生の演出。
総論としては十分楽しめます。
型にはまって表面をなぞるだけの演出では生まれないユーモアや、さりげなく人の核心に迫る台詞のやり取りは流石だと思います。
ただ、石田先生の演出にありがちな「良くも悪くも」の「悪くも」の部分は今で言えば「麻生大臣的」だったなと。
石田先生は「すみれコード」や「品格」の破り方が意図的ではなく、指摘されて
「え、あれ?線踏んでた?」「超えてた?」
と気付いていないような気がするのです。
(そう言うところを不快に思う方もいらっしゃると思います。一方で意図的に女性蔑視、セクハラをするのだって十分罪ではあり比較するものではありませんが・・・)
先生ご自身が、
「原作」ですが「原案」のような形になった
と語っている通り、舞台化にあたり多くの脚色を加えているのであれば、例えば下記のような演出はどうなのだろうと非常に気になりました。
・「孕ませる」という表現を原作のニュアンスのまま瀬川由衣@海乃美月にあのような言い方で言わせるのか。
(瀬川が激昂しているにしても、他の選択肢はなかったのか)
・ウィーンで高野が瀬川をはじめて名前で呼ぶのが「由衣」で良いのか。ここは「瀬川」と呼ばせてから次の段階で「由衣」が適当ではないか。
高野は人をいきなりファーストネームで呼ぶような人物ではなく、瀬川も「由衣」と呼ばれて「アイデンティティ認められた!」と喜ぶタイプでもない。
また、原作も含め個人的にどうしても共感できなかったのが鈴木舞の生き方(の描き方)です。
1点目は次の台詞。
「金メダルは他の誰かが獲るかもしれないけど、この子の母親は私にしかなれない」
後半はおっしゃる通りなのですが、前半には同意しかねます。
鈴木舞が金メダルを獲った時、そのメダルへのプロセスは鈴木舞でしか成し得なかったものであり、したがって鈴木舞にしか獲れない金メダルです。
誰が獲っても同じ金メダル、というのは金メダリストへの敬意に欠けると思うのです。
鈴木舞にしか獲れない金メダルがあったはずなのです。
2点目。
鈴木舞が「子供を産む」ことを選び、アスリートを引退するという生き方は尊重されるべきです。
ただ、現代においてこのような生き方が小説のようなフィクションで描かれると
「結局女性にとっては子供を産み、育てることが一番の幸せなんだよね」
「女性って出産や育児で仕事を諦めがちだよね」
という思想が世に再び流布される気がしてならないのです。
「仕事か出産か」という二者択一ではなく、子供を産んで育てながらでも仕事を続ける生き方もあるのに。
(ちなみに育てるのは母親だけの役割ではなく、この社会課題を男女で共有するのは当たり前のことです)
鈴木舞の引退が瀬川由衣に試練を与えるためのプロットであるにしても、引退コメントのニュアンスは何とかならなかったのかなと思います。
逆に初見でモヤモヤしていたものがスッキリ晴れたのは瀬川由衣の衣装です。
初見では、
宝塚の娘役が役とは言えほぼジャージというのは如何なものか。
と疑問に感じました。
何だか可哀想な気持ちにさえなったのを記憶しています。
ただ、再考し今はこの衣装で良かったと捉えています。
何故なら、瀬川由衣がプロとして高野悠をサポートするにあたってジャージは「仕事着」だからです。
瀬川由衣のストイックな性格が「常時ジャージ」にも表れています。
そしてジャージ姿でプロの仕事を全うする瀬川由衣、演じる海乃美月は舞台人として、そしてタカラジェンヌとしても美しいです。
作品の全体像に水を差すつもりはありません。
前述の通り、エンターテインメントとして楽しかったです。
ただ、国や企業が「女性活躍」を宣言しても未だに「男性にとって居心地の良い範囲での女性活躍」に止まっている中で、舞台だとしても(というより舞台だからこそ)細かい表現が大切だと思い、書かせていただきました。
スター編は別記事にいたします。
芝居の若干のモヤモヤはショーでの洗練された「モラルハザード」で一気に吹き飛ぶことになります・・・
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