花組も、花組こそ日本物にもっと取り組んでほしい、そんな可能性を感じる作品でした。
近年、「日本物の雪組」は力強く、頼もしくありますが、宝塚の日本物は雪組だけのものではないはず。
各組、それぞれの趣が華やぐ日本物の世界があって、磨けば光ると思うのです。
花組の日本物には格式高い様式美と艶やかさを感じます。
私の認識では歴史的にもそんな伝統があるように思います。
花組が大劇場公演で日本物の芝居を上演するのはかなり久しぶりで(2005年「野風の笛」以来でしょうか)、正直所作などがぎこちない部分も少なからずありました。
ただ、私は萎縮するほど批判することに意味はないと考えており、
「経験不足」→「上手くできない」→「上演しない(できない)(させない)」→「経験不足」
という負のスパイラルこそ中長期的には恐ろしいことだと思います。
もちろん公演は練習の場や実験の場ではありませんから、質は問われますし、自ら追求するものでもあるでしょう。
その中で、この公演で退団した紫峰七海の存在は非常に大きかったです。
堂々とした立ち居振る舞い、所作。
台詞は息の使い方まで洗練されていて上品に響きました。
(「風の次郎吉」が思い出されます)
彼女の存在も、組子達の日本物への指針の一つになったことは間違いありません。
仮に器用ではない部分が多少あったとしても、全体として花組が描こうとする日本物、新源氏物語の世界は十分伝わってきました。
明日海りおの光源氏は目の奥で芝居するところに惹かれました。
文字通りの表情=顔の表面、筋肉を激しく動かすのではなく、目の奥で語り、目の奥に感じたことが映るのです。
歌は心情が美しく流れ出るような表現力が冴え渡ります。
無駄なビブラートをかけずに、強く太く伸ばしていくと自然に表れる声の光沢を上手く活かしていました。
ビブラートだけではありません。
技術のみをひけらかし、その足し算で歌唱力をアピールすることがどれだけ興醒めか。
その点、明日海りおの歌唱は、光源氏の恋心だけでなく持って生まれた運命に誘われ、導かれ、そして彼女自身が覚悟を決めて道を選び、力強く進んでいく、それら全ての様相を繊細かつ大きなスケールで描く表現力に満ちていました。
花組娘役、その百花繚乱たるや・・・
「層が厚い」という言葉では全くもって足りないことを痛感しました。
源氏の心のふるさとのように存在した花乃まりあ演じる藤壺の女御。
気高く、気難しく、でも実はあまり器用ではないところまで的確に演じた花野じゅりあの葵の上。
眩惑的な存在感で魅了した仙名彩世の朧月夜。
究極の包容力、育ての親を心から愛し、包み込む、まるで天の人のような桜咲彩花の紫の上。
(包容力に偽善っぽさがない桜咲彩花、流石素晴らしい演技力です)
また、若紫(春妃うらら)と紫の上(桜咲彩花)のコンビネーション・・・というより自然な成長過程の演技力にも驚かされました。
演出上は「つなぎ目」(演者が変わる場面)がはっきりしていましたが(もちろん演出意図があってのことと理解していますが)、演出次第では気づかぬうちに桜咲彩花が演じている、ということも有り得そうな2人の役作りだったと思います。
六条御息所を柚香光が演じるのは、決して娘役が不足しているのではなく、「彼女だからこそ表現できる役」という意義ある配役だと捉えています。
情熱や嫉妬心、情念とでも言うべき強い想いはもちろんのこと、それ以上に「(源氏を)独り占めできないこと」を悟っているからこその切なさやもの哀しさが滲み出ていました。
この点が一番の見所であり、彼女にとっても大きな成果だったのではないでしょうか。
(ただ嫉妬してわめいている女性ではない、ということを理解して役作りしているのが伝わってきました。一歩間違えると誤解されかねない役をきちんと演じ切ったと思います)
その所作、舞う姿に見とれ、見惚れたのは鳳月杏の夕霧。
美しく、正しい舞とはまさに彼女のようなことなんだと直感的に分かる技術とセンス。
着物を操ったり、コントロールしようとするのではなく、まず身体が正しく動けば着物も自然な軌道を描くのだということまで彼女を観ていると分かります。
また、思わず微笑んでしまいそうなほど「光源氏の子」だということが伝わって来る「やんごとない」オーラも配役の妙でした。
芹香斗亜の惟光はオープニングの主題歌「恋の曼陀羅」に尽きます。
好みを語らせてもらうとはっきりいって理想的です。
切なさがありながらも、ただ悲しく残酷なだけはでない恋の喜びを、きれいごとだけではない快楽的な側面まで適度に滲ませています。
ハスキーな声質の良さはそのままに、このソロでは雑味がなくまろやかで程よい艶も出ていました。
この後の芽吹幸奈(女房)のソロ歌い継ぎも見事でしたし、彼女は劇中歌も要所で「つなぎ役」という次元ではない豊かな歌唱を聴かせてくれました。
貫禄と色気、男気で魅せる瀬戸かずやの頭中将。
こんなに頼もしくて誠実で、それでいて男としてのゆとりまである人物を「男役」として威風堂々と演じる瀬戸かずやは、男性にとっては恐れ多くて理想にすら出来ないほど素敵です。
目指すなんておこがましくて、別世界の存在として崇めていたいのです。
衣装に着られることのない引き締まった造形美。
少し緩めた時に解き放たれる華やかな愛嬌。
花組の日本物、その男役像における理想形の1人になるのではないかと思います。
光源氏だけでなく様々な恋模様がかなり自由に入り乱れるのに、1人として不潔であったり不誠実に感じられる人物がいないこの作品の世界。
(艶めかしさはありますが)
浮気や不倫という概念ではないですし、そういう言葉では到底表現し得ない、人が人を想い、恋する心、人間関係は理屈抜きに理解も共感もできます。
何かを否定、批判したり、肯定、賞賛するつもりはないのですが・・・人の世ならば、あらゆることが起こりうると思うのです。
この舞台で描かれた登場人物たちの人生、恋愛が気高く、美しく、色褪せぬ魅力があるのは、それが「新源氏物語」だからなのでしょうか、あるいは「宝塚歌劇」だからなか・・・いや、それは・・・
私は答えを急ぎませんし、出るかも分かりません。
ただ、ふとした時に考えたくなるテーマではあります。