心の奥に分け入るというのは、危険なことなのかもしれない。心の奥には闇がある。むしろ、闇を感じているときには、心自体が闇だと言ってもいい。闇に閉ざされた心だ。  闇に閉ざされているということは、光が見えないということだ。自分がどこにいるのか、何者なのか、どこへ行きたいのか、何をしたいのか、わからなくなる。不安なのかもしれないが、その不安すら見えなくなる。

 真実を見つけたいと願うが、果たして自分は真実を見つけられるのか?何が真実なのか知らないのに、見つけたものをどうやって真実だと見分ける?何を根拠にそれが真実だと確信する?自分の見ているものが、信じているものが、真実であるという保証はどこにもない。

 自分が何かを真実だと信じることで、真実を作り出すしかないのか?しかしそれはどこかで破壊されるかもしれないという不安を招き寄せる。何故真実を求める?不安だからか?光が見えないからか?今の自分にとっては、そのことが真実ではないのか?不安と闇と迷いが、自分自身の真実ではないのか?そこから逃げるために、ありもしない真実を求めているのではないか?

 真実が、自分にとって常に心地よいものや救いであるとは限らない。光だけが真実とは限らない。心が闇に閉ざされているのなら、苦しんでいるのなら、その闇が、その苦しみこそが唯一の真実、リアリティだ。そのリアリティが、闇という幻想を消滅させる光なのだ。

 真実を探そうとするな。それはいつも目前にあるのだから。
 時を通じて育まれるものは、愛ではなく情である。愛には、育むための時間や、築き上げるべき信頼は必要ない。愛は、最初から完璧な存在である。人為的に作ることはできない。
 理想と明日は似ている。原理は同じと言ってもいいかもしれない。共に、幻想であることと、決して手にすることができないという点で同じである。明日はどう転んでも今日にはなれないし、理想はどう転んでも現実にはならない。

 理想は実現したと同時に現実になる。実現した途端に、理想としての輝きと魅力を失い、追い求める必要のない現実になるのだ。明日への希望は、今日という現実の訪れと共に失われる。

 今日という現実、今というリアリティに、希望や理想の入り込む余地はない。希望や理想のないところに、絶望はない。では、理想も希望もない人生に何の意味があるというのか?味気ない現実をいつまでも噛み締めながら死を待つだけなのか?

 理想も希望もない生き方がどういうものなのかは、そのように生きてみなければわからないだろう。ただ、理想や希望を持たない人生を歩むには、恐ろしく透徹した精神が求められるはずだ。あるいは、透徹した精神には、理想や希望は必要ないと言うほうが正確かもしれない。
 小屋の中は薄暗い森よりもさらに暗く、獣のような生臭さが漂っていた。その雰囲気が、テリーに無理やり引きずり込まれたロアンナの恐怖心をさらに増幅させた。テリーはロアンナを椅子に縛りつけ、薄汚いぼろ布でさるぐつわをかませた。

 身動きの取れないロアンナは、大きな瞳をさらに見開いて部屋の様子を見極めようとした。小さな窓は厚いカーテンで覆われて、かすかな光を受け入れているだけだった。背後ではテリーがごそごそと動く気配がしている。これから何が起こるのか、自分の身に何が起きるのか想像できないロアンナの心には、ただ恐怖だけが充満していた。

 やがて、テリーは部屋の隅から何かを持ち出し、ロアンナの背後に近づいた。金属の擦れ合う、鋭い音が聞こえる。ロアンナの視界に、刃渡り30cmほどはあろうかと思われる大きなハサミと、それが放つ鈍い光沢が侵入してきた。

 「どうだ、いいハサミだろう?」
 「これはあんたみたいな可愛い子をバラすための特注品なんだ」
 「こいつで斬った断面なんて、そりゃ綺麗だぜぇ・・・」

 テリーはロアンナに話しかけているようで、その実独り言をつぶやくかのように喋り続けた。その目は興奮のためか、暗い部屋の中でギラギラと光を放っているようだった。ロアンナは、これから自分の身に起きようとしていることを漠然と理解しながら、しかし心は必死にそれを拒絶しながら、恐怖におののいていた。その恐怖がある線を超え、意識が遠のくかと思えたその時、入り口のドアを激しく叩く音がした。

 「テリー!テリー!いるんだろ!?早くここを開けな!」

 それはロアンナの祖母、ミゼッタの声だった。

 「ちっ・・・」

 テリーは舌を鳴らすと、ロアンナを椅子ごと持ち上げ、積み上げられた薪の陰に運んだ。それからあの大きなハサミをロアンナが縛り付けられている椅子に立てかけ、ドアへと近づいていった。ほんの少しドアを開き、顔を半分だけ覗かせて、まだギラギラしている目でミゼッタをにらみつけた。

 「なんだよ、うるせぇな」
 「あんた、うちの孫を見なかったかい?」
 「あんたの孫?さぁ、知らねぇな」
 「本当に知らないのかい?」
 「知らねぇよ」
 「これでも知らないって言うのかい?」

 ライフルの銃口が、テリーのあごを下から軽く突き上げた。

 「な、なんだよ、物騒なもん出しやがって・・・知らねぇったら」
 「ちょっと中を見せてもらうよ」
 「い、一体なんの権利があって人の家に・・・」
 「あんた、いつから人になったんだい?」

 ミゼッタはテリーに銃口を突きつけたまま、ドアをこじ開けるようにして小屋の中へと入り込んだ。
 子供に難しい話をするとき、大人は子供の頭でも理解できるように噛み砕いて説明する。子供の身の回りにあるものに例えて、子供にもわかるような単純な概念に置き換えて物事を表現する。それは厳密な説明ではなく、事のあらましを大雑把に伝えるための比喩表現である。

 あるいは、パソコンの初心者に対して、パソコンの複雑な機構に関する話をするとき、専門用語を使って正確に表現しても理解してもらえない。だから、厳密な表現から外れても、相手の身近なものに例えて説明すると、大まかなことはわかってもらえる。厳密な表現を理解するには、多くの基礎的な概念を理解している必要がある。四則演算を理解していない子供が、因数分解について説明されてもチンプンカンプンだろう。

 いわゆる宗教の教義も、「神」と呼ばれるものについて比喩的に表現されたものなのではないだろうか。聖書や仏典、神話など、神や仏について説かれた書物の内容というのは、あくまでも比喩であり、直接的に神を理解できない人々に、噛み砕いて伝えようと試みたことから始まっているのだろう。釈迦もキリストも、自ら聖典を著したわけでも、信者を募って組織とシステムを作り上げたわけでもないと言われている。宗教というシステムを作り出したのは、彼らの伝説を受け継いだ後世の人間なのだ。

 しかし、神を表現しようとした宗教の試みは多大な悲劇を巻き起こしたと言わねばなるまい。比喩表現にすぎない神と、教義をそのままうのみにした人々と、彼らを利用すべく神の代理人となった権力者が作り上げた宗教というシステムは、数千年という時を経ていまだに世界を混乱させている。

 人が長い年月をかけて自らの精神に植えつけた「神という概念」と、自ら作り上げた概念を崇拝するという営みの滑稽さと悲惨と愚かしさに気づく日が、いつかやって来るのだろうか。