特別なことはしない。特別な決意は持たない。日常を淡々とこなす。そのありさまを淡々と見る。人生を変えるのは決意ではない。自分を変えるのは自分ではない。淡々とした現実である。淡々とした現実を見ることが自分を変えていく。淡々とした現実を見られない者は、自分に囚われる。決意も自己変革も、自分に囚われた心から生まれる。自分に囚われた者の変化は、囚われた枠内でしか起こらない。つまり、根本的には何も変わらないということだ。

 テレビの情報番組で、「おひとりさま」と呼ばれる女性のライフスタイルを紹介していた。
>「おひとりさま向上委員会」 http://ohitorisama.net


 「おひとりさま」とは、”人間として当たり前の個が確立できていて、一人の時間も楽しく豊かに過ごせる大人の女性”ということらしい。その「おひとりさま」としての過ごし方について、番組では豪華なホテルでの宿泊・朝食、一人で過ごすランチに適したお店、一人でバーに入った時の振る舞いなどについて説明していた。


 言いたいことはわかるような気もするが、正直、失笑を禁じえなかった。内面的な人間の在り方などという話は一切なく、すべて形なのである。「一人の時間の過ごし方」と言えば片付けられる内容に、「おひとりさま」という名前と定義を与え、何か新しい生き方であるかのように仕立て上げただけのものではないのだろうか。


 人間として当たり前の個を確立するというのは、誰かの定義に従ってふるまうことなのだろうか?「おひとりさま」という肩書きと定義に自分を同化させることが、個の確立なのだろうか?それが「大人の女性」なのだろうか?形だけの行動パターンにアイデンティティを求めるというのは、いかにも浅はかで、幼稚ではないか。


 こういった、目新しさだけの定義に群がるのは、皮肉にも「幼稚な女性」と相場が決まっているものだ。

 僕は頭の回転が鈍い。日常生活に支障のない程度の、表面的な反応は別として、目の前で起きていることをリアルタイムに処理できないので、日々の出来事はほとんど理解されないまま素通りしていく。その中で印象的な出来事だけが頭に残り、後でそれを反芻していろいろなことを感じたり、理解したりする。その間隔は、実際の体験の数時間後だったり、数日後だったり、長いときは自分でも思い出せないほど年月が経っていたりする。


 いつの出来事だか分らない記憶が、ふいに鮮明に甦って、その時感じたであろう感動や印象が、実際にそれを体験していた時よりもリアルに再生され、その体験の意味を理解する。その現象は夢と現実を区別せず、何年も前に見た夢の中のひとコマが突然甦ることもある。その瞬間まで、見たという意識もなかったような夢の記憶が甦るのだが、不思議なことに、僕にはそれが夢の中の体験なのか、現実に体験したことなのかがはっきりと区別できる。意識とは、心とは不思議なものだ。時空の法則を無視した何かがそこにある。

 1億円を手に入れる夢を見た。宝くじか何かで1億円が当たり、銀行かどこかでそれを受け取った。大きな黒いスーツケースに万札がギッシリ詰まっていた。僕はそれを自分で持って、徒歩で家まで帰ろうとしていた。そのうち、自分が持っているモノの重大さに気づき、誰かに取られたり、落としたりしないかという不安に襲われた。しかし、途中でケースを開けて札束を取り出し、何かを買ったような気がする。1億円もあるから、このくらい使ってもまだ余裕だ、と思ったのを覚えている。そして1億円の使い道を考えながら歩いていた。これといった結末のない、中途半端な夢だ。

 科学は、万人に通用することをその普遍性と確実性の根拠としている。何度でも再現できること、いくつでも複製できることが、科学技術の普及と発達を促進してきた力の源であると言えよう。逆に人間の意識は、他とは違うこと、切り離された個体、自分自身であることに存在意義がある。万人と共通であるよりも、自己の独自性にこそ価値を見出すものだ。それゆえ、科学的アプローチは自己としての意識の解明に役立たないだろう。また、意識に拠るところの幸福や愛情といったものも、同じ理由で科学的な解釈を拒絶するのである。


 もしも意識が、幸福が、愛情が、科学的に解明され、何度でも再現され、いくつでも複製されるようになれば、意識は自己の存在意義を失うことになる。自他の区別は曖昧になり、自分とは何かを知ることが困難になる。現実に、科学的価値観が蔓延した現代社会では、自己の存在価値が軽視され、自立した意識は葬り去られようとしている。人間は社会システムに依存し、その一部を構成する機械として振舞うことを要求される。幸福はあらかじめ決められた形を持ち、愛情は決められた形式に則って表現される。そこに、人々が心の底で欲している真実はない。全ては再現されたもの、複製されたものに過ぎないからだ。


 人が自分自身に求めるもの、自己を確立するために必要不可欠なものは、独自性であり、単独性である。科学の身上である再現性と同一性は、自己の確立にとって有害な障壁となるだろう。科学の世界と心の世界は互いに協調すべきものであって、侵食すべきものではない。