夜中に、「怪奇大家族」という番組がやっている。ギャグホラー(ホラーギャグ?)といった感じのドラマ。監督は「呪怨」の清水崇とその仲間たちだ。関東ではもう終了したらしいが、こっちは今12話くらいだ。

出演陣がある意味豪華。みんなそれぞれクセのある人ばかり。主人公の長男・清四は、映画「半落ち」に出演していた。妹役の女の子は「デビルマン」に出ていた。あとは室井滋、モロ師岡、藤村俊二。おばあさん役の人は知らない。あと、脇役で出演している女の人は皆そこそこ綺麗どころが揃っている。

内容はバカバカしいというかシュールというか、マンガチックというか、あほらしい。

オープニングは、昔のウルトラQとかそんな感じ。音楽も。そうそう、サントラCDを買った。歌や音楽だけでなく、効果音なども入っていた。でもエンディングは入ってなかった。そのことがジャケットの帯(?)にはっきり書いてある。

ドラマの最初に入るナレーションはこんな感じ。

「家・・・そこに生き、そこに死んだ人や物たちのさまざまな思いが堆積していく大きな箱。ある家族が移り住んだ。祖父が死んだ。忌まわしい場所の記憶が語りかけ始めた。不思議な力を獲得した長男は、立ち上がらざるを得なかった!」

「立ち上がらざるを得ない」っていうところがミソ。なんか積極性がない。

んで、オープニングテーマが「るるるる~るるる~・・・」なんてスキャットだけなのに歌詞の字幕が出る。ケバい赤や緑のぐるぐるした背景にシルエットが出てきて、それぞれメインキャストが出る。主人公の家で飼われている犬も出る。この犬、ドラマの中ではシバっていう名前(柴犬だからだね)だけど、本名(芸名?)は「元泉ぽん太」というらしい。これはオープニングで出して欲しかったな。

そしてエンディングは、家の裏庭でおばけが徐々に増えていくイラストと、やたら早く流れるスタッフロール。動体視力を試そうというのか。

こないだ見た回に出ていた、霊媒師:十中八九郎(となかはちくろう)の弟・十中九十郎(くじゅうろう)って、あきらかに日本人ではなかったけど、あれ誰かな?そもそも、兄がベタベタな日本人で、弟がなんで外国人なのか?というマトモな突っ込みは意味を成さないのがこのドラマ。

それから、毎回のようにAV女優の及川奈央がチョイ役で出てきては、お化け(+その他)に驚いて「きゃ~!」と叫ぶ。しかも巨乳だから、「ボイン、ボイン」という効果音がつく。なんだかよくわからない演出。でも面白い。

とにかくこれは面白いドラマだ。




タイトル: 怪奇大家族 DVD-BOX
 二足歩行ロボットが登場する時代になっても、非科学的な印象のある占いに人気があるというのは面白い現象だ思う。占いというのは一種の統計学だと聞いたことがある。生年月日や名前や手相から、人生の傾向を探ろうという試みが発達して、様々な占いの体系が作られたのだろう。

 現代における統計学でも、結果を予測するという目的でそれなりの成果が上がっているのだから、数百年、あるいは千年以上の歴史を持つ占いが、それ以上の成果を出すことができても不思議ではないのかもしれない。歴史に裏付けられた精緻な手法が存在し、それを用いていればの話だが。なにしろ、つい最近になって考案された、統計的な裏づけも、思想の欠片もなさそうな占いがたくさんあるのだから。

 しかし、占いの思想も仕組みも知らない人たちが、自分の生年月日などからはじき出された結果を見て一喜一憂するというのは妙なものだ。どういうプロセスを経てその答えが導かれたのか知らないまま、ただ答えだけを信じるのは、途中の計算プロセスがわからないまま、答えの欄を丸写しする計算ドリルのようなものではないか。

 人はいつも、自分がこれからどうなるかを気にする生き物らしい。明日はどうなるか、来週はどうなるか、来年は、10年後は、老後はどうなるかを気にする。しかし人生の最終的な結果は死だ。それは誰にでも、どんな命にも共通する答えである。すべては死へ向けて流れ行く過程であり、明日や10年後はその途中経過に過ぎないのに、途中経過の一部だけを切り抜いて、そこで自分がどんな状態なのかを気にすることに、どんな意味があるのだろう。その状態もまたすぐに変化し、最終的な結果である死へと流れて行くのに。

 人生の全ては流れ行く途中経過で、その途上にある原因や結果は、ある時点から見た時間のひとコマでしかない。そのひとコマが、それほど重要なのだろうか?所々を切り抜いたひとコマずつでしか人生を見ることができないのは、大きな損失かもしれない。こま切れではなく、一連の流れとして人生を見ることができれば、占いの結果よりもずっと大切なことがわかるかもしれないのだ。
 良心というのは、本当にあるんだろうか?

 良心が顔を出すのは、自分が悪いことをしようとするとき、あるいは、してしまった後ではないだろうか?自分の考えや行為が悪いことだという認識の反応として、良心と呼ばれる「審判」が出てくる。

 良心が、その名の通り、本当に「良い心」なら、自分が悪いことを考える前、悪いことをする前に出て来て良いことをすればいいのに、なぜかそうしない。悪い心を追い出してくれればいいのに、追い出さない。いつでも、悪い心の後手に回る。そして文句を言うだけだ。

 それで本当に「良心」と言えるんだろうか?

 じつは、良心なんてものは存在しないのではないだろうか。悪い心を責めているように見せかけて、自分は本当は悪い人間ではないのだと、言い訳をしたい気持ちが作り出す幻。自分のしたことに気づいて、心があわてて被る「偽善」の仮面。それが良心の正体ではないだろうか。

 では、良心がなかったら、どうやってものごとの善悪を判断し、行動を抑制するのか?

 最善の行動は、良心や道徳からは発生しない。まして偽善においておや。どんな行動が善であるかを定義すること自体が偽善なのである。禍福はあざなえる縄の如し。善悪もまた然り。良い心も悪い心もない。あるのは自分自身の心だけだ。様々な定義を植えつけられた頭脳ではなく、心が全てを知っている。
 現実という言葉は日常よく使われる。「現実を見ろ」とか「もっと現実的に考えろ」などと言われる。よく使われる言葉ではあるが、その意味を深く考えた上で使っている人はどのくらいいるだろうか?

 現実とは、その言葉のとおりに解釈すれば、現れている実体だ。現にあるもの。今あるとおりの物事。だが、一般的な意味合いでは、この「現実」という言葉は、ありもしない制限、あるいは囲いを表している。

 ある夢を抱くとする。が、そこには現実という壁が立ちはだかっている。人がいわゆる現実を意識するのは、主にこういった場合だ。何らかの理想を持っている時、理想と現実のギャップに悩むことはよくある。そして、理想を実現しようとする時、現実が障害となるのだ。その現実を見て、理想を実現するのは難しいとか無理だとか考える。

 しかし実のところ、言葉の厳密な意味における「現実」が障害になることなどあり得ないのだ。なぜなら、現実は今あるところのものであり、それは変えようのないものだからだ。理想は未来にあり、現実は今ここにある。未来は不確定だが、今は確定している。理想と現実が接触することはありえない。

 「現実を変える」という考え方は正確ではない。現実はすでに起きていることであり、それ変えることは不可能だ。変えられるのは未来だけだ。いや、変えるというのも違う。変えるのではなく、作るのだ。現実はすでに作られているが、未来はこれから作ることができる。

 夢見る若者が挫折する原因となる現実は、実際には現実ではない。夢を実現しようとする過程で起こる他者の反発や、彼に要求される努力の多大さ等々に対する恐怖や不安を「現実」と呼ぶのだ。両親に反対されたり、恋人と別れなければならなかったり、同じ目的地を目指すライバルの存在などがある。また社会人であれば、上司や先輩、同僚の目、失職への恐れ等が現実と呼ばれる。簡単に言えば、しがらみというやつだ。

 いわゆる現実とは、本当の意味での現実世界ではなく、内面的な不安や恐れによって作り上げられる仮想の障壁なのだ。そして、こうした内面的な障壁によって挫折させられる夢や理想というのは、たいていの場合、現実逃避のための口実でしかない。つまり、始めからそれを実現しようという気はなく、何らかの夢想を抱くことによって現実から目を逸らしていたいという気持ちが、決して実現しない夢を作り上げるのだ。

 実現しない夢を追いかけ、堂々巡りを繰り返すことによって、退屈な日常から逃避し、自分は夢を追いかけているのだという言い訳を自分自身にしながら、小さな自分を覆い隠す。それが夢を追いかける若者の実体であり、理想を標榜する大人の実体と言えるだろう。彼らは現実に邪魔されているのではなく、現実から逃げているだけなのだ。そして彼らのいわゆる「現実」に閉じこもったまま、貴重な人生を無意味な活動で浪費していく。

 それが本当の「現実」の姿なのではないだろうか
 散歩しようと思って、河原に行った。幼い頃、父に連れられて釣りに来た場所より、少し河下のほうだ。そこには渡し場の跡があるが、跡と言ってもあるのは看板だけで、それらしいものは見当たらない。河原に降りていく道があるだけだ。

 河原に出る道の途中、草や樹が生い茂っていたが、そのなかに秘密基地を発見した。コンクリートの柱を組んだ所に、丸太や板切れがくくりつけてあり、拾って来たソファや椅子がある。ゴルフクラブや、折れた釣り竿なども散らかっている。どう見ても秘密基地だ。

 秘密基地を過ぎて河原に出た。水は少なめで、流れは穏やかだった。座るのに適当な石を探してうろうろしていると、川上のほうからガァガァとわめく声が近づいて来た。カモだ。向こうから近づいてくるとは珍しい。人がいるのに気づいていないのかな?

 しかし、カモはどんどん近づいてきた。3羽いる。頭が緑色のオスと、茶褐色のメス、茶色で、体にラインが入って色が分かれているもの。どういう関係の3羽なんだろう?夫婦と子供かな?

 3羽は間違いなく僕を目指して泳いでくる。座って待ち構えた。目の前まで泳いでくると、そこに留まってうろうろしている。どうやら餌を期待しているようだ。人に飼われていたんだろうか?何も持っていなかったので、そのまま対峙していたら、餌がないと気づいたのか、あきらめて河上へ帰って行った。

 近くのコンビニでスナックパンを調達して、また河原に来た。すると目ざとく人影を発見したあの3羽がガヤガヤとやって来た。さっきと同じ人間だということが分かるのか、あまり近くまで寄って来ない。しかし、スナックパンの袋をガサガサ開けると、すごい勢いで近づいて来た。現金なやつらだ。

 パンをちぎってカモの目の前に投げてみた。突進するような勢いで餌に飛びつくカモたち。餌をとれなかったカモは不満の声をあげている。できるだけ均等に行き渡るように投げたが、体の大きなオスがどうしても多くの餌を取ってしまう。

 後ろから、子供の声が聞こえて来た。カモが珍しいんだろうか。すぐ後ろまで来て、「こんな近くで見たの初めてだ」と言っていた。一人の子供が、彼の武器である伸縮式の竿を一振りすると、カモたちは驚いて逃げて行った。しかし餌に未練があるのか、飛び立ちはしない。竿を振った子供が、仲間の非難を浴びていた。

 子供たちと二言三言、言葉を交わした。一人で河原をうろうろしている大人が珍しかったのだろう。話しているうちに気を許したのか、いろいろと質問された。竿を振った子が、秘密基地へ招待してくれた。彼は、そのグループの中で一番よく喋る子だった。子供たちは当たり前のように無防備で、友好的だった。

 秘密基地へ着くと、自分の気に入ったソファに座るように勧められた。この秘密基地を知っている他の友達のことや、いろいろな設備のことを教えてくれたりもした。大きな木を利用して、ブランコやシーソーが作ってあった。いろいろなガラクタも見せてくれた。自分の子供の頃と比べて、これだけの秘密基地を作った彼らを羨ましく思った。

 子供たちは、樹に登ったり、太い枝の上に作られた基地の二階へ上がったり、手製の弓でススキの矢を飛ばしたり、ゴルフクラブでソファを叩いたりして遊んでいる。ブランコに乗った子の近くで、もう一人の子が鋸を使っていた。見ているこっちがハラハラする。しかし彼らは平気な顔だ。子供は怖いもの知らずだ。それがまさに子供の特権という感じがした。

 秘密基地をしばらく見学させてもらってから、子供たちと別れた。童心に帰ったというわけでもないが、楽しいひと時だった。子供は不思議な存在だ。自分がかつて子供だったことが信じられないくらいに。