二足歩行ロボットが登場する時代になっても、非科学的な印象のある占いに人気があるというのは面白い現象だ思う。占いというのは一種の統計学だと聞いたことがある。生年月日や名前や手相から、人生の傾向を探ろうという試みが発達して、様々な占いの体系が作られたのだろう。

 現代における統計学でも、結果を予測するという目的でそれなりの成果が上がっているのだから、数百年、あるいは千年以上の歴史を持つ占いが、それ以上の成果を出すことができても不思議ではないのかもしれない。歴史に裏付けられた精緻な手法が存在し、それを用いていればの話だが。なにしろ、つい最近になって考案された、統計的な裏づけも、思想の欠片もなさそうな占いがたくさんあるのだから。

 しかし、占いの思想も仕組みも知らない人たちが、自分の生年月日などからはじき出された結果を見て一喜一憂するというのは妙なものだ。どういうプロセスを経てその答えが導かれたのか知らないまま、ただ答えだけを信じるのは、途中の計算プロセスがわからないまま、答えの欄を丸写しする計算ドリルのようなものではないか。

 人はいつも、自分がこれからどうなるかを気にする生き物らしい。明日はどうなるか、来週はどうなるか、来年は、10年後は、老後はどうなるかを気にする。しかし人生の最終的な結果は死だ。それは誰にでも、どんな命にも共通する答えである。すべては死へ向けて流れ行く過程であり、明日や10年後はその途中経過に過ぎないのに、途中経過の一部だけを切り抜いて、そこで自分がどんな状態なのかを気にすることに、どんな意味があるのだろう。その状態もまたすぐに変化し、最終的な結果である死へと流れて行くのに。

 人生の全ては流れ行く途中経過で、その途上にある原因や結果は、ある時点から見た時間のひとコマでしかない。そのひとコマが、それほど重要なのだろうか?所々を切り抜いたひとコマずつでしか人生を見ることができないのは、大きな損失かもしれない。こま切れではなく、一連の流れとして人生を見ることができれば、占いの結果よりもずっと大切なことがわかるかもしれないのだ。