醜い自分、欠点を持つ自分、他人より劣っている自分、様々な面で理想からかけ離れた自分。そういう自分を理想に近づけ、より良い自分になろうとするのは、ありのままの現実、醜い自分という現実からの逃避だ。


 より良い人間になろうとするのは、心の醜さから生まれる反動であって、それはまさに偽善の極みと言えよう。自分自身を醜いと断じている者は一体誰なのか?醜い自分が、欠点だらけの自分が、自分自身を批判することのどこに正当性があるだろうか?「醜い自分」を批判している「自分」は醜くないのだろうか?理想に逃避しようとする自分の努力は醜くないだろうか?


 醜悪さを自覚することと、そのありのままを認めることとは、全く別の問題である。単なる自覚は、自分から切り離された他人の視点で構築されている。いわゆる客観視というものだが、これは逃避の第一歩である。傍観者の視点を手に入れた自分は、まるで他人事のように自分を批判し始めるわけだが、批判している自分もまた醜い自分と同一の存在であることを忘れている。自分の醜さを棚に上げて、自分を批判しているのである。その醜い自分が、自分の醜さを棚に上げたまま、より良い自分を求める。醜さを背負ったまま、美しさを求めるのだ。


 まず、自分自身の醜さから逃げることなく、認めることが先決だ。その醜さの全体から細部に至まで、「醜さ」とは何かを理解するまで、見つめ続ける忍耐が必要だ。美しさを求めて伸ばした手に、醜さを掴んだままでは話にならない。美しさを求めるという「醜い行為」をこそ止めねばならない。より良い自分になれるという「自惚れ」を捨てねばならない。


 それを知った自分は、醜さを捨てるために再び努力を始めるだろう。しかしその努力もまた、醜さからの逃避であることを理解しなければならない。自分には醜さを克服できるという幻想を見抜かなければならない。醜いままの自分が何をしようと、醜いものしか生みだせないからである。そのことを理解し、醜さから逃げるための行動が全て止んだとき、自分の意志や努力とは関係なく、醜さは自然に剥がれ落ちていく。

 公園が好きで、よくブラブラしに行く。しかも、ハトやカラスがうようよしている公園が好きで、彼らにコンビニで買ったパンなどをやるのが面白い。「ハトに餌を与えないでください。自然の摂理に反します。」みたいな看板が立ててある公園もあるのだが、これだけの敷地を人の手でいじくりまわしておいて何が自然の摂理か!と思いながら餌をやる。


 公園のハトやカラスに餌をやっていると、それに混じって必ずと言っていいほどスズメがいる。ハトは餌をもらいなれているし、基本的にバカっぽいので人を恐れない。油断すると膝の上や腕に止まろうとする輩もいる。カラスは見た目のわりに臆病で、ハトほど近くに寄ってこない。スズメはカラス以上に臆病だが、餌を取る時の動作は一番敏捷だ。


 餌をもらっている時の彼らの動きを見ていると、それぞれに特徴があって面白い。ハトは人が餌を投げるところより、餌が落ちた場所を見ている。そして仲間の動きに敏感で、餌を食べている仲間に向かって集まる。カラスは餌の行方をよく見ている。ハトは餌が自分の頭に当たったり、目の前に落ちてきて初めて餌が飛んできたことに気づくが、カラスは動体視力が優れていて、投げられた餌をダイレクトキャッチできる。スズメは、ハトやカラスより離れた場所から人の動きをよく見ている。そして、ハトやカラスの群れから離れた場所に餌を投げると、どこからともなく飛んできて餌をかっさらっていく。


 最終的には、その圧倒的物量でハトが一番餌をもらっている気がする。だからいつもハトよりはカラス、カラスよりはスズメをひいきする。ごく稀に、ムクドリに遭遇するとそっちが最優先だ。ムクドリはスズメ以上に人に慣れないので、餌をやれることは滅多にない。彼らはハトやカラスが群れているような場所にはやってこない。


 ハトに餌で思い出したが、新聞の投書で、ハトがたくさんいて車にフンをするので、迷惑だからハトを増やさないために餌はやらないで欲しい、というのがあった。ハトの命より車が汚れないことのほうが大事らしい。車に鳥のフンがひとつも落ちない世界ってどうなんだ?世の中にはそういう世界を望む人がたくさんいるので、ますます自然は破壊されていく。餌をやるかやらないかは問題ではなく、常に人間の都合で物事を考えてしまうことが問題だと思うのだが。

 理由の有無に関わらず、それを考えている者はすでに生きている。生きているから問いを発することができる。考えることができる。何のために?という問いの上に生きているのではない。生きている上で、何のために?と問うのである。


 理由・意義・原因など、思考上の概念によって「生きる」ことを定義しようとする試みは無駄に終わるだろう。思考が捉えている「生」は、思考の枠組みに囚われた表面的な現象の認識に過ぎず、それは「生」そのものではないからである。


 何かのために、という思考パターンに囚われた我々の頭脳は、あらゆる物事に理由や意味を見出そうとする。そのため、あらゆる関係は打算と相互利用に終始する。そうした関係の中から生の充実を汲み取ることは不可能であるため、心は枯渇していく。


 その渇きを癒そうと、「何のために生きるのか」という問いを発するのだが、その問いこそが心の飢えと渇きをもたらす思考パターンから生まれているので、我々の心は満たされることのない無限ループを廻り続けるのである。

 選挙だ。でも選挙権を得てこの方、投票に行ったことがない。政治には興味がないし、「清き一票」とやらが果たして本当に清き目的に資するものかどうかも疑わしい。今までは、投票しないのが当たり前のように思っていたので投票しなかったのだが、面倒だからなんとなく投票しないわけではない。投票しないのには、何か明確な根拠があるはずなのだ。今回の選挙を期に、なぜ自分が選挙に参加しないのかを改めて考えてみた。


 そもそも、選挙とは何か?民主政治とは何か?というところから考えねばなるまい。少数のエリートに権力を委譲することによって、社会をより良い方向に動かしてもらおうというのが民主政治の目的であると思われる。民衆は選挙によって少数の権力者を生み出し、その権力の恩恵に預かろうとする。しかし個々の人間の求めるものはそれぞれバラバラであり、立場により、状況により、政治に求めるものは様々に変化する。


 形は変わっても、人が求めるものは根本的に変わらない。何はともあれ自己の生活の向上であり、利益の追求であり、理想の具現化である。そして選挙が行われた時点で、より多くの人々が持っていた欲求が、その欲求に応えようと約束する人物を権力者に仕立て上げる。


 何かをして欲しい、何かを与えて欲しいという欲求は、依存心から生まれてくる。民衆は政府に依存する。民衆の依存度が増すほど、政府は儲かる仕組みになっている。当然ながら、政府も民衆に依存している。両者は共依存の関係にある。政府の有り様は、民衆の欲求と依存が具現化した姿であると言えよう。


 「あなたの一票が社会を変える」というのは明らかに嘘だ。また、社会を変えるために投票するというのも欺瞞である。本気で社会を変えたければ自分が政治家になればいい。自分では社会を変える気がないから他人にその権利を譲る、それが選挙なのだ。もちろん、政治家になったからといって自分の思うように社会を変えられるわけではない。政治家が民衆を道具として扱うように、民衆にとっての政治家も道具に過ぎないのだから。


 僕には、世の中を変えたいという欲求がない。世の中を変えるより、自分を変える方が早くて確実だ。そして自分が変わらなければ、世の中も決して変わらない。そもそも、現状の社会システムを維持したままで世の中を変えようなどという考えは矛盾している。現在の社会はその構造からして、貧困や戦争や犯罪や差別を引き起こすような仕組みになっている。


 僕は、人でありたいとは思うが、日本国民でありたいとは思わない。国や地域の文化を否定するつもりはないが、人が本当に解決しなければならない問題は、日本人であるとか、政治がどうだとか、そんな皮相なことにこだわっていて解決できるほど、生易しいものではない。権力者や専門家に任せるのではなく、個人個人が直接向き合わなければならない問題がある。それに気づいたら、選挙どころではなくなるのだ。

 自分が幸せであることを受け入れるために越えなければならない壁、というものがある。


 よくあるのは、幸せになるためにはある条件を満たさなければならないという考え方だが、それは正しくない。条件を満たすことで得られるのは満足感であって幸せではないからだ。満足感と幸せとは全く別物である。しかし単なる満足感を幸せと呼んでいる人も多い。


 自我の本質は、幸せを望んでいない。完全に満たされることを望んでいない。満たされてしまえば、自我の活動する空間がなくなるからだ。不満、不安、不完全、孤独・・・自我が存在し続けるためにはこれらが必要なのだが、幸せの中でこれらのものは消失してしまう。


 あなたの自我は幸せを遠ざけることによって自らを存在せしめている。自我はどうあがいても幸せにはなれない。あなたは幸せを求めているのではなく、自我の存続を求めているのだ。