醜い自分、欠点を持つ自分、他人より劣っている自分、様々な面で理想からかけ離れた自分。そういう自分を理想に近づけ、より良い自分になろうとするのは、ありのままの現実、醜い自分という現実からの逃避だ。
より良い人間になろうとするのは、心の醜さから生まれる反動であって、それはまさに偽善の極みと言えよう。自分自身を醜いと断じている者は一体誰なのか?醜い自分が、欠点だらけの自分が、自分自身を批判することのどこに正当性があるだろうか?「醜い自分」を批判している「自分」は醜くないのだろうか?理想に逃避しようとする自分の努力は醜くないだろうか?
醜悪さを自覚することと、そのありのままを認めることとは、全く別の問題である。単なる自覚は、自分から切り離された他人の視点で構築されている。いわゆる客観視というものだが、これは逃避の第一歩である。傍観者の視点を手に入れた自分は、まるで他人事のように自分を批判し始めるわけだが、批判している自分もまた醜い自分と同一の存在であることを忘れている。自分の醜さを棚に上げて、自分を批判しているのである。その醜い自分が、自分の醜さを棚に上げたまま、より良い自分を求める。醜さを背負ったまま、美しさを求めるのだ。
まず、自分自身の醜さから逃げることなく、認めることが先決だ。その醜さの全体から細部に至まで、「醜さ」とは何かを理解するまで、見つめ続ける忍耐が必要だ。美しさを求めて伸ばした手に、醜さを掴んだままでは話にならない。美しさを求めるという「醜い行為」をこそ止めねばならない。より良い自分になれるという「自惚れ」を捨てねばならない。
それを知った自分は、醜さを捨てるために再び努力を始めるだろう。しかしその努力もまた、醜さからの逃避であることを理解しなければならない。自分には醜さを克服できるという幻想を見抜かなければならない。醜いままの自分が何をしようと、醜いものしか生みだせないからである。そのことを理解し、醜さから逃げるための行動が全て止んだとき、自分の意志や努力とは関係なく、醜さは自然に剥がれ落ちていく。