理由の有無に関わらず、それを考えている者はすでに生きている。生きているから問いを発することができる。考えることができる。何のために?という問いの上に生きているのではない。生きている上で、何のために?と問うのである。


 理由・意義・原因など、思考上の概念によって「生きる」ことを定義しようとする試みは無駄に終わるだろう。思考が捉えている「生」は、思考の枠組みに囚われた表面的な現象の認識に過ぎず、それは「生」そのものではないからである。


 何かのために、という思考パターンに囚われた我々の頭脳は、あらゆる物事に理由や意味を見出そうとする。そのため、あらゆる関係は打算と相互利用に終始する。そうした関係の中から生の充実を汲み取ることは不可能であるため、心は枯渇していく。


 その渇きを癒そうと、「何のために生きるのか」という問いを発するのだが、その問いこそが心の飢えと渇きをもたらす思考パターンから生まれているので、我々の心は満たされることのない無限ループを廻り続けるのである。