なぜこのような物が屹立しているのであろうか…。
かつてこの鈴が峰山で起こったある〝事件〟について書かれた、一冊の本に出会ったのである。
そして、急遽取り寄せ読み進めるうちに、
運命という残酷さをまじまじと思い知ることとなった。
今から75年前の、1945年7月28日。
太平洋戦争敗戦間近のこの日、日本本土最後の海空戦「呉沖海空戦」が勃発していた。
米国艦載機・爆撃機の大編隊が来襲し、
江田島近海に身を潜めていた日本軍の残存艦艇を激しく空爆したのである。
日本軍の迎撃むなしく、艦艇のほとんどが転覆、大破着底した。
これにより、日本の戦力はほぼ壊滅したのであった。
実はこの時、一機の米国重爆撃機B24が戦艦「榛名(はるな)」の主砲三式弾を被弾し、
広島市上空を横切りながら〝鈴が峰山麓〟に墜落した、というのである。
そしてその墜落地点は、現在の広島ゴルフ倶楽部・鈴が峰コース第5番ホールの辺りだという。
そこで、MAPにワタクシが遭遇した金属の棒の、だいたいの位置を書き加えると…
位置的にはかなり近いが…
ただ、75年も前のことである。
墜落位置の正確な情報も無く、それが墜落したB24の機体の一部だったのかについては、
結局のところよく分からない。
当時、搭乗員には生存者もいたが、ほとんどは墜落死し、
驚くことにその遺体は周辺の住民によって丁重に葬られている。
しかし、
憎き敵国の兵士を“勇士”と称え、手厚く葬った住民たちの思いとは、何だったのだろうか。
言葉も通じない遠い異国で命を落とさなければならなかった名も知らぬ若き青年たちに、
何かを重ね合わせたのであろうか…。
そのほとんどが20代の若者だった。
そこで「じきに広島が一瞬で壊滅するような爆弾が落とされる」と警告を発したが、
無情にも聞き入れられることは無かった。
そしてわずか9日後の8月6日、母国の新兵器・原子爆弾によって被爆死した。
運命とは残酷である。
もしもたった1発の砲弾が機体をかすめていなかったとしたら、
もしも米兵の警告を聞き入れ、司令部が市民を避難させていたとしたら、
数日後に訪れる“終戦”の日を、
B24の搭乗員も、広島市民も、歴史とは違う形で迎えていたのかもしれない…。
















