小学生の時、村上Y君という同級生がいた。長頭系で何処か、ユダヤ系の大きな目をした日本人離れをした顔の子だったような気がする。
今思えば、坊主頭がアウシュビッツの子供の姿を彷彿とさせる。誰彼となく彼を虐めていた。最後には彼は悲鳴を上げていた。その悲鳴が今も頭から離れない。
彼の家は海を前にした小学校の校庭から見える急斜面の山の中腹に、ポツリと一軒立つ小さな山小屋のような家だった。それも誰に聞いたというわけでもなく、そうだと思い込んでいた。
彼の母親は学校給食のおばさんとして働いていたのだが、子供心にも、いわく有ありげだった。というのも、その連れ合いが酒飲癖が悪く、夫婦仲があまりよくないという噂のようなものを耳にしていたからだ。
でも小学6年になる前の頃に、彼は両親の離婚と共に、母親と一緒に大阪へ行ってしまったと聞いた。彼の家庭で何があったのかは知らないが、何故か悲しい思い出だ。
それから、50年以上たった時、故郷でガラス工房を営むN君と、ジャズバーのカウンターで彼のことをを聞いた。
彼の話によると、実は彼の家というのは船で、学校から誰にも知られないように帰っていたんだよと聞かされた。私の全く知らない話だった。
そんな事実を知ったある日のこと、書棚の中に小学生の同窓名簿を見つけた。なんと、その中の彼の苗字は村上ではなく、母方の苗字なのだろうか、小早川となっていた。
小早川氏と言えば、あまりありがたくない不名誉な戦国武将だということは誰でも知っているが、関ヶ原で西軍を裏切った秀秋に子孫はなく、その後に毛利家が小早川家を再興しているから、汚名は秀秋一代限りのものだ。名門は名門であるには変わりはない。
それから何年かたった日に、幼馴染のH君に、その小早川君のことを尋ねると、彼はもう亡くなっていた。勝手な想像だが、おそらく彼は大阪に出ても不遇だったのかもしれないない。どこに行っても、虐められる人生というのはあるようで、人間の残酷さというものはどうしようもないものだ。たまたま私がそうではなかったと言うだけだ。