高校の先生 | return-of-cd125tのブログ

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 私の行った高校は進学校で、ほとんどの生徒が大学を目指しての勉強するためだけの高校だった。私のように漠として盲目的な将来を考えていない生徒の住む場所ではなかった。今にして思えば、工業高校に行っておけばよかったと思う。

そういう進学校であるから、公立でありながらも受験のための優秀な教師が配属された学校だったと思う。面白みのない授業だったのは仕方のないことだった。頭の良い勉強が出来る大学を目指す生徒の行く高校であることくらいは解っていなければならなかった。いまさら、どうも変だなと思っても、せんない事だ。

 

当時は、どこの学校でも、そうだったように、部落問題などで学校が荒れていた時代であったので、尚更、高校は面白くないところになった。そんな最中でも能力に応じた大学を目指して、そこそこ頭の良い目標のある生徒たちは高校生活を満喫、謳歌していたようである。志というものとは少し違うように思うのだが、とにかく目標を持つことは良いことだ。

 そんな、つまらない高校の授業でも唯一、面白かったのは、東京出身の井田成明という風変わりで、小さな体のわりに頭の大きな先生の国語の授業だった。東京から、なぜこんな地方の高校に赴任してきたのかは謎なのだが。

それは国語の授業の間の短い雑談で人相の話だった。私の高校生活3年の間の記憶に残るただ一つの授業なのだから、いかに高校時代が不毛だったのかがわかる。

 

それから、都会に出て職を何回も変えながら雑多で無駄とも思える時間を過ぎて、数奇と思える結婚をした後、何を思ったのか、その先生に年賀状を出したら研究中の国際政治学のコピーを送ってくれた。

 

そんな高校時代の一コマの授業が今の私の人生の幅を広げてくれ、楽しいとは思えないこの世の見方をも変えてくれた。人生の巡り合わせとは不思議なものだ。こういうふうに人生が展開してゆくとは思いもよらなかった。こんな何のとりえのない人間に居場所を与えてくれているのが何者かは解らない。そんな私も、いずれはこの世から消えていなくなる。これもまた不思議というしかない。