人生の意味 | return-of-cd125tのブログ

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私の人生の出発点において、何かになりたいなどという気持ちは微塵もなかったように思う。そういう実利的な人生設計や夢のようなことを描く前に、何のために生きているんだろうという観念的なものが心の大部分を占めていて、将来への思いも茫漠混沌としていた。中学生ともなると何のために、人生の意味とは何ぞやと凡庸な知能で考えあぐね、もがいていた。何かに熱中するということもない、ただ山野を駆け巡る知能の足りない孤独で呆けた野生児だった。これが、少しでも開けた街にでも生まれていれば、私の世界観は今のものとはまるで違ったものになっていただろう。

母親は神戸の女学校を出ていて、それなりの教養も持っていたが、その大半が戦時下の不十分な教育であり、その知性というのも怪しいものだった。父親は尋常小学校もろくに出ていない無学でありながら運よく、写真技師のような仕事を得て、上海でそれなりに身を立てていた。それでも無教養というのはどうしょうもなく、父は学歴のなさを痛感していたに違いない。進取の気質に富んだハイカラな性質とは裏腹に私はこの父親の人間的な弱さのないところに物足りなさと、知性の欠如を感じていた。でも、そうでもなければ、戦争中の南方のジャングルの中の、生死を分ける戦いで生還などできなかっただろうとは思う。

父と対照的な人が母親の兄で放浪癖のある人で、なんとなく好きだった。何か自分と共通するものを持っていたのかも知れない。戦前の軍服姿は立派だった。将校だったのか軍刀を引っ提げている写真があった。戦後180の価値観の変化で,境遇も人生感も一変したのだろうと思う。その叔父は英語もかなり堪能であったようだ。時計職人でもあったとも聞く。母親にとっては尊敬すべき兄ではなかったようで、叔父に私が感化されることを恐れてか、彼から遠ざけようとしているのが解った。

 

この人生観の決定的に異なる叔父と父親に共通するのは、あのたった4年の間に起こった大東亜戦争が、その人生のどこを切り取っても金太郎飴のように、否応なく顔を出す特異な時代に生を受けた希少な存在なのだが、果たして、本人たちはその時代の大きさと偉大さに気が付いていたのだろうか。