人間が死の恐怖を感じるのは、簡単に死ぬことが出来ないように何者かが組みこんだ安全装置なのだろうか | return-of-cd125tのブログ

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今日、目覚める前に、夢うつつの中で、考えていた自分がいた。大袈裟だが、絶体絶命の窮地に立たされたことが何度もあるが、それが、死ぬほどのものでもない小さなものだったから、今でも生き永らえているのかもしれない。三島由紀夫があのような劇場的な死に方をしたのは、彼が役者であり、有名な小説家だからだ。普通の生活者はあんな死に方はしない。生活第一だからだ。大体、文学者というものは生活というのは第二番めくらいだから、芥川とか太宰のような人ばかりだと、自殺者ばかり増えてどうしょうもない。私のように、生まれてこの方、積極的人生というものに無縁の者に、元々、夢のようなものもない。だから、夢は破れたりしないし、それで絶望して死ぬようなこともない。努力ということもしたことはない。途方もない怠け者だ。それでも、人生というのは今のところ、不完全で危ういながら、成っているのだから不思議でしょうがない。やはりこの世は夢うつつに違いない。